わたし(家庭教師)

気分積分―10―

「……〜〜〜〜ぃ、ったあ……!」
 痛い。カナリ痛い。初めてぶたれた。ううん、ぶった。こんなに痛いんだ、本気のビンタって。押さえたほっぺたが一瞬で熱くなるのを感じた。
「……お、まえ、何して……」
 頭上で、動揺するファシルの声が聞こえた。見上げると案の定、いつものファシルの顔があった。
 ああ、よかった。これだよ。こっち。こっちがいいの。意地悪でも無愛想でも、あんな哂いかたされるより、こっちの方がずっといいんだ。ずっと安心、できるんだよ。
「あー痛い……初めてビンタしてビンタされたよう……」
「ビンタされたって、お前が自分で……」
 そうだよ、そう、私が自分でしたの。自分で自分を叱ってみたの、今。
 じんわり熱をもった頬を押さえていた手を下ろして、私はファシルにまっすぐに向き直った。やっと、言える。
「ごめんね」
 ああ、言えた。言えたよ。やっと言えた。感極まったのか、ほっとしたのか、そのどっちもなのか。僅かに涙が滲んできた。ファシルは吃驚した顔をして、言葉もないって様子で、私を見下ろしていた。
 ねえファシル、気づいてる? 私、今日初めてファシルとちゃんと目をあわせられたんだよ?
「ごめんね、ファシル。ファシルの気持ちも考えずに酷いこと言って、ごめんなさい。私、反省した。……すごく、後悔した」
 ファシルの目が、揺らいでる。ゆらゆら、ゆらゆら、何かを、考えるように。感じるように。だから私は、右手を差し出した。ファシルと私を叩いた手。でもこれは、今度は違う。
「私、もうあんなこと言わない。あんなことしない。だから、家に帰ってきて? ……仲直り、しよう? ファシル」
 これは、仲直りの右手。もう一度私とファシルを繋ぐための右手。怖いけど、もう逃げない。この手で掴んで、一緒に帰るんだ。双が待つ、あの家に。

 自分を叩いた瞬間、すごく痛かった。自分で想像してるよりも痛くって、でも、その痛みって結構あっけなかったりして。それでほっぺたが熱くなるのを感じて、私、やっとわかった。
 どうしてファシルに謝る言葉を考えても、いい言葉が思い浮かばなかったのかって。私は、自分で気づいてなかったんだ。謝ることばかりに気が行ってたけど、本当はそれ以前の問題が目の前にぶら下がっていたこと。
 ファシルに酷いことを言って、すごく後悔した。後悔して、悔やんで、それから私は、自分が腹立たしかったんだ。ファシルから逃げた自分が、許せなかった。だから、ファシルに謝るとか、許してもらうとか、そういうことする前にやることがあるじゃない、って。だから多分、いやにうじうじしていたんだと思う。自分をぶったとき、痛かったけど、妙にスッキリしたし。
 私がファシルにしたことが消えたわけでも、ファシルに許してもらえたわけでもなかったけど、なんだか気持ちが割り切れた。あーやってやったぞ、って気分。ファシルにしたことを考えれば、コレくらい当然。それで自分に喝を入れて、やっと心から謝ることができた。あとは、ファシル次第。この手をとってくれるかどうかは、ファシルに決めてもらう。
 目をそらさずにじっと見上げる。薄暗い陰に潜むファシルの瞳は、惑うように揺れていた。
「バ……ッカじゃねーの。自分で自分、殴るとか……」
 そう言いながら、ファシルの指が、私の頬に伸びた。熱く熱の篭もる私の頬を、ファシルの指先がひんやりと掠めた。
「俺、お前の友達、喰ったんだぜ?」
「……うん」
 それは、正直、許せなかった。でもそれ以上にやるせなくて、悔しかったから。ファシルにそんなことさせたの、私でしょう? 責める権利、ないよ。
 だから、頬に当たるその指先を、上から包むみたいに捕まえた。握り締めても、ファシルの指は拒まない。
「もう、他の人のは飲まないで。私の血をあげる。そういう約束だったでしょ?」
「それは他の奴らを巻き込むな、ってことか」
 また、ファシルの瞳がうつろいでいく。
 でも違うの。違うよ、ファシル。聞いて。
「そういうことじゃない。私が嫌なの。ファシル……みんな、ファシルのクラスメイトなんだよ? 餌だなんて、思ってないんでしょう?」
 苦々しく、目が細められる。私が言った言葉を気にしているんだね。でももう言わない。言わないって、約束した。そんな風に思うのも、思わせるのも、もうしない。
 ファシルに一歩、近づいた。
「ねえ、ファシル、私は約束って、言ったよ。契約だなんて、もう思ってないの。ファシルが血が足りなくてどうしてもお腹がすいてしまうなら、私の血をあげたいの。だって、ファシルは」
「俺が、なんだよ」
 ゆらゆら、揺れてるファシルの瞳。不安なんだね。あの時の、私みたいに。ファシルが怖いんじゃない。本当は私の方が、ファシルにとって、怖いことを告げる存在だったんだ。無意識に何回も傷つけてた。だから、でも、もう、大丈夫。ファシル。ファシルはね、私にとって――。
「友達だから。ファシルは、私の友達。だから……仲直り、したいの」
 ファシル。私の大事な友達。美夜ちゃんは大事。でも、ファシルも同じくらい、大事なんだよ。血をあげるくらい、もうなんともない、って思えるくらいに。だからファシル、仲直りしよう? 友達は喧嘩をしたって、仲直りできるの。何度だって、手を繋げるんだよ。

