わたし(家庭教師)

気分積分―3―

 朝は辛い。私は結構な低血圧で、これまで一度もすっきりとした目覚めを経験したことがない。起きてもすぐには覚醒できなくて、30分でも1時間でも平気でぼーっとして、意識が朦朧としてしまう。
 それで今日も、ちくっとした痛みに目をうっすらとあけると、金色の毛並みが頬を撫でた。

 あれえ? こんな人形、あったかな。記憶も意識も曖昧でわからない。まあいいやと手を伸ばすと暖かくて、暖を求めてそれを抱き込もうとするとそれはすっと離れる。
 いつも以上に体の反応が悪くて、野暮ったい感覚が身体に充満していた。
「朝ですよ、安登」
 カーテンの隙間から覗いた朝日にきらきら光る金髪。眩くっておぼろげな視界に捉えると爽やかな笑みを浮かべて、満足そうに男の人が微笑んだ。
 なんだろう、何? 唇が、いやに赤い。
 しっとりと、艶やかな笑みを浮かべている。血よりも真っ赤な舌が覗いて、その唇を、唇を染めていた血をなぞった。
 その瞬間。
「やっ!」
 やっと気がついて首元を押さえると時既に遅し、パジャマのボタンが一つ二つ外れていた。
 す、われた? さっき、人が寝てる隙、に?
 上手く頭が回らなくて緩慢に見上げる。見下すように、あざ笑うように、口角を上げて嫌な笑顔を浮かべる彼と目が合う。
 双が、ファシルで。ファシルなんだけど、双で。やっぱり、これは、間違いなく。
「ふぁ」
「ふぁ?」
 ぽそっと出た私の言葉を聞き返すように顔を覗きこんだその目にかっと来ちゃって。急に理解した私の、思いと体が同時に動いた。
「ファシルのばかどじまぬけあんぽんたん変態ーーーー!!!」
 バチンとひとついい音が、朝の須藤家に響いた。


 カチャ、カチャと、静かな朝に落ちる音。それしかない。
 頬に赤い紅葉が咲いてぶすっと不機嫌な顔をしているファシルはテーブルで頬杖を付いて喋らないし、同じくファシルと同じ位置に紅葉のある双は静かに準備をしている。気まずい私は、何を言えるわけでもなくただじっと座って俯くしかない。無音な朝はとてつもない気まずさをかもし出していて、自分の家なのに落ち着かなくなっていた。
 うう、もう、なんでこんな事に、なっちゃうの。
 だって。
 だって。
 ちらりとファシルを見るも、こっちに向いてもくれないし、双だって目を合わせてくれない。私の右手はさっきの感覚をまだ覚えていて、罪悪感にじんじんと暖かいような気がした。
 そう、つまりは、朝から血を吸われたのにびっくりした私はファシルと、双を思いっきりひっぱたいちゃったけど。そういえば昨日の夜、その約束で課題を手伝ってもらったわけで。契約だったのに、私は思いっきり叩いちゃったわけで。
 だって、だって。朝からなんて、聞いてなかったんだもん。
「ご、ごめんな、さい」
 ちっちゃな、本当にちっちゃな声で、呟く。リビングでテレビから占いのコーナーの音楽が聞こえてきた。無駄に明るいテレビが、羨ましかった。
「ごめんなさい」
 沈黙。
 双は無表情で私の前にハムエッグを置くと、テーブルについた。ファシルはそっぽを向いたまま。双は無言で水を注ぐ。私の中でいたたまれなさがついに爆発した。
「ごめんなさいっ!!」
 テーブルにぶつかりそうな勢いで頭を下げると、ふっと誰かが噴出した。恐る恐る頭を上げると双がちょっと笑って水を注いだコップを私の方に置いて、召し上がれと微笑みかけてくれる。
 まだ、ほっぺたの赤いのは取れてはいないんだけど……。
「あ、あの……?」
「罰として明日までに円周率100ケタ暗記」
「ええっ」
「嘘」
 どっち!
 思わず情けない顔を浮かべてしまうと、双がまた面白おかしそうに噴出す。
 か、からかわれたの? 怒って、ない?
「あの、ごめん、ね?」
 確認のように上目遣いで謝ると、双は苦笑して赤くなってるほうの頬を親指で軽く擦る。
 ああああ、力加減すればよかった。相当、痛かっただろうなあ。本当に、ごめんなさい。双の体だって、忘れてたの。
「あれは効きましたよ。一発で目が覚めてファシルが離れた」
「…………うう」
「今度から僕でもどうにもならない時は、あの方法で頼みますよ、安登」
 嫌味なのかなんなのかわからない。屈託の無い笑みだから、怒ってはいなさそうだけど。今度から、気をつけよう。双が許してくれても痛いには変わりないし、私の罪悪感がいっぱいいっぱいだし。
 どうぞと双が薦めてくれるのでトーストを齧ると、そっぽを向いていたファシルが小さく舌打ちした。
「誰が変態、だ。お前みたいなの誰が襲うか」
「襲ったじゃん!」
「契約、じゃなかったのか? もう忘れたのか単細胞め。脳細胞死滅してるんじゃないのか」
 ううううなんて言われようだ。あてつけがましく言うものだから、余計に謝る気がそがれてく。
 ああでも、駄目、落ち着いて安登。ここは大人になって、きちんと謝るんだ。
「ごめんね? ほんとに」
「ゴリラ女」
 ひどいよう。ごり、ゴリラって! 私、そんなに力強かったの?
 ああ、でも痕が残っちゃうくらいだし。理性の無い攻撃が、あんなに強くなっちゃうなんて夢にも思わなかったし。返す言葉が、見当たらない……。
 甘んじて言い返さないで、おこう。ゴリラ女は反省して、大人しくしてます。と、手放してたトーストに手を伸ばした時、「ぐえっ」と喉に詰まった悲鳴が聞こえた。
「prenez le soin au sujet de comment parler」
 双がファシルの首をがっと掴んで、耳元で何か呟く。
 早口のあの英語じゃない言葉で喋っていたので聞こえなかったけど、ファシルは忌々しそうにその手を振り払って目の前の朝食に手を伸ばした。
 な、何を言ったのかな。双って時々すっごく、怖いや。
「ファシル……?」
「なんだ」
「ごめん、ね?」
「うるさい。もういいっ」
 う、んと。機嫌は悪いままだけど、許してくれ、た?
 自信がなくて次の言葉を言おうかどうか迷っていると、双が苦笑いをいて首を横に振った。
 なんだか、やっぱり二人には悪いことをしたのかも。双は許してくれたけど、ファシルはよくわからないし。一緒に住む上での問題はこれからまだまだいっぱい起こるのかもしれないと、少しだけ先行き不安になった朝だった。


