わたし(家庭教師)

気分積分―6―

 とても苦しい。喉が苦しいよ。力いっぱい握り締められているみたいに、喉の奥が苦しくてたまらない。鼓動が早すぎて息が追いつかない。
 一体どれくらいの間走っていたのか、いつのまにか辿り着いていた家の門に手をついて、身体の重みでやっと押す。よたよたと殆ど千鳥足の状態で扉まで辿り着いて、同じように扉も開けようとした。
 けど開かなかった。それも当然だ。だってファシルはさっきまで私と一緒に学校に来ていて、私はそのファシルを置いて先に帰ったんだもん。鍵が開いてるはずが無い。ファシルがお家にいるはずなんてないんだ。
 全力で走りすぎたせいか急に力が抜けて、身体は扉にもたれかかりながらずるずると崩れ落ちていく。そこにぺたりと座り込んで、私は鞄から合鍵を探そうとその辺を手探りで探してみた。けれど、手が探るのは壁や地面ばかり。
 そこまでして、やっと気付く。鞄、置いてきたんだ。あの時落として、そのまま置いて逃げてきちゃったんだ。鍵も鞄の中。双かファシルが帰ってくるまで中には入れない。
 急に、張り詰めていた気持ちが糸みたいにプツンと、途切れてしまったような気がした。すごく悲しくなって惨めになって、膝にしがみ付いて顔を伏せた。

 私、わたし、なんて事を言ってしまったんだろう。ファシルに、どうしてあんなひどいこと言えたんだろう。どうしてファシルの話も聞かずに、あんな、ただ何か言い返したかっただけの理由でひどいことが言えたんだろう。
 最低だよ。最悪だよ。またファシルのこと、傷つけちゃった。あんなに、悔しそうで、見放されたようなファシルの目なんて今まで見たことない。
 どうして逃げちゃったの。どうしてすぐに、謝れなかったの。本当に私、馬鹿だよ――。


 そのまま、私はずっと、そこにそうしていたらしい。気がつくと辺りは真っ暗で、外灯もつけていない玄関でずっと蹲っていた。眠っていたのか、何か考え事をしていたのか、記憶はぼんやりと霞がかって定かじゃない。
 ただ走った時に感じた喉の奥、胸の底に響く痛みは呼吸とは違いいつまでも引いてくれる事はなく、私の中に燻っていた。いつまでたっても消えない痛み。それを抱えて蹲る私の頭上に、月に照らされた一際濃い影が過った。
「わ、……び、っくりしました。安登、ですよね?」
 突然降って沸いた声を見上げると、薄暗がりの中で私を見下ろす双の顔があった。がさがさと乾いた音がする。左手に抱えた大きな袋を見ると、買い物の帰りだったのかもしれない。
 やっぱり、ファシルは帰ってきてないんだろうか。目の前の双のことよりも、何故だかそっちの方が気になった。けれどもちろん双はそんな私の考えにも気付くことなく、手を差し出してくる。
「どうしたんですか、玄関の前で。鍵は?」
「……ない」
 その手をとりながらも、私は顔を上げることができなかった。目を見られただけでも私のしたことを知られていそうな気がして、怖くて、手を掴むことだけで精一杯だった。
 立ち上がってから、おかしな後ろめたさから双の手を離す。それに少し戸惑ったようだったけれど、双は鍵を取り出しながら何気なさそうに尋ねてきた。
「ファシルはどうしたんですか? 鍵がかかっているという事は、外に出たようですけど」
 ガチャリ。と、軽い開錠の音。私の中の痛みと連動したかのようだった。『知らない』なんて、答えられない。多分、私のせい、なのに。
 ファシル。
「……変ですね。安登の鞄、柵の内側に立掛けてありましたよ。何か、ありましたか? ……安登!」
「ファシルッ」
 ファシル。家に一度来たんだ。開きかけた扉を脇から滑り込んで、すぐにファシルの部屋へと向った。けれど、そこは明かりもなく誰の気配があるはずもなく、閑散とした沈黙を守っていた。
「ファシル!」
 家の中を駆けずり回って全ての部屋を調べた。今も、お風呂も、私の部屋も!でもどこにもいなくて、明りのない寒々とした部屋の中で、私一人だけが立ち尽くしていた。
 途方もない後悔がガンガン頭を叩いてくる。ファシルが帰って来ない。何故だかそれだけのことが、一生帰ってこないんじゃないだろうかという不安に繋がった。
 どうして。どこに行っちゃったの、ファシル。
「安登、一体どうしたんですか……」
 居間の明りが燈る。買い物袋を携えた双が入ってくる横をまたすり抜けようとした。
「ファシル探してくる!」
「安登!」
 すり抜けようとした私の腕を掴んで、双が止める。はっきり言って、邪魔に感じてしまう。ファシルがいなくなっちゃうかもしれない恐怖に駆られて、双にかまけている心の余裕が持てない。
「離してよっ、ファシル探しに行かなくちゃ!」
「落ち着いて、安登。どうしたんですか。理由を教えてください」
「そんな暇ない! 離してよ!」
「安登!」
 双が突然、怒鳴った。半分パニックに陥っていた頭が真っ白になる。
 双は呆けた私をじっと真剣な眼差しで見つめると、ふいにため息をついた。買い物袋をその場に置いて、私の手もそっと離してくれた。
 少し屈んで、私と目線を合わせる。それはもうさっきまでの怖いくらい強い眼差しではなくて、いつもの優しい温和な笑みを浮かべた双に戻っていた。
「落ち着いて。その様子だと、ファシルに関して何かあったようですね。全て話して下さい」
「それは……」
 話し、たくない、かも。話したら、双に嫌われるかもしれない。けれどこの期に及んでそんな自分の保身を優先させようとする自分の考えが読めて、ますます話しづらくなる。こんな最低な私だったら、話している内に妙な脚色で自分を悪者にさせないようにするかもしれない。そんなの、ずるすぎる。そんな事をしているよりも先にファシルに会って、すぐに謝って、仲直りしたいのに。本当はあんな事本気で思ってなんていなかったんだって、伝えたいのに。
 今、ファシルはどこにいるの? 何を思っているの? 悔しさで、身体が震える。
 双はそんな私を見て、少し驚いたようだった。
「……安登?」
「帰って、こないかもしれない」
 声が震える。
 やばい、泣きそう。泣きたくない。こんなのやだ。わかんない。
「私、の……せい、……酷い事、言った、の」
「安登」
 そっと、頭に手が置かれた。慰めるような手のひらが、優しく、頭を撫でる。
 ずるいよ、いっつもこうやって、心を開かせる。閉じようとする私の気持ちを、解いちゃうんだ。
「わたし……ふぁし、る……傷つけちゃった、の……」
 ぼろぼろ、ぼろぼろ、みっともないくらい、涙が零れて止められない。まるで小さい子だ。泣いてどうにかなるものじゃないのに。
なんでこんなに私は馬鹿なの? やだ。もうやだ。どうにもできない自分が、やだ。
 ファシル、ファシル、ごめんなさい。ごめんなさい。双、嫌わないで。家から、出て行かないで。
「あーと」
「ふぃ」
 怒るかと思ったのに、双はニッコリ、微笑んだ。
 心配も不安もどこにもない、満面の笑みで。
「大丈夫。分かっていますから……もう泣かなくていいですよ」
 蕩けそうなほど、優しい声と微笑み。私の頬よりも大きな手のひらがそっと包み込んで、その指先が目じりの涙を拭う。
 私が泣き止むまで、落ち着くまで、ずっと双はそうして私の傍にいてくれた。


