第六話〜永久の月光〜

 もう動く事のない死体を見下ろして、眉を顰める。血に濡れた惨状を見渡し皇帝は後悔と不本意な無念を感じていた。やらなければやられるのだから仕方ないとは言えど、花咲ける場所を血で汚してしまった。美しい、桃の花を。
「陛下!」
 ふと声がして振り返ると、ツァンや他の兵達が駆け寄ってくるのが見えた。タオファが呼んでくれたのだろう。本当はこんなところを見せたくがないために頼んだだけの事だったのだけれど、言った通りにしてくれたことが何故か嬉しく感じる。
 ただ、その場にタオファの姿が見えない事に安堵感を感じ、また妙な切なさを覚える。矛盾した気持ち。顔を合わせづらいのに、どうしても一目顔が見たいと思ってしまう。
「陛下! ご無事です、か?……どう、なさいました。お怪我でも?」
 ティエンの沈みこんだ表情に、心配したツァンが真っ青になって駆け寄ってくる。ティエンはふと苦笑すると、様子を疑うツァンを手で制した。
「私は平気だ。……そこの亡骸を、早く埋葬してやってくれ」
 戸惑うツァン等にそれだけ言うと、踵を返す。
 色々と考える事がありすぎて、なんだか疲れてしまった。花香る風の中を、胡乱な眼差しで歩き続ける。虚脱感は、いつまでもティエンの全身を纏わりついて離れてはくれなかった。

