わたし(家庭教師)

気分積分―9―

 ……さて。ファシルに謝ろう! なにがなんでも仲直りしよう!
 そう決めたのは、いいけれど……。どうやって、ファシルに謝るかだよね。朝なんて華麗に無視されちゃったし、休み時間の間だっていちいち女の子達が群がるしさ。モテモテすぎるのも時には考えものだ。
 やっぱり、放課後しかないのかなあ。でも問題はタイミングだよねえ。逃げられないようにすぐにファシルに声をかけたほうがいいんだろうけど、授業の後ってみんながここぞとばかりにファシルに質問しに行くんだもん。先生形無し。
 うーんと首を捻ると、美夜ちゃんが呆れたように溜息をついた。
「それで? 一度スルーされた安登さんは、どうやってファシル君を捕まえるのかなあ? また、スルーされるかもよ」
「えー……それは、まあ、成せば成る!…………はず?」
「疑問系かい……」
 だって、私そこまで難しいことに頭廻らないよう。ぱーっと行ってぱーっと連れ去ってぱーっと仲直り!じゃあ、駄目なのかなあ。
「駄目でしょ」
 ぱこん、と教本の角で窘められた。痛いよう。今日の美夜ちゃんはいつもの二割増しピリ辛なモードな気がする。頭をさすりつつ恨めしげに見つめてみても、呆れた顔を返されちゃうだけだった。
「わかった」
「なに? 何か名案思いついたっ?」
 仕方ない、なんて微笑で、美夜ちゃんは肩をすくめた。
「私が放課後になったらファシル君をここに連れてくるから、安登はここで待ってて」
「ええ? いいの? そんなことして」
 確かに、今日は部活が休みの日だからちょうどいいのかもしれないけど。でもなんだか美夜ちゃんにファシルを騙してつれてきてもらうっていうのも、そこまでさせちゃうのがなんだか申し訳ないような気がするな。
 でも美夜ちゃんはそんな私の気持ちも察しているのか、承諾するように頷き返してくれた。
「ちょっと邪道だけど仕方ないじゃない。向こうが聞く気皆無みたいなんだから、多少強引なくらいじゃないといつまで経っても掴まらないと思うよ」
 そ、それはそうなんだけど……。でもなあ、そういう小細工したらきっとファシル怒るんだろうなあ。騙すのはいいけど騙されるのは死んでも我慢ならないとか思ってそうなタイプだもんなあ、ファシルって。うう、あとでねちねち嫌味言われる自分が想像できる。
 でも背に腹は換えられないし、ずっとこのままなんて、そっちの方が嫌だし。ここは一つ、勝負に出てみちゃおうかな!
「よろしくお願いします!」
 箸を持つ美夜ちゃんの右手ごとがしっと掴んで、お願いした。
「う、うん……」
 私の勢いに気圧された美夜ちゃんの箸からは、食べかけの卵焼きが所在無げぽとりと転げ落ちていた。


 ――――そして、来るべき放課後。私は美夜ちゃんの言いつけどおり誰も居ない部室で、間もなく訪れるであろう二人を待ちながら、ファシルにかけるべき言葉の練習にいそしんでいた。
「ファシル、ごめんね!」
 うーん、なんか違うな。いきなりこんなこと言われても、妙に説得力ないっていうか。じゃあこれは?
「ひどいこと言ってごめんね。もうあんなこと言わないから、家に帰ってきて」
 ……こんなにスラスラ言えるかなあ。妙に薄っぺらいし。……私、文才ないのかも。思ってることは語りつくせないほどあるんだけど、言葉にして伝えようとすると途端に何も浮かばなくなっちゃうんだよねえ。ちょっと落ち着こうかな。
 一息つくためにベンチに腰掛ける。伸ばした足元に、明かり窓から切り取られた夕日の色が映った。もう、夕方かあ。部室にかけられている時計を見上げると、4時47分をさしていた。
 約束の時間が五時だから、あとちょっとだな。五時になったらファシルとお話して、何とか仲直りして、六時には学校を出るの。それで、家についた頃には双が居て、きっとお夕飯の支度をして私たちを待ってる。今日の献立も朝とおんなじで、沢山あるに違いない。張り切ってご飯を作っている双の後姿を想像したらなんだか微笑ましくなって、一人笑いを浮かべてしまう。
 ファシル、早く来ないかな。今日の食卓を想像したら、無駄に緊張していた気持ちがどこかほぐれてくれたみたい。
 私は四角い夕焼け色の日差しに足をかざして遊びながら、今か今かとファシルを待った。だけど、約束の時間を過ぎても、美夜ちゃんとファシルが部室を訪ねてくることはなかった。


