わたし(家庭教師)

気分積分―7―

 昨日、いつもよりもずっと早く眠ったせいか、いつもよりも早く起きた。いつもの朝よりなんとなく静かで、なんとなく虚しくて、なんとなく実感の湧いてこない朝だった。
 それでも日課に従っていつもよりものろのろとした動作で支度を済ませてリビングへと向う。扉を開けるのが少しだけ怖かった。
 ファシルがいたらどうしよう。でも、いなかったらどうしよう。
 二つの気持ちがないまぜになって心を重くする。
 ドアノブを掴み損ねて空を彷徨う右手。退く為か、それとも引く為にかぴくりと動いた瞬間、ノブはひとりでに下がった。
「あ、安登。おはようございます」
「……おは、よ」
 ドアに出来た隙間から双が顔を覗かせ、にっこりといつもの笑みで迎えてくれる。そのとき隙間からリビングが見えて、ファシルがいないことを確認することが出来た。
 それを残念に思うと同時にほっとしている自分が嫌になってリビングに入るのに一瞬躊躇したけれど、双に手を引かれてそのまま強引にテーブルに座らされてしまった。
 なんだか双、昨日からやけに強引だな。そんな思考もすぐに、テーブルに座った途端目の前の光景によってあっけなく掻き消される。
「え」
 目玉焼き、サラダ、クロワッサン、ベーコン、ウィンナー、スクランブルエッグ、コーンスープ、フランスパン、ヨーグルトにフルーツ盛り合わせ。
 ここは朝のバイキング会場ですか。
 そう錯覚するほどの大量な朝ごはんの品々。しかも洋風に統一してある。
 な、なに、どうしちゃったの、双。いつもこんなにいっぱい用意しないよ、ね? 
 恐る恐る顔を上げると、双はにこにこしながら取り皿にそれらのものを乗せているところだった。
「今日はちょっと多めに作ってみました」
「え。こんなに―――多過ぎるよ」
「大丈夫ですよ。これくらい余裕です、ね」
 『ね』って。いや、無理、だよ。こんなに凄いと逆に食欲湧いてこない。
 どうしよう、こんなに。参ったなあ、双どういうつもりだろう。ファシルもいないのに。余っちゃうよ、こんなの。
 途方に暮れて見つめる目前に、双が皿を置く。さっきスクランブルエッグやらベーコンやら何やらを盛っていたお皿だ。
 え、こんな量、私に食べろって?!
「双!」
「ちょっと待ってくださいね。サラダも取ってあげます。あ、好き嫌いは許しませんよ」
「そんなお母さんみたいな……って違う! 私、こんなに食べられない……食欲だって、」
 ファシルが帰ってきていないなら、ご飯だって食べていないはずでしょ。私だけ食べられないよ。
 一旦ファシルのことを考え出すと、目の前のご飯よりも気持ちがどんどんそっちの方に向う。けれど双はにこにこと笑って、次々と私の周りにお皿を増やしていく。
 もう、わかんない。昨日双が言ってくれた事は、ただの慰めだったの? 私の事落ち着かせるためだけに言ったことだったの? 双はファシルのこと、なんとも思っていないの? 
 昨日の再現のように、またぐるぐると想いが廻っていく。
「安登」
 思わず俯くと、有無を言わさない声で双が私を呼んだ。
 でも嫌だ。どんなに強く言われたって、答えたくない。もう、嫌になって嫌になって、何も聞きたくない。
 けれど双の両手が伸びてきて、私の頬を挟んだ。ぐっと、強制的に目線を合わせさせられる。
「食べなさい」
「でも」
「食べなさい。時間はたっぷりあるから、ゆっくり食べて、ゆっくり身体と心に余裕を持たせてあげなさい」
 妙に強気な力強い物言いと眼差し。納得いかない気持ちは十分あったのに、頷くしか他に方法が見当たらなかった。
 双はまた緩い笑顔に表情を戻して頷くと、顔を離してくれた。
「じゃあ、頂きましょう」
「……いた、だきます」
 なんとなく悔しくて不本意ぶった風に呟いて、とりあえずクロワッサンに手を伸ばした。
 食べている間、直接見たりはしなかったけれど、双が私を時折見ていることがわかった。結局続けるしかなくて暫く黙々と食べていたけれど、ふいに双が口を開く。
「ファシルは、お世辞にも優しいとは言えない子ですよね」
「……え」
「安登への態度にしてもそう、素直じゃなくて、捻くれていて、口も悪ければ態度も悪い。ですよね?」
 ごくりと、喉に止まっていたパンを飲み下す。
 うんとも言えなかったけれど、否定も出来なかった。確かに普段のファシルはその言葉通りだったから。少なくとも私の目からはそう見えていた。
 まるで双が全部見透かして普段の私の気持ちを代弁したみたいな口ぶりだった。
「それに比べて安登は、とても素直ですよね」
「……そん、な、事は」
 ないと、思うんだけど。
 なんとなく後ろめたい。目をそらしても、双はまだ私を見ていた。
