わたし(家庭教師)

方程式の成り立ち―1―

「夕飯を五十円で済ませというのか」
 ちっこい3ミリの穴。覗けばそこにはまあるく切り取られた夕方の空。ああ綺麗だなぁなんて感慨にふけるはいいものの、後に残るのは虚しさだけ。覗いたまま下に逸らせば見えるのは茶色い光沢を放つ机の上に、安っぽい紙切れが一枚。
『安登へ夕飯はこれで済ませて頂戴ね。心優しきお母さんより』
 ふっ。………書いて満足見て地獄。何を言ってるのかあの人は。普通に考えてこれじゃあうまい棒5本しか買えない。そんなもので腹が足りるなら50円以上の硬貨紙幣は廃止されている。
 これは新手のイジメだろうかと銀貨を見つめて唸ったとき、ぴんぽーんと間延びした音が響いてきた。
「はーい」
 宅配便かなあ、美味しいものが届けばいいのになあ、なんて思いながらドアを開けた。でも……誰もいなかった。
 あれ? ピンポンダッシュ?
 人がお腹へってひもじい思いしてるときにピンポンダッシュ? よくもまぁ命知らずな事を。
「待てー!……うぁっ!?」
「いてっ!」
 何かに足がひっかかって倒れた。結構柔らかくて、温かみがあった気がする。
「げっ!!」
 見れば気絶した少年が1人、私の下敷きになって目を回していた。どうしよう、どうしよう。児童保護法にひっかかっちゃうよ。


「あぁ…どうしよう」
 とりあえず気絶した少年を玄関先に放置するほど鬼畜でもチャレンジャーでもない私はリビングのソファに少年を横たわらせた。結構軽いもので、運ぶのには苦労しなかった。
 でも改めて見ると綺麗な子。さらっさらの金髪だけど端整なお顔つきの日本人。この年でもう染めてるのかな?似合うけど。年頃は小学生高学年って感じ。しかし一向に目を覚まさないな……いよいよヤバい気がしてきたぞう……。
「……救急車呼ぼうかなぁ」
「それは勘弁してください」
 突如、むくりと少年が起き上がる。……う、わお金髪碧眼生粋のクウォーターっ!
 思わず見惚れていると起き上がった少年は優雅な仕草で髪を掻き揚げて傍に鎮座する私を見下ろした。小学生の癖に威圧的な目で。
「子供相手にいきなり飛び出すとは何事ですか。親のしつけがなっていないませんね」
 はい?
 丁寧な言葉の割に辛辣な物言い。耳を疑っている私を見下ろして、彼は薄く微笑んだ。
「何を見惚れてるんですか」
「……あ、ゴメンなさい」
 なんとなく謝ってしまった。一旦目をそらしたものの恐る恐る目だけで見上げると少年は相変わらず微笑んでいる。妙にしっくりこないな。なんでだろう。とりあえずこの場を理解しようと思い、負けじと私も顔を上げた。
「いきなりひどいことしちゃったのはごめんなさい。許してください」
 こういう生意気そうな口の利き方の子には逆に素直に謝っちゃったほうが効率がいいんだよね。心の中でそんなことを思いつつ、謙虚にぺこりと頭を下げた。案の定少年は満足したようににこりと微笑んで頷いてくれた。
「正直な人ですね。許してあげます」
 ふう、ひとまず第一関門突破。それで、ここからが本番なんだよね。
「じゃあさ、チャイム鳴らしたの、君かなぁ?」
「……それ……やめてくれませんか」
 急に不機嫌な表情になって、また言葉が刺々しくなる。それって何の事だろうと首を捻ると、ちょっといらいらした表情で少年が付け足す。
「その子供相手にするような言い方。ちなみに僕は君ではなく双と言います」
 神経質な子だなぁ。子供の癖に子ども扱いされるのが嫌なんだ。ちょっとおかしくてくすっと笑うと睨まれてしまった。ここは言う事を聞いてあげるか、と頷きかえす。
「双君ね」
「双でいいです」
「……双」
 答える代わりににこりと微笑む双。可愛いなぁ。やっぱり子供っていいね。ちょっと和みつつもその場を立って、ダイニングに向った。冷蔵庫からジュースをとってコップにとくとくと汲んでいく。一応お客様みたいだからね。確かここにクッキーあったかなと棚の上を探りながら、双に向かって声をかける。
「私は須藤安登って言うの。……ああ、あったあった」
「安登、ですか」
そのとき嬉しそうに、彼は私の名を呼んだ。