「ああーっ!」
「……うるさ」
 大げさに眉をひそめて、片手で耳を塞ぐ振りをするファシル。が、食べてるものに注目。きっと私が大声を上げてる理由だって、知ってるはずなのに。悪びれもしないっ。
「それ私のーっ! なんで勝手に食べてるのっ?」
「団子を食ったぐらいで目くじら立てんなよ……」
「立てるもん!」
 あまりに尊大にソファでふんぞり返りながら食べてるものだから、余計に私もむきになってしまう。
 大体朝からお団子食べるっておかしくない? 普通3時のおやつでしょう。しかも戸棚に隠しておいたのに何で見つけてるの。私何も言ってないのにっ。
「マジうっさいお前。そんなんだから体重へらねんだよ」
「うううう煩いよっ」
 何で知ってるんだそんな事。いつもいつも人の事馬鹿にしてっ。好きで減らせないんじゃないもん。酷すぎるよ。人のお団子勝手に食べてしかもこんなグサッとくること平気で言ってさ。平然とした顔しちゃって、私が怒ってる事すら無問題な顔だ。腹立たしい。
 しかも、もぐもぐお団子を頬張りながら振り返り、悔しさに歯を食いしばる私に嘲笑を向けて一言。
「朝っぱらからがなってるお前が一番煩いけどね」
「くううっ」
 もうあったまきた!
 ずんずんとドアに向って、立てかけてあった鞄を取る。振り向き様に、テレビのほうを向いているファシルの後姿をじいいいいっと睨みつけた。
「そのお団子今日のおやつに皆で食べようと思ってたのにっ。今日はファシルはおやつぬきだからねっ! 馬鹿! ……行ってきますっ」
 ファシルに怒ってる暇なんかない。私は学校があるんだから。
 双が慌てたように私を呼んだ気がしたけど、今更戻るのもしゃくでそのまま家を飛び出すように出て行ってしまった。


 春になると桜の絨毯が敷き詰められる、長い長い並木道。その先に、私の通う学校、白咲高校がある。歩きの生徒や自転車の生徒は大抵この道を歩いて登校するし、犬の散歩にこの道を使う近所の人もよく通るみたい。この時期は本当に綺麗で、特別な道を歩いているような気分になれるから、この長い道を歩くのも嫌いじゃない。
そんな、ちらほら舞う春色の花びらを見つめながら、のんびり歩いている時だった。
「安登、おはようっ」
「ん? あ、美夜ちゃん! おはよう〜」
 ぽん、と肩を叩いて隣りに並んだのは高梨美夜ちゃん。中学から一緒の、俗に言う私の大切な親友。中学から一緒って言っても、中学と高校は付属だからエスカレーター式に一緒に上ったんだけど。でも一緒の高校だから、嬉しい。
 へへーっと笑うと、同じようににこーっと笑い返してくれた。私は美夜ちゃんのこういうところが好き。
「クラス、一緒になれるといいね!」
「そうだね、部活も一緒なんだからクラスも一緒がいいよね!」
 高校編入の人も少なくは無いみたいだから、新しく入る人とも一緒のクラスになると思う。でも新しい友達も欲しいけど、美夜ちゃんと一緒のクラスが良いな、と思ってしまう。

 それにしても、今更気づいたんだけど。家にお留守番しているファシルが私と双のぶんもお団子食べちゃったらどうしよう。
 それを考えたらクラス編成の事よりも、そっちの事の方が頭いっぱいになってしまった。

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