 言いたいこと、全部言えた気がする。考えてもうまくまとまらなかったはずなのに、気がついたら胸の内にあった気持ちを全部言えちゃってた。
 ファシルは、ただ黙って私の話を聞いてくれていた。どんな風に感じてくれているか、わからない。また怒らせちゃったり、傷つけちゃったりするかもしれない。そういう怖さはある。でもファシルが聞いてくれようとするなら、私もちゃんとファシルのことを考えるから。だから、ちゃんと、向き合おう。友達として。
 ファシルの手を、ぎゅっと握った。ファシルは言葉に詰まったように、暫く黙って、それから――。
「…………ッハァ」
 大きなため息をついた。なんだかやけになるみたいに片方の手で頭をがしがしと乱して、それから私の頬を――抓った。
「バカ」
「――いた、痛い、痛いよファシルッ」
「痛くしてんだバーカ」
 終いには両手で私の両頬をこれでもかと引き伸ばして、限界まで痛くなった途端にぱっと離す。
 あーうーっ、もうこんなに引っ張られたら瘤取り爺さんならぬ瘤取り女子高生になっちゃうよう。思わず涙目で睨むと、ファシルはあの意地悪な顔でへっ、と小ばかにするように笑った。
「おっまえ、恥ずかしい。恥ずかしすぎにも程がある。サムイ、クサイ、暑苦しい」
「……なっ」
「あー、バカにかまってたら萎えた。帰る」
 ええ? なに、いきなり。な、萎えたってそんな。なんで、どうして、怒ったの? また私いけないこと言っちゃった? そんなあ。帰るって、そんな。帰る……帰る? 帰るって、どこに?
 自分の机の上にある鞄を取りにいくファシルの後姿を見つめていると、ファシルがくるっと振り返った。
「何やってんだノロマ。お前が遅いと夕飯の時間も遅くなる。さっさと用意しろ間抜け」
 さっきと打って変わって不機嫌そうな、ううん、不機嫌だぞって言い張るような声で、ファシルが言った。
 それって、もしかして、もしかしなくても、『帰るぞ』って言ってるんだよね。ああもう、素直じゃなさ過ぎる。でもいつものファシルだ。よかった。帰れる。一緒に帰れるんだ。
「待ってよー」
「早くしろドン亀、いつまで待たせる気だ」
「そんなに待たせてないじゃん、もう!」
 いつものやりとり。いつもの言い合い。そんな風にして今日の帰り道は、いつもよりもちょっと賑やかになったのでした。