 タオファは、ティエンの行いを見てどう思うだろうか。血で穢れていると、野蛮だと思うだろうか。恐れるのではないか、忌み嫌うのではないか。考えたくもないのに嫌な思想が渦巻いて、頭の中をもやもやとさせる。
 タオファには、タオファにだけは嫌われたくない。恐れられたくない。あの手が離れていく事など、考えたくもない。
「……タオファ」
 身を裂くような思い。先ほどまで、この上なく満たされていたというのに。だのに今のこの飢餓感は何だというのか。たまらなく、どうしようもなく、心がタオファを求めてやまない。つい先ほどまで傍にいたというのに、会いたくて会いたくてたまらない。
 胸を支配する思いを振り切るように前を向くと、いつの間にか渡り廊下の傍まで来ていた。このままタオファの宮へと行ってしまいたいと思い、しかし不可思議な恐怖がそれを阻もうとする。会いたいのに会うのが恐ろしい。一度は宮のほうへと向いた足だったが、またすぐに方向を変えた。今は会うべきではないと、そう思うことにした。
 しかし。
「ティエン様!」
 望んでやまない、彼女の声。
 振り返ると、タオファがティエンの下へと駆け寄ってくるのが見える。恐れは瞬時に強烈な衝動にとって代わり、ティエンは手を伸ばしてタオファの身体を抱きとめた。
「ティ、エン様、ティエンさまっ……! お、お怪我はございませんか! どこか、どこか痛いところはっ!」
 半泣きになりながら、タオファが縋りついてくる。驚きで言葉が出ないティエンの頬を両手で触れて何度も確かめて、他にも怪我がないかどうか必死に確認する。その様子にティエンの胸は段々と締め付けられ、身を焦がすように切なく疼いた。
 タオファは返り血で汚れたティエンの服も気にせず、そして頬に付着した血も拭い取ってくれた。ただ、必死に。何かを恐れるように。縋るような眼差しを受けたティエンは、もう我慢の限界だった。
「タオファッ」
「きゃっ」
 頬に触れた手を取って、引き寄せる。拒絶する間もないほどに掻き抱いて、思うままに抱き締めた。
 焦がれる思い。どうしても、この手を離したくない。愛しくて、愛しくて、愛しくて。それ意外、考えられない。戸惑うように身じろぎするタオファの細い身体を壊れそうなほどに強く抱いて、その髪に何度も口付けた。
「タオファ、……タオファ……ッ」
 なんと言えばいいのか、表現する術すら思い浮かばない。ただ、様々な感情が渦巻いて、それが一心にタオファだけに向いている。とめどなく溢れる思いは止める事が叶わず、何度も呻くように彼女の名を呼んだ。何度も呼んで、触れて、滾るような激情が、ティエンを支配していた。
 そうして、暫く抱き締めていてまた心が満たされてきた頃にふと腕の力を緩めてやる。
「…………い、いきなり……すまない」
 今更ながらに妙に気恥ずかしくて熱の上がった顔でタオファを盗み見ると、タオファの顔もまた真っ赤に染まっていた。肩が震えていて、それでもしっかりとティエンの服を掴んでいる。
 その瞬間、直感した。タオファも、自分と同じ思いではないのかと。
 そう思うとごく自然に手が伸びて、タオファの頬にそっと触れる。びくりと、弾かれたように揺れるタオファの身体。驚いて見上げてくるタオファをじっと見つめて、今度はティエンは目を逸らす事はしなかった。不可思議な羞恥心はあるのだが、それ以上にタオファを見ていたいと望んでいる己がいる。
 震える唇を指でなぞり、じっとその目を覗きこむ。薄い茶色の、澄んだ瞳。純真な心を無垢にさらけ出して、穢れのなさを物語る。もっと見たくてふと顔を近づけると、タオファは恥じ入るように眼を閉じた。
 そしてティエンはそのままごく自然に、流れるように、その唇にそっと口付けた。
 たまらなく甘美な感触と、今までにないくらいに満たされる心。初めて、タオファに触れることができたような気がした。タオファの心に、触れることができるほどに近付いたような気がした。胸を締め付ける苦しみとは違う、甘い疼きが心に残った。
 永久のような一瞬のような時を感じたあと、そっと顔を離す。拒むことなく、ぼうっとティエンを見つめるタオファはたまらなく可愛らしかった。またその項に手を添えて、すっぽりと腕の中に収め今度は優しく抱き締める。身を任せるようにタオファが寄りかかってきたので、ティエンはこの上ない喜びに満面の笑みを浮かべた。
「タオファ……」
 一度たがが外れると、どうにも止まらないようだ。艶やかな髪に指を絡ませ、梳き、口付ける。されるがままになるタオファを見ていてもまたますます愛おしいと思うのだから、もう重症だ。重症だけれど、病ではない。もうその正体が、わかった。解ってみると、とても晴れやかで、曇りも迷いも一瞬で消え去ったように感じた。
「タオファ……頼みが、あるのだが」
 己の中で確信となったものに突き動かされ、ティエンはその先を見据え望みを抱いた。顔を上げて不思議そうに見つめ返す彼女に、ティエンは照れたように苦笑しつつもその先を続ける。
「その、私は何もしないと約束する。ただ、傍にいるだけでいい。……だから」
 微かに強張るタオファの身体。しかしティエンは、その微かな反応に気付かない。気付かないまま、その言葉を紡いだ。
「今夜……そなたのもとに行っても、いいだろうか……?」
 タオファは俯いたまま、顔を上げない。やはり断られるかとティエンは身を硬くしたが、予想を反してタオファはこくりと頷いたので歓喜して頬を綻ばせる。ただ無邪気な喜びだけを感じて、顔を上げないタオファをもう一度抱き寄せて余韻に浸った。


