わたし(家庭教師)

方程式の成り立ち―5―

「嘘、でしょ? だって……背丈も声も」
「僕があれから成長した姿を想定すれば、納得がいくと思いません?」
 うん、それはもうとっくに想像ついてる。私を見下ろしてくる彼の顔を、もう暗闇に目が慣れた私の目はしっかりと観察する事ができた。綺麗な金髪、碧眼、薄っすらと浮かぶ冷笑。短時間の間に見た外見で双の特徴をまとめるとこんな感じ。目の前の彼も、ぴったり当てはまってる。
 そしてあまり意味をなさない確認としてよこを目で確認してみれば、双の布団はもぬけの殻で。子供だった双が大人になっているという事実は受け入れがたいけど、目の前の彼が双だってことには不思議と納得できた。怖いけど、今度は悲しいの方の気持ちのほうが大きかった。
「信じられません?」
 口を閉ざした私に囁く双の声は、さっきよりももっと楽しそうだ。
 もう、意味わかんない。
「……どうして、こんなことするの?」
「貴方が悪いんですよ、警戒心がないにも程がある」
「そんな事聞いてるんじゃない」
 そんな事を、聞きたいんじゃない。今私がされてる事は、確かに仕方ないもの。
「……双の言うとおりだよ」
 知ってる。双の言うとおり、私は馬鹿だ。成績不振だし、すぐ人に騙されるし、いいように利用される。自分でもなんか駄目な人間だなって思うけど、いっつも繰り返しちゃう。だからなるべく騙されないように、隙に漬け込まれないように、これでも結構注意してた。でもやっぱどこか詰めが甘くて、結局こんな結果になってしまう。
 目の前の人が双か双じゃないかなんてどうだっていい。私が見知らぬ人間にここまで気を許してしまった事が、何よりも大きな過失だったんだ。私が馬鹿なのが、一番いけないんだ。何が悲しいのかって、簡単に人を信用しちゃう事。いっつもこれで痛い目にあってるのに、まただ。馬鹿だ私。
 抵抗しようとしていた腕の力を抜いた私を見下ろして、双は片眉を上げて首をかしげる。
「途端に弱気ですね」
 弱気? そうじゃない。諦めただけ。これから何をされるんだろうか、なんかどうでもよくなってきた。
 だって、おかしいじゃん。双がいきなり来て何か事情を抱えてそうだって勘違いして、家に泊めて上げてご飯作ってもらってそれでいったんはおやすみ〜って仲良く就寝って感じだったのに。
 今は何? 何が起きてるのか全然わかんない。
 これ夢なのかな。それじゃどこからが夢で、どこからが現実? 全部夢? 全部現実は……ありえないよね。思わずふっと笑うと、双が怪訝な表情をする。これも夢かな。
「なに笑ってるんですか?」
「……変な夢だと思って」
「……夢? これが?」
 せせら笑って聞き返す双の顔は、子供のあどけなさなんかちっとも残ってない。こんなの、やっぱり双じゃない。だから。
「うん。夢でしょ? 双も、私も。これ、嘘なんでしょ?」
 笑って聞き返したつもりなのにそのとき何故か双の顔が、一瞬悲しげに見えた気がした。
 でも悲しそうに見えたのも一瞬だった。ううん、私の勘違いだったのかもしれない。だって双はまるで何事もなかったかのようにまた、私の鎖骨に口付けてきたから。
「――ッ!」
 いやだ。やっぱりやだ。ぬめる感触に耐え切れなくなって顔を背けると、双は愉悦に染まった顔を上げてぼそりと低く呟いた。
 まるで、秘め事を話すかのようにひっそりとした声で。
「僕が、どうしてこんなことをするか? でしたよね」
「……?」
「答えは簡単です。目の前にあるご馳走をほいほい逃すほど馬鹿でもお人よしでもないからだ」
 にっこりと、微笑んで。うっすらと映える白い八重歯。少しだけ尖っているように見えて、獰猛な眼差しに射すくめられる。はにかめばきっと可愛い笑顔だというのに、これでは獣にしか見えない。
 でもご馳走って? 私が? 何を言ってるかがわからない。
「何を」
「黙って。お喋りはここまでにします」
 むちゃくちゃな命令を下して、双の手が肌蹴た首筋をもっと広げようと襟元をずり下げる。
 何をされるのか、予想がつかない。時間稼ぎのつもりだろうか、私は咄嗟に双に話しかける。
「無理、無理。やだ、やめて」
「黙れと、言ったでしょう」
 そう言って、大きな片手で口を覆われる。いきなりの彼の荒々しさに、身の毛がよだつ。彼の瞳は、何か深く底知れない欲望のようなものに染まっていた。
 首筋から肩にかけて、むき出しにされる。何かを探るように双の細い指が上へ下へと行き来し、焦点を決めたのかある一点でその指がぴたりと止まった。唇をぺろ、と軽く舐めて、薄く微笑む。
 身がすくむ私の首筋に顔を寄せて、最後の言葉を紡いだ。
「身を委ねれば怖くない」
 えっと思った瞬間に、双の熱い舌が首筋に触れた。その刹那、痛いのに甘ったるい感覚が、電撃のように身体の芯に走り向けた。