 ……遅い。いくらなんでも遅すぎる。もう五時半過ぎちゃったよ? 話し込んでるのかなあ。美夜ちゃんとファシルが? 猫かぶったファシルとならありえそうだけど、それにしてもちょっと話し込みすぎなんじゃないのかなあ。
 それとも、ファシルの周りに人がまだいっぱい居て、連れ出せないとか。うん、それならありえそう。でもこんなに時間経っちゃうなら携帯に連絡くらい入れてくれるよね、美夜ちゃんなら。ブレザーのポケットから携帯を取り出してみても、いつもと同じ待ち受け画面で、着信なし。
 なーんかおかしい。先生に捉ってるとか。もしくはファシルがごねてるとか。ああ、考え出すときりがないなあ。ちょっと見に行っちゃおうかな。用心していけば途中でばったり、なんてことにはならないよね、きっと。見つけたらすぐに逃げればいいんだし。
「……いや逃げちゃ駄目でしょ」
 思わず自家つっこみが口をついて出る。あわわ、なんか恥ずかしい。誰も聞いてないよね、と今更ながら部室内を見渡して確認しつつ、誤魔化すように何回か頷いた。
 うん、逃げるんじゃなくて、ファシルと話すんだから。それで今日は一緒に帰るの。よし、じゃあ行こうかな! 意を決して立ち上がり、私は誰も居ない部室を後にした。


 教室までの通り道、不思議なことに、誰ともすれ違わなかった。まるで誰も校内に居ないんじゃないかってほど静かで、薄暗い茜色に照らされた廊下がちょっとだけ、怖く感じた。なんだか段々嫌な予感がしてきて、理由はないんだけど、教室に近づいていくごとに不安になっていく。
 なんだろう、胸がざわざわする。なんで誰も居ないの? どうして、美夜ちゃんは連絡をくれないの? 
 音の消えた校舎の中で、じわじわと心細くなっていく。頼りない気持ちをなんとか後押ししながら階段を上り終えて角を曲がったとき、教室が見えた。
 あっ、と思ったときそこから出てきたのは、美夜ちゃん。なんだかぼんやりとした様子で、片手に鞄を持って、のろのろと教室の扉を閉める。その異様な様子を見て、私はあの不安が的中したと悟った。急いで、美夜ちゃんに駆け寄った。
「美夜ちゃん!」
「……? ……あ、安登……」
 様子が変だ。ぼんやりっていうより、何かが抜け落ちてしまったみたいな目をして、私を見る美夜ちゃん。なんだか、その感じがぬけがらのようで、一瞬妙な寒気を感じてしまった。
「美夜ちゃん、美夜ちゃん? 大丈夫?!」
「……うん……あ、あたし帰らなきゃ……さき、帰るね……」
 帰るって、なに、どうしちゃったの美夜ちゃん。でも明らかに異様な様子に言い募ろうと腕を掴んでいた私の手をはずして、美夜ちゃんはそのまま振り返ることもなく行ってしまった。
「……っ」
 何かあったんだ。絶対何かあった。でなきゃ、あんな美夜ちゃん……。
 その時。動揺している私の背後で、教室の扉がひとりでに開いた。ううん、ひとりでに、じゃない。そこに立っていたのはファシル。彼は何も言わず、私の腕を掴んで教室の中に引き寄せた。
「何やってんだよ、あ・と」
「ファ、シル……」
 教室の中には、誰も居なかった。私と、ファシル以外。がらんどうの、紅く薄ぼやけた空間の中で、ファシルは窓を背に私を見下ろしていた。もう日も落ちかけているせいか、暗くて、ファシルの表情もはっきりと見えない。だけど下から見上げている私でも解る。ファシルは哂っている。それも、いつもの意地悪な、だけどファシルらしい笑いかたじゃない。昨日見たときと同じ、あの顔。あの時と同じ哂い方で、ファシルが私を見ていた。
「どうした。俺に用があるんだろ? 妙な小細工使ってまで会いたがってたみたいだし」
 小細工って、私そんなつもりじゃ。ううん、違う。私はたぶん、怖かったから、美夜ちゃんをだしに使ったんだ。美夜ちゃんの好意に甘えて、ファシルから拒絶されないようにって美夜ちゃんを使ったんだ。
 でも、美夜ちゃん。その美夜ちゃんが。
「……ファシル……美夜ちゃん、が……に、」
 美夜ちゃんに何かしたの。
 喉まで出掛かっている言葉は、けれど途中で事切れてしまった。なんだか怖くて、それ以上言えなかった。
 どうしよう。こんなことになるなんて。私。
「ああ、あの女?」
 くっ、とファシルの口角が上がる。皮肉るように、くつくつと喉の奥で哂ってる。私を見下ろす眼差しだけは、それと反するように冷え切っていた。
「貰ったよ、血。なんだよその顔。そのつもりでよこしたんだろ? この餌でどうか私とお話してください、って。なあ? 安、」
「……っ」
 ファシルの声を遮るように、短い音が鳴った。なんてことだろう。無意識に、手が出ていた。お伺いを立てるように首をかしげた彼の頬を、なんの手加減もなく叩いてしまった。
 震えが止まらない。胸のうちから、全身を揺るがすみたいに。なんだろう。悲しいのか、腹立たしいのか、解らない。ううん、違う。これは、違う。
「い……ってえな。馬鹿力」
「ファシル!」
「なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ。今なら聞いてやる」
 ファシルは、すごく、冷めた目をして私を見下ろしていた。何を言っても、今のファシルには響かないんじゃないだろうか。そんな気がした。私は、両手を握り締めて目を閉じた。
 私の、言うべき言葉。私の、今の気持ち。悲しい? 違う。腹が立つ? 違うよ。違う。この気持ちは、そうだ。悔しい。そう、悔しい、悔しいんだ。私は。
 ――――その瞬間、私はまた手を振り上げた。凍りつくような目をしたファシルを前にして、私は――自分を、思いっきりぶった。

Continued on the following page. 10/05/07up.

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