喜悦的幸福

 春節元旦。それは一年のうちで最も喜ばしく、最も忙しい行事。まだ日も昇らぬ真夜中には、国中の皇族、儒者、将官、官吏、平民関らず都に押し寄せ、歌い舞い、灯篭行列で全てを照らす。各々の持ち込んだ供物を神君に捧げ、また披露し、一年の隆盛を願い礼拝してゆく。
 またそれに伴い君主も先君子と神仏に拝し祝詞を授かる。啓という、神酒で心身を注ぐ儀式を執り行うと、日の出を模す黄の衣冠を纏い国中の喝采を浴び寄せられた供物に目を通す。
 ちなみに。その中で選ばれたものだけが、神仏へと捧げられる。選ばれた贈物の藩主にとっては、これほどに名誉な事は無い。

 こうして新年の日を向え国中が夜中から喝采し、皇帝は丸一日以上、休み無しでその務めを果たし続けることとなる。
 また時の皇帝ティエン様も、これに然り。洩れることなく慣例に従い気を抜かず、務めを果たさんとその最も高い位の朱の椅子に座り続けていた。

 供物の報告は国中からこぞって贈られ、その数は目も眩むほど。それほどのものでなければ公吏が監査して事なきを終えるが、大国からのものとなると皇帝の目に通さねば理も立たない。贈物そのものが国の主張と相成らんばかりに、皆こぞって至高の物をと贈りつけてくるため、またその祝詞も半端なものではない。眩暈がするほどの量の贈物とくどくどと無駄に長い祝詞の羅列。まともに見聞きもしていれば卒倒もせんばかりの大仰さ。
 それが、一年で最も忙しい行事。紗の国の正月。そしてティエンが内心辟易してしまう、祝い行事。


「……はあ」
 疲労感が、普段の比では無い。年に一度と言えど疲れるものは疲れる。それでも重い身体を引きずって後宮に足を運んだティエンを、タオファは心配そうに寄り添い水を手渡した。
「少し、横になられては」
「……ああ、いや、大丈夫だ」
 いつもよりも多く煽った酒のためか思い倦怠感が身体中に充満し、疲れたように窓ぶちに腰掛ける。
 白光射す丸窓は開け放たれ、深閑の闇にぽっかりと満月が浮かぶ。もう、夜だ。縁に身体を預けてみれば、火照った身体にはその冷たさが心地いい。木々の合間をすり抜けてきた、澄んだ風を吸い込み、ため息のように吐き出すと幾分か酒気が抜かれた気がした。
 こちらを伺うように傍で立ち尽くしているタオファに目をかけたティエンは手招きし、寄ってきたところで腰を引き腕の中に抱きこむ。また、気を抜くように一息ついた。
「今宵は酒気が多いやもしれんが、許せ」
「い、いいえ……そのような、事は……」
 柔らかく、小さな娘。微かな華の芳香と、その暖かさに癒される。ほっとするとは、こういう事を言うのだろう。くすりと笑みを洩らす皇帝に、娘は不思議そうに目を瞬かせる。
「……陛下? いかが、なされました」
「……いや、何も。ただ、」
 ただ、あまりに、不思議なもので。この立場にいるせいか、何を見ても心動かされる事がない。この世に二つとない美酒も、それだけで小国一つかまえられる様な宝物も。いかにそれらが高価で素晴らしいものか延々と説かれた所で、唯の一つも興味を惹かれない。
 むしろ目に悪いほどに華美であり豪奢であり、また胸焼けのするような重苦しい価値観にいくつため息をついても足りない。目の前に並べられたところで、いかに価値を説かれた所で、ティエンには何一つそれらが伝わらない。
 難儀なものだと思う。それほどまでに高価値のものならば、国宝とすればいいものを。捧げられたところで、ティエンの前に置けば価値のないがらくたに成り下がってしまう。その意志は良い事だと讃える事はできるが、その物に対してティエンから声をかけることも感じるものも何も無い。
 だから余計に、疲労感が増したのかもしれない。
「ただ?」
 問い返すその声は、か弱くしかし美しい。脆弱で、力を込めてしまえば壊れそうなほどだ。だが、これこそがティエンの唯一。それが嬉しく、また呆れ果てる。
 何に対しての苦笑なのか、それはしかし悪くは思えないものでもあった。
「ただ、そなたが、あまりに愛しく思えたものだから」
 ぴくりと、肩がわずかに揺れた。見れば、顔は背けているものの、月の光に照らされたその耳までも紅く染められている。
 酒気のせいか、今宵の己は少々舞い上がっているのかもしれない。そう思いながらも微笑を浮かべ、その耳にそっと口づける。動揺は、抱き締める腕から伝わるけれど。それでも逃げない彼女が、たまらなく愛しい。
「そなたがいるからこそ、これまでを、そしてこれからを、嬉しく思う」
 天からの、授け物だろうかと思ったこともある。どんな贈物にも敵う事は無い、至上の美姫。これを手中に収めれば、何を見ても色あせるに決まっている。しかし彼女がいるからこそ、過去も未来も全てを享受し感謝し、そして慶びと歓楽を抱く事ができる。あっという間に過ぎてゆく日々の中で、枯れる事の無い華が咲いてゆく。
 己が己であったことに、これほどまでに満足したことがあっただろうか。触れるたびに湧き出る歓び。絶えず咲き誇る暖かい感情。

 透き通るような、白い、光の中で。一人の男が、一人の乙女を腕に抱いている。そうしてその何にも変えられない幸福に、静かに微笑を返しながら、満ち足りたゆえのため息を、ゆっくりとついた。

―完―

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