「どうぞ」
 なんだかこんな初対面で仲良くなっちゃったような感じだけど、それはそれでいいかなーと思いつつ双にお菓子とジュースを差し出す。でも彼はそれをじっと眺めるだけで、手を出そうとしなかった。気まずい沈黙が流れる。ずっと何も言おうとしないので、私のほうが耐え切れなくて話しかけてみることにした。
「えっと、双は」
「なんですか?」
「……あの〜……えっと、お菓子とかジュース嫌いだった?」
 あ〜……イッツア意気地なし。本当は単刀直入に「何の用で来たの?」って聞こうと思ったんだけど……なんだか聞きづらかった。妙に威圧感あるんだよね、この子……。
 双は私の質問に目を丸くするとくすりと微笑んで、出されたジュースに手を伸ばした。それを一口飲んで、またテーブルに置く。さりげないけど動作が美しい。また見惚れてしまった私をちらりと双の目が捉えて、微笑を浮かべた。
「いいえ、嫌いではありませんよ」
「好きではないんだ」
 あう、思わずつっこんじゃった。だけど双はまた面白おかしそうに笑って軽く首をかしげる。それと一緒にさらりと揺れる金色の髪。
 うわぁ可愛いなぁ。
「確かに好きではありませんね。今度はお茶でお願いします」
「……はい」
 今度……? 今度とな……?
 覚えててくださいね、なんて営業スマイルを向けられたけど、どういうことなんだろう。私がそれを不思議に思った事を読んだのか、双はまたふっと笑みを取り消した。妙に神妙な面持ちで、私をじっと見つめる。穴が開きそう……というか、いてもたってもいられない。こんな綺麗な男の子に見つめられるとなんだか照れる。
 身が持たなくてもぞもぞとしていると、双は小さく息をついて目を伏せた。
「安登」
「……なに?」
 いきなり呼び捨てですか。なんかこの子妙に大人ぶってるというか大人びていると言うか……ちょっと可笑しかったけど笑わないように気を引き締めていると、双の碧眼が私を真っ直ぐに見据える。
 びっくりして心臓が止まりそうになった。だって、奥の奥まで続いてそうな色だったんだもの。ハーフなのかな。目が合うだけでドキッとする。
 そうして双は、突拍子もないことをのたもうた。
「葡萄、って漢字で書けますか?」
 ……いや、うん、まあ、多分書けない。ぶどうブドウ武道。やっぱりわかんない。
「多分……いや絶対、書けない……かな?」
「そうですか」
 愛想笑いを含めてにへらと笑ったのにクールに切り替えされてしまった。こんな事聞いてどうするんだろう。小学生の間で難しい漢字でも流行ってるのかなぁ?
 ちょっと答えられない事を屈辱的に感じつつ双を見ると、私の邪推のように馬鹿にした風でもない様子。ただ少しだけ考えるように空に視線を這わせると、また目を伏せた。
 な、なんだろう。何かあるのかな。そんなに葡萄って言う漢字が知りたかったのかな。そうして彼が口を開きかけたとき、私は急いで立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「え」
「すぐだから、すぐ!」
 急いで二階の自室に駆け込んで、漫画本が並んでる本棚の下の段を探した。
「え〜と確かここに〜……あった!」
 急いでそれを引っつかんで階段を駆け下りる。どたばたと騒がしくリビングに駆け込んできた私を見て双は面食らったといわんばかりに目を丸くしている。それにかまわず私は分厚いそれをどんと机の上において、ぺらぺらとめくった。
「ぶどう……ブドウ……武道…じゃなくてぶどう」
「……何を」
「あった! あったよ葡萄!」
 見つけたそこを指差して、双に見えるように辞書を差し出した。ぶどう…葡萄と書く。なるほど、見た事ある漢字だ。
 どう!? と双を見ると、辞書と言うより私を凝視している。
 ――ん? 首を捻った途端に笑われた。仕方ないなぁって感じの、まさに破顔した笑顔。すごく、とびきりの笑顔だ。
「ごめん、僕が全面的に悪かった!」
 今度は私が呆気にとられてしまい、双が笑い終えるまでずっと辞書を指差したままの体制だった。それからふう、と双が一息ついて、私もふう、と身を起こそうとしたとき。双の顔がくっと近付いて、それはそれは綺麗な表情で、こう言った。
「僕が家庭教師になってあげます」
 小学生が、家庭教師。そんな無茶な。

Continued on the following page.

http://mywealthy.web.fc2.com/
inserted by FC2 system