わたし(家庭教師)

気分積分―2―

 コバルトブルーのシャーペンは、グリップの部分が握りやすくてしかも気持ちいい。なんでも卵を上から落としても割れない柔軟性があるんだって。話題性に負けて買っちゃったんだけど、結構握ってるだけでも楽しい。
 だからと言って、宿題まで楽しくなるわけじゃないんだけど。
「つまり、Xを50とした時に方程式で求められる解は258862.37なんですよ」
 双の声は不思議と耳に心地よくて、聞きやすい。教え方も上手だし、いつもの私だったら十分で投げ出す数学ももう一時間も続いてる。
 だけど、だけどね。私の理解力がそれに伴うってわけでは、決して無いわけで。それが悲しくないわけでは決してないって事も、確かなわけで。
「…………」
「……ね?」
 …………わかんないよ。そんな優しそうに、「ね?」って言われても。わかんないもんはわかんない。
 だってさ、だってさ。普通小数点とかアリ? 円周率じゃないんだから。しかもそんな大きい桁! 数学嫌いは桁が大きくなるほどに苦悩するという法則を知らないのかっ。
「あーーーもーダメッ!」
 ばさりと、机の上にワークを放り投げる。もうお手上げ。これ以上集中できないし、頭にはいんない。
 スライムみたいにべちゃっとワークの上に潰れると、双の悩ましいため息が聞こえた。
「あーとー……」
 春休みの宿題。双に手伝ってもらって、奮闘中。善戦しつつも、状況は我に難アリ。みたいな。


 もうすぐ春休みが明ける。というか、もう明日には始業式なんだ。もうやばいよね、宿題終わってないなんて。自分でも馬鹿だと思うけど、これでもコツコツやってたの。コツコツやってこの状態なの。どれだけ私が数学が苦手かという証明になりうると思う。
「う〜〜……」
「ホラ、もう少しなんですから気合を入れて。安登ならできます」
 その根拠はなんなんだよう。褒めて伸ばす教育なの? それなら無駄だよ、もう集中力がオーバーヒート。もう一個も数字は入りません。
「安登。晩御飯抜かれたいんですか」
「くうぅーーっ!」
 スパルタ! 鬼! 数学の魔王! 双がこんなスパルタだなんて思いもしなかった。なんて意外性なの。騙された。
 仕方なく姿勢を正すと、ぽんと宥めるように肩を叩かれる。黒髪の双は、にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「安登が終わらない限り僕ら全員、食べれないんですからね」
 あう。撃沈すると、ちっちゃい舌打ち。横を見れば金髪の小学生ファシル。その手にあるのはシャーペンと、私の春休みの英語の課題。あてつけがましく睨んでくるんだもん、肩身が狭いったらない。
「あーもーがんばりますーーーっ!!」
 春休みの宿題を彼らに手伝ってもらって数時間か。もうとっくに、夕ご飯の時間に到達していた。