 知らない男の人の、夢を見た。何故か私はそれが双じゃないかと思って近付いてみたけれど、その人は黒目黒髪の生粋日本人で、眼鏡をかけていた。
 なあんだ違うじゃん。そう思ってしまい、少しだけ悔しくて哀しくなった。だってあんなことされたんだからがっかりする事なんてないのに。私はどこまで馬鹿なんだろう。
 すると私の前に立つその男の人が、悲しそうな顔をした。あれ、なんだか見覚えがある。……誰かに、似てる。
「どうしたの?」
 思わず口が開いて、聞いてしまった。だってその悲しそうな顔が、切ない眼差しの先が私に向いているように思えたから。
 私は彼に、何かしてしまったのだろうか。でも彼は悲しげに微笑み、首を横に振った。
「違うの? じゃあどうしてそんな顔してるの?」
 どうしようもなく気になる。こっちまで哀しくなりそうで、なんとか慰めたいと思った。
 手を最大まで伸ばして頭をいい子いい子するとその手を掴まれ、両手で包まれる。暖かい、手のひら。どうしてそんな大事そうに、包むんだろう。
「そんな顔しなくても、大丈夫だよ」
 彼が目を丸くして、私を見下ろす。聡明で澄み切った、真っ直ぐな瞳だった。
「全部がダメなことなんてないから。だから、大丈夫」
 よくわからないけれど。でもそんな顔をしてしまうのは、もったいない気がして。そんな顔をしてしまう理由がどんな事であっても、全部が全部ダメなことなんて、きっとないから。
 少しでも安心して欲しくて手を握ると、一瞬驚いた表情になって、そしてまた。哀しい笑顔に戻った。ううん、今度はもっと、さっきよりも哀しそうになった。
 やっぱり私がそんな顔をさせてるの? どうすればいいの?
 目で問いかけてみても、哀しく目を伏せるだけで。そうして私の手を開放し、離れた。
「待って、だめだよ」
 いっちゃだめ。そんな顔をしたまま、私の前から消えないで。掴もうとした平手は、虚しく空を切った。そして彼がようやく一言だけ、音もなく言葉を紡ぐ。
「さようなら」
 だめ、待って。さようならじゃなくて、そうじゃなくて。
 追いかけても追いかけても、彼は離れていって。もう追いつけない事はわかっていたけど、このままじゃ嫌だった。
 遠くなる彼を必死に追いかけて、彼の言葉を否定した。
「さようなら、じゃ、ない……よ。違う。違う」
 もう私の言葉は届いてないのかもしれない。だけど見えない先にいる彼がまだ悲しい顔をしているのは何故かわかる。このまま放っておくなんて、我慢ならなかった。
「また会おう、だよ! 双!」
 叫んだ瞬間、目が覚めた。