「――――で。めでたしめでたしで終わると思ったら、大間違いですよ……?」
 今日のご飯は何かなーなんて考えながらうちに帰って、双が笑顔で迎えてくれて、リビングでは美味しいご飯が待っていた。
 わーいやったあ、ああお腹すいたあ、さあ頂きます。と、言わんばかりのその瞬間、上座の双が出迎えてくれたときとは正反対の、氷のような笑顔で宣告した。私も、ファシルも、その双のあまりの気迫に気圧されて、箸を掴もうとした格好のまま止まってしまった。
 あれ? 幻覚、かな。双の背後から、なんだかおどろおどろしいオーラが見える気がする。双の周りだけ室温が下がってる気がするよ……っ。
「まずね、ファシル。なんなんですか、昨日は。安登と喧嘩してしまったことはともかく安登を泣かせて、あまつさえ人に連絡もなく外泊して、それで今日は何事もなかったかのように帰宅して一言もなくご飯にありつこうとか。しかもなんですか? 安登はおろかよそ様の娘さんにまで手を出す始末。まったく嘆かわしい! その面の皮の厚さはどこで調達してきたんですかねえ、ファシル?」
「……お、俺は、」
「口答えは結構。それから安登。もうちょっと警戒心を持ってください。自分のファーストキスを奪った相手と二人きりになるとか、どれだけ無防備なんですか。無警戒すぎるにも程がある。友達だろうがなんだろうが相手は男ですよ? けだものなんです。いつ何時どんな人間であろうと相手が男である以上、要警戒なんですよ」
「え、あ、う、そ、ふぁ、ふぁーすと、ききききき、きすって」
 ななななななんで知ってるの。え? 昨日私どこまで喋った? 支離滅裂で喋ってたからあんまり覚えてないけど、そんなことまで喋っちゃったの? ていうかけだものって。やめてよなんかそんな変な感じに取るの。そんなんじゃないもん!
 ほっぺたが別の意味で熱くなってくる。それを見て双が不快げな顔を作ってファシルを睨みつけるものだから、余計に恥ずかしくなってしまった。
「ご、誤解しないでよ双! ファシルとはそんなんじゃないもん。あれは、その……お、弟にされたみたいな感覚、で」
「はあ? ふざけんなよ誰が誰の弟だって?」
 もうちょっとそこ口挟まないでよう。勘弁してーと目で訴えても、ファシルは聞き捨てならなかったようで、ふん、と皮肉るように鼻を鳴らした。
「冗談じゃねえよ、誰がこんなガキ。100年経ってもそんな気になるか」
 なにそれー! 私だってファシルなんかにそんな気起きないもん。こんなデリカシーの欠片もない頭の中が一生中二みたいな人なんか御免だよ!
 そう言い返そうとしたとき、双の冷め切った眼差しがゆらりと揺れて、ファシルをロックオンした。
「……聞き捨てなりませんね。安登のファーストキスを奪ってなお、厚顔無恥にも侮辱するとは」
 うわあああんファーストキスっていちいち言わないでええ。
 でもそんな口も挟めないほど双のオーラがどす黒くとぐろを巻いている。こここ怖いよう。ファシルでさえ引きつってるよ。
「いいでしょう。決めました。ええ、決めましたとも」
 え、なに? 決めたって、何を? わかんないけど、なんか嫌な予感。ファシルも同じなのか、引きつり通り越して双を見る顔がもう完全にびびっちゃってる。双はそんな私たちをよそに、今日一番の極上の笑みを浮かべて宣言した。
「今後ファシルが安登に物理的に接触することを一切禁止。二人きりになるのも禁止。吸血行為に及ぶ場合も僕が管理します。その際僕の目の届く範囲で行うこと。また指定日以外に少しでも安登に触れたらお仕置きしますし、逆の場合も然り」
 え? 逆の場合って、私がファシルに触った場合もお仕置きって事? なにそれっ。
 唖然とする私たちに向かって、双はすっきりした顔を浮かべた。
「もともと不健全な環境だと懸念してはいたんです。いい機会です。これからは徹底して青少年の健全な学校生活を管理させていただきます。お風呂でばったりとかそんなベタで陳腐なラブコメなど言語道断です。こうなったら徹底していきますので、二人とも、覚悟しておいてくださいね……?」
 にっこり。
 言いたいことを言ってすっかり満ち足りた顔をした双は、言葉を失った私たちを眺めて満足そうに微笑むと、いただきます、と丁寧に手を合わせてお辞儀をした。当然、私とファシルは、唖然、呆然、愕然。
 え? ええ? あれえ? せっかく、丸く収まったと思ったのに。なんでこんなややこしいことに! 青少年の健全な学校生活って、何その無意味に怖いフレーズ!

 ――――かくして。
 何がなんだか、私もファシルも折角のご馳走を前にして、暫くの間フリーズしちゃったままなのでした。

The End.To be contonued in our next number. 10/05/07up.

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