 課題地獄から開放されたリビング。キッチンから漂ってきた香ばしい匂いが立ち込める。それに仄かながら刺激を感じつつ、私はテーブルの上にワークを広げ問題と睨めっこする。
 時刻は九時を周っていた。
「……平家物語の作者って、兼行法師だよね」
「それは徒然草だろうが………」
 なんでファシルがそんなこと知ってるんだ。教えて貰ったとは知りつつも目が馬鹿にしていたので腹立たしくて睨付けたとき、蛍光灯を反射するワークの白い光に影が差した。
「安登、行儀が悪いですよ」
「………………」
 お父さんみたいに、双がたしなめる。お母さんみたい、ではないの。だって、私のお母さんも資料を見ながら食べる時よくあったから。それを考えると私は母親似なのかもしれない。
 しぶしぶとテーブルからワークをかたすと、双は私の目の前にカレーの盛られた皿を置いた。
 匂いを嗅いだらピークをすぎていたはずの空腹が急に戻ってきて、確かに夕飯時に勉強するなんて邪道だと思った。でも明日実力テストがあるんだけどな。
 と、いうか。
 途端にぎょっとしてファシルを見ると、いただきますもいわずにさっさとカレーに手を付けている真っ最中だった。
「ファシルお行儀悪いよっ」
「お前に言われても説得力がない」
 うぐっ。痛いところを付いてくるな。でもでも、私はすぐやめたよ。ファシルみたいにそんな唯我独尊我が道をバズーカ砲で突き進んでないし。
 ちょうど双がサラダを運んで来てテーブルを挟んで向かい側に腰を掛けたから、む、と抗議のまなざしをファシルから双に変えると、双は苦笑しながらサラダに手を伸ばしたファシルの手のひらを握手のようにタイミングよくぎゅっと握った。
「ファシル。安登が拗ねますから、『いただきます』を言いましょうか」
「……つか、放せ」
 さも気味悪そうに手を引こうとするファシル。
 むむ、反省の色なし。双も当然同じく思ったのか、笑みを絶やさず手を放さない。
 夕飯に意味もなく握手を交わす子供と大人。ファシルが余りにも嫌そうなものだから、余計に双の他意のなさそうな笑みが大人の黒さを醸し出しているように見えて怖い。
 異様な光景に私が内心焦り出した時、根負けしたのかファシルは不機嫌と屈辱を漏らすようにぼそっと呟いた。
「頂くっ」
「はい、召し上がれ」
 にっこりと爽やかに返す双がますます腹立たしく感じたのかファシルはわざとらしくそっぽをむいてカレーを頬張り、けしかけた私もちょっと後ろめたく感じつつもびくびくしながらいただきますと頭を下げた。
「……ガキかっつーの」
 ぶすっとしながら悪態をついたファシルに思わず吹き出す。だって今まさに子供なのに、大人ぶった事言うんだもん。
 ファシルが切りつけるような鋭い眼差しを向けて来て、あまりに凄みのある目で私は思わずうっと黙った。けど交替というかのように今度は双が短い笑い声をあげた。
「君のような老君ならば、神論も礼式もただのおままごとにしかならないのだろうね」
「ふん。当たり前の事を言うな。俺はお前らみたいなのとは違うんだよ」
 ろうくんって、ファシルが? お年寄りみたいな意味だよね? 意味分かんない。
 だって、ファシルって大きくなっても私よりちょっと年上の人くらいにしかならないし。外国の人って総じて大人っぽく見えるものなんだって聞いた気がするから、きっとあれで同年代くらいなんだ。
 それに、絶対本人には言えないことだけど、ファシルってなんとなく子供っぽいところあるし。時々年下っぽいなって思っちゃったくらいだから、勝手に同い年か下くらいに思ってたんだけど。
「……そういえば、双とファシルって何歳なの?」
 まだ聞いてなかった気がする。だって双も従兄弟っていったって、ひどいとは思うけど残念ながら私は全然覚えてないし。
 聞いてからぱくりとカレーを頬張り、答えを待つと先に双の方がちょっと傷ついたように眉根を下げて苦笑した。
「まあ、覚えてないのも仕方ないけどね」
「ご、ごめん」
「冗談ですよ。僕は今年で24になります」
 焦ったけれど、双はちょっとしたからかいにいたずらめいた笑みを浮かべた。ほ。怒ってはいないみたい。よかった。
 それにしても、なんで覚えていないんだろう。普通なんとなくくらい覚えててもいいと思うんだけどな。私そんなに記憶力悪かったのかなあ?
 うーんと首を捻ると、双は寂しそうな苦笑を微かに浮かべて私を見た。
「今度僕が覚えている事を教えて差し上げますよ」
 うう、なんだか後ろめたい心持ち。思い出したいんだけどなあ。
 考えてみたら私思い出せないなら知らないのと同じ状態じゃない? なんでこんなにすんなり食卓を囲めるかがわからない。私そんなに人懐っこいタイプではないはずなんだけどなあ。
「……う〜〜ん。あ。あと、そう! ファシル、ファシルは? 何歳なの?」
「あ?」
「あ? じゃないよ教えてってば。何歳なの?」
 全く、我関せずって黙々と食べてるんだもん。どうしてこんなに捻くれるかな。
「もしかしてやっぱりファシルって、私より年下だったりして?」
 身を乗り出すと、少し目を見開いてファシルはすっと身を引く。
 な、なんか私変なこと言ったかな。
「ははっ」
「……正真正銘の、馬鹿だな」
 ええええ。なんで、なんで双が笑うの?というかなんでファシルはそんな馬鹿にした目つきで! って、それはいつもの事だけど。
 それにしてもなんで笑われるの? 間違ってたのかな。
「なんでなんで? じゃあ年上?」
 むきになって聞くと、少しだけファシルの眉根が寄った気がした。
 ん、当たりかな。でも、当たりって顔でもない感じ。そりゃ、ファシルが笑顔で「あったり〜!」とか言っても、怖いけども。
 一体どっちなんだろうと気になってさらに問い詰めようとしたら、ぽん、と頭に双の手のひらが置かれた。
「安登」
 薄い笑み。爽やかな好青年って、こんな感じの人を言うのかもしれない。
 不意の笑顔に虚を付かれて口をつぐんだ私に、双は言い聞かせるように言った。
「冷めてしまう前に、食べてほしいな」
 あーんとカレーを差し出され、それはすんなりと口に入る。
 こんなことされるのは初めてでどぎまぎしてしまった私は後はもう大人しくカレーを食べきるしか他無くて、結局ファシルの年を聞くことをそのとき既にすっかりと失念してしまっていた。

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