「ツァン、もうこれで全部か?」
 ばさりと、書類の束を机の上にのし上げる。膨大な量。それでも、ティエンはいつものごとく、いやそれ以上の速さで片付けていった。
 昼間からの皇帝のやる気ぶりにツァンは目を見張り、ぱちぱちと瞬かせた。
「ええ、本日は……以上で終了ですが。……陛下、いかがなさったので?」
「ん、何がだ」
 偉くご機嫌な様。ティエン自身はそれを隠しているつもりだが、傍目にも一瞬で解るほどの陽気さだ。一体どうしたのかとツァンが眉を顰めるのに気づいたティエンはふふんと誇らしげに笑った。あまりの嬉しさに、彼はいつになく浮かれていた。
「ツァン、私は病を克服したぞ。もう恐れるものなど何一つない」
 確信に満ちた言葉。満たされた心は、何一つ曇りない。この仕事が終えれば、あとはタオファに会いに行くだけだ。別に彼女が言っていた宵添えとかそんなものは関係なく、ただ傍にいたいと思ったから。そして、ティエンがこれまで抱えてきた様々な思いを、解き放とうという決意もとうにできている。
 新しい一歩を踏み出す決意に喜びを感じて、ティエンは逸る心で仕事を早く終わらせようとこなしたのだ。それなのに。それを聞いたツァンは、浮かない表情をしてティエンを見据えた。
「なんだ? ……ツァン、どうした」
「……陛下に、ご報告しなければならない事が」
 ただならぬ表情に、ティエンの笑みが徐々に薄れてゆく。疑念を孕んだ眼差しを向ける彼に対して、ツァンは険しい表情で告げた。
「―――あの、タオファという娘は……」


 静かな夜。満月は煌々と冴え、静寂の光を眠るもの全てに降り注ぐ。暗く闇に浸された道を照らすのはぽつりぽつりと一定距離に燈る灯篭のみ。橙色に揺らめく炎の灯かりを踏みしめて、夜を歩くものが一人。静かに、何も起こさぬようにと。穏やかな表情で、一歩、また一歩と確実に望むべきところへ進みゆく。
 そうしてそこにたどり着いたとき、彼は小さく息をついた。足元をじっと見つめ、それから顔を上げ前をしっかりと見据える。迷いなき瞳。その奥にいる一人の少女に出会うため、コンコン、と二回扉を叩いた。答えはない。しかし、彼も答えを必要とはしていなかった。形式的なそれを終えて、ゆっくりと扉を押し開く。
 月明かりだけに照らされる部屋の中に、彼は一歩足を踏み入れた。月明かりの窓から伸びるように、月光の道が一筋伸びている。そこを辿るように歩いていけば、すぐ傍に、風に揺られてさらさらとはためく天幕が見えた。透き通るその先にあるべき人を見出して、彼は穏やかに微笑んだ。
「タオファ」
 それは今迄で一番優しく、穏やかな呼びかけ。その名を刻んだとき、彼の胸は小さな痛みを伴っていた。

