わたし(家庭教師)

気分積分―1―

「なあ、いいだろ」
「だ、だめだよ……。双も、いない、し」
「いないからいいんじゃん。……早くほしいんだよ」
 追い詰められる。ソファの上、両手を突いて私の逃げ道を阻んでしまうファシル。
 どうしよう、どうしよう。綺麗な空色の瞳にじっと見つめられて拒むのが辛くなってきた。
 双はそんな私すらお見通しなのか余裕綽々に黒い笑みを浮かべて、ずいっと顔を近づけてくる。
 うう、どうしよう。白くて、綺麗で、眩しい。ファシルはとっても綺麗。
頼みごとされたら、拒めないくらいに眩しいの。どうしよう。
「安登」
 耳元で囁かれる。もう、拒むのも限界。我慢するのも、限界だった。
「ファシルなんか……ファシルなんか……大好きだ―――――っ!!」
「うわぁあっ、やめろ馬鹿こいつ……っ! ぐえっ」
 がばりと、抱きつく。小さな身体。赤ちゃんみたいに真っ白で、ふわふわと跳ねる金の髪の毛。あまりに可愛くて、我慢できなくなって抱きついてしまった。
 そう、今のファシルは小学生とも呼べないくらいに小さくなっている。なぜかってそれは、もちろん私が血をあげていないから。基本双の許可がないと駄目だし、小さいファシルのほうが可愛いから私もあげたくないんだもん。
 だから拒んでたんだけど……うう、とっても、可愛いよう!
「ファシルーファシルー、可愛いーっ」
「やめろって苦しい離せ!」
 必死に抵抗するけど、さすがに子供の力じゃ私に逆らえないもんね。
 それをいいことにぎゅーっと抱き締めていると、間延びしたチャイム音が家に響いた。がちゃがちゃと鍵の音がして、すぐに足音が向ってくる。
 あ、双が帰ってきたんだ。夕ご飯の買出しから。
「ただいま帰りました……って安登、またやってるんですか……」
「うん。だって見てるとついかまいたくなって」
「うんじゃねえよさっさと血をよこせ」
 憮然とした表情で私の腕から抜けようと暴れだす。なんだかその姿も可愛くて抱き締めると、双が買い物袋を持って台所へと移動する。今日も美味しいご飯を作ってくれるんだなー。

 三人で暮らす事になって、私たちは色々と決まりを作った。当番みたいなものね。ファシルは嫌がったけど、結局双に押し切られてちゃんとファシルも組み込んだ。
 まず炊事は知っての通り双の役目。だって私もファシルもちょっともご飯作れないもの。私は料理音痴だし、ファシルはそんなものやったことないなんて言うし。あの時作ってくれたのは双の腕前だったわけね……。
 まあでもそれは結構納得できた。ファシルしそうにないもん。そう言ったらお前にだけは言われたくないなんて嫌味言われたけど。
 それで、洗濯は私。これは双が決めたの。「まあ無難なところでしょうね」なんて言って、ファシルと納得してたけどどうゆう意味だったのかな。よくわかんない。
 で、ファシルが掃除になったんだけどこれが意外や意外、ファシルは大分綺麗好きだったので、私やお母さんがずぼらだったせいで荒れかかってた家がすっきり綺麗になっちゃった。あまりの意外性に私と双が驚いていると、「みすぼらしい環境に俺が住むのは耐えられない」だってさ。どんな王様ですか。

 というわけで、以前よりもずーっと生活臭に満ちた我が家。ちっちゃいファシルは弟みたい。ご飯を作ってくれる双はお父さんみたい。私はそんな家族ごっこに、わくわくしていた。