「素直で、実直で、優しくて、とても良い子です」
 そんな事、言わないで。褒められているはずなのに胸が痛い。ファシルと比べるように言われていることが辛い。
 そんなんじゃない。私は、そんな良い子じゃない。だって。
「でもね、安登」
 恐る恐る目を合わせたとき、双は私を真っ直ぐに見据えていた。
 眼鏡の奥の瞳が、全部見透かしている。私に酷いことを言われた瞬間のファシルの瞳と同じ。
 二人が重なって見えた。
「ファシルが”そう見えるから”といって、必ずしも”そうだ”という訳では無いんです」
「……うん」
「ファシルが帰ってこなかったのはやはり、安登のせいです。安登が勢いで言った言葉をファシルは愚直に受け止めたから、帰ってこれなかったんです。……わかりますか?」
 うん。そう。そうだった、そうだね。私、馬鹿。本当に、馬鹿だった。
 ファシルは捻くれてた。何をしてもお礼なんか言わないし、逆に余計なお世話だといわんばかりの態度だった。いっつも私のこと馬鹿にするし、けなすし、嘲笑ってた。
 そうやってなんでも捻くれた方向にばかり目がいって、私は気づかなきゃいけないところに気付いていなかった。
 ファシルが捻くれた捉えかたばかりしていたのに、それを知りながら私はファシルに酷いことを言った。ファシルが本当に疑っていたことを、私の言葉が肯定してしまった。
『上っ面しか見えてない』
 あの言葉はやっぱり私に向けて言った言葉だったんだ。表面で取り繕っていても結局本心はそれなんだろって、ファシルは言ったんだ。
 心の底から誰かにそう思われたら、どう思うかな。
 私は悲しいよ。すごく悲しくなるよ。
 でも本心からの言葉じゃないのにそれを本心だと思われたことがこんなに悲しいなら、ファシルはもっともっと悲しかったよ。言われて辛かったよ。
 私そんな事にも気付かないで、ファシルの言葉も否定しないで、逃げたんだ。ファシルから。自分のしたことから。
 最低すぎる。最低すぎて、何も言葉が浮かばない。ファシルの顔すら、浮かべられない。
「安登。顔を上げて」
 上げられない。でも、もう誤魔化したくない。
 歪んだ表情のまま無理矢理上げると、苦笑した双がティッシュを取って私の目じりに押し当ててくれた。じわりと、優しく涙を吸い込む。吸い込んでいく。
「難しく考えないで。今回の事はただ安登が軽はずみで、彼が子供だったからというだけのことだったんですから。大丈夫。きっと仲直りできますよ」
「うぃ……」
 ぐしぐし涙も鼻水も出てくる。これじゃ本当に幼稚園児、双は保父さんそのものだよ。完全に子ども扱いだね。双に比べれば子供かも、しれないけど。
 でも、やっと本当に、落ち着くことが出来た気がする。心の底から落ち着いて、本心からファシルと仲直りしたいと思うことが出来た。
 きっと、多分、もうファシルが目の前に現れたって、怖くはならない。絶対に本心から謝ることができる。そうしたいって、思える。
 重かった胸の痛みも大分軽くなって、妙に気分はほっとして、自然と笑みが浮かんできた。完全じゃないけど大丈夫だっていう不思議な安心感から、笑みがこぼれた。
「ああ、やっと笑ってくれた」
「……うん」
 双がほっとした笑みを浮かべる。
 今だけじゃなくて、双はずっと私に笑いかけてくれていた。こうやって私から不安とか、罪悪感とか、いろんなものを取り除く為に。
 優しい。私なんかよりずっと、ずっとずっと、比べ物にならないくらい双は優しい。ずっと広がり続ける、大きな優しさを持ってる。
 すごいな、双は。すごい。ちっとも胡散臭くなんてない。こんな凄い人が、双がいてくれてよかった。
 疑ってごめんね。色々、ありがとう。
 感謝の意をこめて、にっこり微笑み返した。けど、双は未だにこにこと、とんでもないことをさらっと告げる。
「じゃ、どんどん食べちゃいましょう。満腹になれば体も満足してすっきりしますよ」
「ええっ」
 テーブルの上の料理はまだ半分以上もある。でももう、お腹いっぱいになりかけてるんですけど。
 そう目で訴えかける間にもスルーされてどんどん私の取り皿の上の料理が増えていく。限界まで挑戦って事ですか。

 そして結局、本当に無理!ってところまで食べさせられてしまった私は、お腹にできたぽっこりを気にしながら学校に行く羽目になってしまった。
 けどね、いっぱい食べたらなんだかホントに身体も心もスッキリして、気がつけばいつもと同じ軽やかさで通学路を歩いていたんだ。

 双ってやっぱり、すごいね。

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