 結局、また私はぼろぼろに泣きながら双に事の顛末を洗いざらい吐露して、泣き止んだ頃にはあらかた話し終えてしまっていた。双は起承転結も何もないちぐはぐな私の泣き言から一つ一つ真実を拾い上げて、理解してくれた。
 起こった事と、私の考えと、ファシルへの思いを、双に話している内に整理することが出来たせいか、あるいは双にそうして誘導されたお陰か、半パニックだった頭の中は整然として、私の中には悔やみ苦悩する私と、それを冷静に見つめる私が残った。
 悔やみ苦悩する私は一刻も早くファシルと会いたいと願い、そして冷静な私はそんな私を愚かだと思いながらまたずっと哀しい思いを抱えてそれを見据えた。
 多分その冷静な私は厳密に言えば私自身ではなくて、話している間にするりと入り込んだ双なのかもしれない。それほど双はごく自然に私の聞き手をこなしながら、上手に私を落ち着かせてくれた。
 双は私の話を聞いている間優しく頷きながらも、私が恐れた感情の変動を見せる事はなかった。嫌われたくない、酷い子だと思われたくない。そう思う私の心なんて容易に汲み取れていたんだろうな。努めて、冷静に、話を聞いてくれた。
 けれど私はやっぱり、本当の私は、ファシルを追いたくて仕方がなかったの。一人になったらすぐにでも家を飛び出していたかもしれない。
 そんな私をお見通しの双はまるで急かすようにお風呂を勧めて、お風呂から上がれば夕食を用意していて、要らないといえば早く寝なさいと諭した。
 まるでお母さんのようで、少しづつだけれど、時間が立つごとに反比例して焦る心は落ち着いていった。そして半ば双に押し込められるようにして入ったベッドの横で、双は私の瞼にそっと手を置きながら教えてくれた。
『彼はね、大丈夫。きっと、帰って来ますから』
 不思議と、その言葉一つで体の力が抜けた。ファシルに一番近しい双の言葉だったからなのかもしれない。
 本当にそうなると確信が得られたような気がして、私の意識は深く深くへと沈んでいった。

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