「安登、程ほどにしておいたほうがいいですよ。油断してる間に血抜かれますから」
 ジャガイモの皮を丁寧かつ手早く剥き剥き双が注意してきた。む、今日はコロッケかな? カレーかな? うう、あいらぶ家庭料理!
「うん、気をつけるー。おっきくなったら可愛くないもんね」
「お前ふざけるのも大概にしろよ」
 口調は生意気。でも怖くないもんね。ちっこくて、あどけなくて、こんなに可愛いんだもん。弟が出来たような気分に浸ってファシルを膝の上に乗せて、ピッとリモコンでテレビの電源を入れる。
「ファシルー、アニメ見たい?」
「殺されたいのか」
 うっ、怖い。さすがに小さな子にそんな物騒な事言われると不気味だ。あははーと苦笑いすると、ファシルは一言「ふん」と鼻であしらって私の膝から降りてしまった。
 名残惜しく見つめる私の視線をさらっと無視して、てくてくと双の傍に近づいていく。そうして彼の足あたり(身長的にそこまでしか届かないの)にぴたりと手を当てて、ぱっと消えてしまった。双の中に入ったんだ。ただ、表には出ないみたいで依然双はそのまんまなんだけど。
 なんか便利な事に、ファシルは双の中に出たり入ったり自由らしい。双の中にいる間は力を使わなくて済むけれど、今みたいに実体化しようとするとそのときの力の上限が見た目にも反映されるんだって。
 だから最近私の血を飲んでいないファシルは最初あんなに偉そうな男の人だったのが今じゃ小さく可愛くなっちゃって、私に遊ばれていたってわけ。
実体化しなきゃ私の血は飲めないんだけど、実体化してると力がなくなる。
 ファシル的にはいただけない状況なんだけど、私としては楽しいな。だって見るたびに小さく可愛くなっていくんだもん。金髪碧眼だから、外国の子供みたいで。かーわいいの、すごく。口調の生意気さまで可愛く思えてくるんだから。
 血が吸えないのは可哀想だけど、私もそんなにいっぱいあげてたら貧血になっちゃうし、憎まれ口たたいてたからまだ平気だよね。それだけ言ってりゃ十分じゃん。まだ、多分、ね。
 可愛かったファシルの余韻に浸ってうふふーと笑っていると、ふっと影が宿る。ん? と見上げると私のすぐ背後に、双……ううん、双に入ったファシルがたっていた。
 あ。やばい。
「お……っと、逃げないでくださいね」
 身の危険を感じて逃げようとしたけれど、すかさず首根っこをむんずと掴まれる。
 ど、ど、ど、どうしよう言われた傍から油断しちゃった。
「やーだーっ。離してーッ」
「僕が大好きなんでしょう? 大人しくしなさい」
 仕返しのつもりなのか、私を後ろから抱き締めて羽交い絞めにする。
 うー、やだやだやだよう。このままじゃ吸われるっ。
「ちっこいファシルが好きなの!」
「どちらも僕ですよ。まあ今は双に入ってますけど」
すごく意地悪な声が耳元で囁かれる。
 くう〜、こんな時こそ恨めしいややこしい悔しい。
 双の口調だからなんとなく怒っていいのやらなんやらわからなくなって混乱する。
 そうだった、実体化してなくても双を操れば吸えるんだ。私の馬鹿馬鹿馬鹿。またしてもしてやられた。
 私の首ファシルの指がなぞる。頚動脈を探してるんだ。ぞわわとくすぐったいような寒気がするような感覚に身震いすると、ファシルが私の後ろで楽しげにくすりと笑う。
「油断大敵。何度ひっかかったらわかるんでしょうね、安登は」
「違うもんファシルにはちゃんと警戒してるッ」
 ファシルには警戒してるけど、双はそんなことしないと思ったから。腕から抜け出そうともがくと、もっと引き寄せられてしまう。
「双にも十分警戒したほうがいいと思いますけど。こうなるし……男だし?」
「なっ、そ、紛らわしいこというなあ! やだやだやだ離してっ」
 なにその「男だし?」って。わざと私に意識させるような言い方。やっぱりファシルは意地悪だ。言動全てわざとやってる。
 恥ずかしいやらなんやらで、早く離れたくなる。双の体でファシルに抱き締められてるって、なんかすっごく恥ずかしい事みたいだ。ばたばたと暴れると、悩ましげなため息が聞こえる。
「往生際が悪い。……いい加減、貰いますから」
「えっ、駄……ぅ、あっ」
 ぱくりと、食べるように首筋に噛みつかれる。ちくりとした痛みの後に、そこから熱がふわーっと広がって、それで、なんだか全身がぼんやりして。
 ……意識が、奥底に沈んでしまった。