「安登、安登ーっ! もうお昼よ!」
 リビングから、お母さんの声。ああ、いつもの朝だ。あ、でもお昼か。ぼんやりした意識のまま、起き上がる。隣を見ると、何もなかった。双も、布団も、何もかも。
 だけど昨日の事が夢じゃないというのは確実だった。だって何もないはずの床に私のパジャマのボタンが一つ二つ、転がっているんだもの。
 夢じゃない。手を添えれば首がスースーしている。昨日の事が夢じゃなくて、さっき見たものは夢で。わけがわからなかった。
「……どうして」
 ぽつりと呟いても虚しい部屋に霞んでいく。
 双はいなくなった。あの後何をされたのか覚えていない。あの夢はなんだったんだろう、あれは双だったの? どうして私は、『さようなら』じゃなくて、『また会おう』を選んだんだろう。
 だって、双は酷くて、怖くて、凄く許せなかったのに。私は双を、許してるの? それともあの人が双じゃなかったから? どうして双はあんな事をして、こんな風に消えたの?
「安登ーっ! おーきーてっ!」
「……はーいっ!」
 もういいや、忘れよう。考えてもわからないんだもの。服を破かれた事くらいで他に何かされた痕跡もないし。できれば一飯一泊の恩を仇で返したあの少年を責めてやりたいけれど、どうせここにはいないのだし。全部が全部夢だと思って忘れよう。全く。本当に、奇妙でどこか切ない夢だった。
「……よぉし……お母さんおはよう! ……えっ!?」
 ばたんとリビングの戸を開けると同時に、お母さんとすれ違った。急いでいるようで、ばたばたと慌しくブーツを履いている。どうやらまた遅刻しかけているみたい。
 お母さんは考古学の助教授。意外と結構、忙しいらしい。調査とか研究会に呼ばれることもしばしばで、家を空けることが多い。だからこんな風に帰ってきても、すぐにまた行ってしまう。
「お母さん、また論文発表?」
「いいえ違うのっ! 今日はっ、念願のエジプトへっ調査にっ!」
「……お母さんって相変わらず典型的なB型人間だよね」
 荷物がやたらと大きいのはこのためか。どうやら長期らしく、家に戻ってきたのは必需品を取りに来た為らしかった。
 今度はいつまで行くんだろう。一ヶ月かな、二ヶ月かな。じっとお母さんを見下ろすと、視線に気付いたお母さんが振り返った。もうブーツを履き終わり、コートを羽織っている。後はもう、出発するだけだ。
「……行ってらっしゃい、気をつけてね」
「安登……ありがとう。ごめんなさい、家の事、頼んだわね」
 簡潔な言葉の中に、申し訳なさがにじみ出てる。少しだけ寂しいけど、これももう慣れたし大丈夫だよ。私はもう泣いてお母さんを引き止めるんじゃなくて、笑って送り出すことができるもの。ただお母さんはおっちょこちょいだから心配だけどね。
 ばいばいと手を振ると、心配げに振り向いたお母さんが苦笑した。
「ごめんなさいね、いつも家に居られなくて」
「いいって。早く行きなよ、間に合わなくなっちゃうよ」
「そう、じゃあ行って来ます。……あ、それから」
 ドアノブに手をかけて、去り際に最後の一言。久しぶりに会ったお母さんに名残惜しい気持ちが勝って一歩踏み出すと同時に、お母さんはニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、私の代わりに安登をよろしく! 双君!」
「はい、鏡花さん」
 肩に置かれた温かい手のひら。ぞっとするほどの生身の感触。
 隔絶を表すように扉は閉まって。振り返れば、彼が私を見下ろしていた。
 だけどその瞬間ほんの少しだけほっとしたのは、私が知っている双ではなくて、夢の中の彼だったからなのかもしれない。

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