 天幕をめくると、タオファが寝所の中心で座りティエンを見上げていた。いつになく静かで、いつになく寂しげな表情。ティエンはゆっくりと天幕を潜ると、その場で跪いてタオファを見上げる。
「そちらに行っても、いいか?」
 暫くの沈黙のあと、言葉もなくタオファは頷く。ティエンはほっとした表情を浮かべ、タオファの前に腰を下ろした。
 いつも結ってある彼女の髪は全ておろされていて、月光に映えて艶めいていた。目を奪われるほどに美しい、黒髪。それを愛おしそうに見つめてティエンは手を伸ばし、しかし寸でのところでその手を止める。気遣うような眼差しが、タオファを捉えた。
「……触れてもいいだろうか」
 彼女の了承がなければ、絶対に触れないとその目が語っていた。タオファはひっそりと微笑んで、伸ばされた手のひらに頬を寄せて手を重ねた。かみ締めるように眼を閉じて、擦り寄る。指先から、溢れるような愛しさを感じた。
「タオファ……こちらへ」
 その手を手繰り寄せて、昼間のときのように腕にしまいこむ。いいや、昼間よりももっと緩慢に、穏やかに、ふわりとその身体を包み込んだ。
 震える、肩。ずっとずっと、触れる前から震えていた。それでもティエンから離れようとはせず、むしろ縋りつくように背中に手を回す。タオファは、涙で潤む瞳のまま微笑み、一筋の涙を流してティエンを見上げた。
「……わたくしを、抱いてくださるのですか」
 震えて、泣いているというのに。それでも彼女は幸せそうに、微笑んでいた。いや、彼女もティエンと同じく幸福を感じているのだろう。同じ程に、痛みを伴いながら。
 ティエンはそんな彼女の涙をそっと拭うと、再び抱き締めて優しくこめかみに口付けを落とした。
「抱かない。……今日は、抱かない」
 ただ、彼女を限りなく傍に感じるために抱き締める。けれどけして、壊さないように。傷つけぬように。
 沈痛な眼差しを向ける彼女を見下ろし、ティエンは切なそうに微笑みそっと頬をなでた。
「……タオファ、恐れるな」
 とめどなく流れる涙。とどめる術は、いまだ見つからない。それでも。
 ティエンはタオファの手を取り、指を絡めてぎゅっと握る。離さぬように。独りにさせないために。
「どれだけ拒絶しようともかまわない。どれだけ否定したってかまわない」
 もう、二度と彼女に独りで辛い思いを背負わせたくはない。独りで泣かせたくはないし、無理に踏み込んで傷つけようとも思わない。何度も、何度も彼女を傷つけてしまったけれど。どうしてもその苦しみから解放したくて、守りたくて。けれど。
「心を閉ざしてもいい。信じなくてもいい」
 哀れな娘。愛しい娘。触れれば壊れそうなほどに脆く、しかしそれでも耐えうる強さを秘める娘。
 庇護という名の独占欲で縛りつけようとしたときもあるけれど、今は、違う。
「無理に見ようとしなくてもいい。知らぬ振りをしていてもいい」
 己の中に感じる、昼間の激情と相成る、静かに溢れゆく穏やかで暖かい想い。
 傷つききった彼女を癒すように、髪を優しく梳いていく。段々とおさまってゆく、肩の震え。沈痛な眼差しを包み込むように、ティエンはふわりとタオファに微笑みかけた。
「傍にいるよ、タオファ。どんなときも」
 暖かな心地。彼女に出会ったことで、手に入れた暖かな想い。苦しみなど何一つなく、絶える事のない幸福感が身を包む。
 あれほどまでに彼女を求めていたけれど、今はまったく別の感情に変わっている。今でも、欲しいと思ってやまないけれど。それ以上に強い望みがある。
「そなたが何を抱えていようが、独りで強く在ろうとしようが。私はどんなときでも、そなたの傍にいる。タオファの傍に、いつも在る」
 離れない。泣いていても、苦しんでいても。絶対に離さない。絶対に、傍にい続ける。それがティエンにできる事。それがティエンの望み。タオファをいつ何時たりとも独りにさせないことが、ティエンの望み。
「……ッ……ど、うして……ッ」
 溢れる涙は、やはり止まらない。どうしたらいいのかとティエンは困ったように微笑み、涙で濡れた頬に口付けた。愛しむように、こめかみにも、瞼にも、指先にも。最後に、タオファの唇に深い口付けを落として、抱き締めて、囁いた。
「愛しているから」
 心より、深く、深く。誰よりも、何よりも。頭の先から爪先まで、笑った顔も泣いた顔も。彼女の苦しみの悲しみも、全て含めて愛しい。他に何も望まない。傍にいられるのであれば。ずっと、ずっと、いつまでも。

 おずおずと、抱き締め返してくる彼女の腕。それは腰にまわり、ティエンがタオファの身体を深く抱きこもうとした瞬間。どん、と突き飛ばされる身体。タオファは涙で濡れた目でティエンを睨みつけ、手を振り上げた。
「さようなら」
 月光に輝いたのは、鋭利な銀の刃。苦悶に満ちた表情。全てを享受した穏やかな眼差し。振り下ろされる、決断。
 褥を照らす白き月光に、花咲くがごとく鮮血が一つ二つと滴った。

―続―

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