「奴が……奴が来る……っ!」
「誰だよ」
「ふわっ!」
 がばりと起き上がる。何事かと思って起き上がるとなんてことはなく、居間のカウチソファーの上に寝ていたみたい。あれ、何に慌ててたんだっけ?と思って辺りを見回した瞬間思い出した。
「うっ、わぁあぁああ!!」
「……マジうっせ」
「ファシルッ」
 あわわと叫んだ私をソファの背に肘をついて覗き込むファシルは鬱陶しそうに耳を塞いで、その横で双が嗜めるように睨み付けている。
 そうだったそうだった呆けてる場合じゃないよ私ッ。しっかりしなさいっ。というかファシルなんなんだその態度はっ。今私を驚かせたのは君だぞ、君なんだぞ。
 鬱陶しそうなその表情にむっと来たので、怒った顔を作って睨みつけてやった。……でもそれ以上の睨みで押し返されたけど。怖すぎだよ、ヤクザみたいじゃん反則だ。
「ふぁ、ふぁ、ファシルが悪いんだ……」
「だからなんだっつうんだよ」
「な、そ……! なんて悪辣なんだ……っ」
 言葉も出ない。だから何、って。他に言う事あるでしょう? なんてひどいんだ。懲らしめたいけど懲らしめ方が解らない。
 恨みがましく双を見上げると、眼のかち合った双は慌てふためいてファシルを見下ろした。
「……いって! 何すんだよテメエ」
「少しは反省の色を見せたらどうです、人の体勝手に乗っ取って安登にまで手だして……」
「手出してって何! 出されてないもんっ」
 ま、ま、紛らわしい言い方をするなっ。まるで私がファシルと、いや双の体でファシルと……ってどうでもいいよそんな事。そっちじゃないよ、気にするのはそっちじゃないよ私っ。
 慌てて紅くなった頬を両手で覆うと、目ざとくそれを見逃さなかったファシルが双に蹴られた足を支えながらにやりと意地悪く微笑んだ。
 もうなんなの? どうしてこの人こんなに意地が悪いの? 生粋の捻くれ者か天邪鬼だよ絶対。
「安登……いまやらしいこ」
「あーいーうーえーをーーーー!!」
 なんだか馬鹿みたいだけど叫ぶしかない。いきなりの私の奇行に、双とファシルは二人して呆気に取られていた。さ、させたのはそっちじゃないか。ドン引きするなんてずるい。
 もうとにかくっ、とファシルを睨みなおして、出来うる限りを尽くして精一杯の怖い顔を作ってやった。
「とにかくファシルが悪いっ! 勝手に血吸うなんて反則だ、契約したじゃん!」
 そう。これは血が無いと消えちゃうファシルのために作った契約でもあるんだから。首を押さえてもう二度とあげないぞと脅すと、ファシルは皮肉っぽくフンと言うだけだった。
 私と、ファシルが決めた契約。それは、ファシルがあたしに英語を教える代わりに私の血を貰うってこと。いわゆる家庭教師だ。
 元々双はお母さんから私の家庭教師も頼まれていたらしくて、だからあの時家庭教師って名乗ったんだ。ちなみに私は結構な成績の持ち主で、いつもアヒルが溺れかけてるギリギリ状態。地理歴史系や化学とかは好きなのに、英文数学が超苦手なのです。
 だって英文とか数学とか、どうも楽しいと思えなくって。何かに関連して考えるんじゃなくって、単的なパズルみたいでしょ? 頭の中で組み立てて考えるって。だから苦手なの。
 それをどうしてお母さんが知っていたのか……ちょっと、焦った。成績の話なんか触れないようにしてたのに、どこで知ったんだろう。末恐ろしい人だ。
 それでその私の中で特別壊滅的な数学を双が、英語をファシルが教えてくれることになったの。ファシルは色々と話せるんだって。その証拠に澱みない口調で「お前とは格が違うんだよ」と英語で話してくれましたとも。最低!
 ほんとは教えてもらいたくなんかなかったけど、私はあえて取引として持ちかけてファシルに頼んだ。
 だって、将来したいことがあるんだ。そのためには英語も必須。でもこれはお母さん以外には誰にも話していない事。……成績見られて笑われたくないもん。
 だから英語、がんばんなきゃ! あと、数学も。これも将来に必須。
 つくづく茨の道だなあとため息が出そうだけど、がんばらなきゃいけない。それに折角お母さんが頼んでくれたんだもん、きちんと教わらなきゃ多分……お母さんの事だからいち早く察知して怒る……。
 約束したもんね。一緒にがんばろって。あの日から。

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