隣りの子ねこ

ペットシンドローム

 彼女が忽然と消えたのは三月十五日、ホワイトデーの翌日。何の言葉も何の前触れもないまま彼女は俺の部屋の隣のあの部屋から姿を消した。
 昼間訪ねた隣の部屋は、広く感じる錯覚を起こすほどにがらんどうと化していた。

「ナニソレ、流行の携帯自作小説?」
「違う」
「詰まんねーよ、俺を主役にしろ。sakumaの物語」
「違うっつってんだろ……つーかそれも嫌だ」
 何が楽しくてそんなもん書くか。それどころかお前が主役かよ。強いて言えばこの場合俺だろ、普通に考えて。
 なんで、佐久間に話すと、いつもこうなんだ。というかよくよく考えてみると俺は前回コイツに全てを話して後悔していた気がする。
 迂闊、俺。一番暇そうな奴に私情を話しても話のネタにしかならない。
「遊佐どうすんの」
「……ああ、醤油でいいや」
「じゃ俺チャーシュー」
 しかもなんでまた行くところがラーメン屋。自分を情けなく思いつつ流されるままカウンターの前に腰掛ける。
 そういやバレンタインデー前日以来だ、この店。相変わらず油くささと湯気が入り混じってやがる。
「で?」
「ああ?」
「ああじゃないよ。正直どうでもいいけど、その小説の結末は」
 小説じゃないってーのに、こいつわざと言ってんな。まあ確かに、作り話っぽい話だけど。
 彼女が突然ドロンして、それから何かが起こるとかそんな事も無い。
大家さんに聞くと「解約された」って答えるだけだったし、彼女の居た部屋の隣は一番端の部屋だったから俺以外の隣もいなかった。何かを知る手がかりも掴めなければ、何の進展も仕様がない。
 俺だって、どうすりゃいいか分からないままだ。
 どうしろって言うんだ。この場合俺が主人公だとしたら、何をしたらいいんだ? あれから一ヶ月が経ったが運命的な何かが起きる訳でも無し、佐久間の言う三文小説通りなら何か起きろよという話だ。
 捜せばいいのか? 捜してどうするんだよ。ただの隣人だったってだけのあの子を。
 そりゃあんな風に別れたままであんな風に消えてしまえば流石に気になるけど、それをどうにかしようともできるとも思えない。
 むしろ俺は少し腹立たしくなったほどだ。あれほど俺が気にかけていたのに、何の声もかけずに消えた彼女に対して。まるで俺にあてつけているような気がして、それ以上に進みたいと思うことができなくなっていた。
「……ねーよ」
「あん?」
「お待ちどうさまー」
「おおっと、はーい」
 慌しく醤油とチャーシューが届く。これでこぼさないのだから手馴れたものだけど、たまに親指入ってんだよな。気にしたらみみっちいから見て見ぬ振りだけど。
「ちょ、胡椒とって」
「ん」
「で? 何が無いって? 箸ならそっちにも置いてあるよ」
「ちげーよ」
 こいつと会話してると時々ならずしょっちゅうむず痒くなってくる。わざとと天然のギリギリのラインだからキレるにキレられない。
 けれど言われるままに箸に手を伸ばし口に挟む。ぱきっといい音がして、綺麗に割れた。今度からこの方法で行くかな。
「結末は無い」
「……んん? そういう話ってことか」
「……いや」
 スープに自分の顔が映る。見つめ返してくるそいつは、苦々しく笑っていた。
「まだ、終われない、っぽい」
 まだ。まだ終わりは来ない。現在進行形で、話は書き足されている。なぜなら俺はまだ、どっちつかずの気持ちだから。
 観念するように、スープに箸を浸した。


 曖昧な日々が、流れ作業のように滑らかに明日へと進んでいく。これという確信も無い感情を抱いたまま夜寝て朝起きて昼大学行って夜バイト、そしてまた就寝。
 そんないつもとさして変わらないはずの毎日。けれど何かがどこかで食い違っている。生きていけないことも我慢できないこともすることもないのに、ふとした時に思う。
 なんでいきなり現れて、いきなり消えたんだろう。それが俺のせいなんじゃないかって感じている俺は、自意識過剰なんだろうか。確証も無いのに、確信はしているんだから俺の勘もまたご立派なものだ。
 彼女はどうして俺の隣に現れたんだろう。どうして、忽然と、姿を消したのだろう。俺はそれをどうして、普段見過ごす日常の一つとして、受け流すことができないでいるのだろう。
 考えれど考えれど答えは出ない。それなのに思考は飽きもせず廻り、いつまでも途切れない。
「ようは好きって事なんだろ?」
 好き? 
 違う。そんなに瑞々しいものなら、俺はもっと恋愛らしいことをあの子にしてやれた。俺は黙って首を横に振る。
 もうすぐ春なのに、やっぱりまだ夜は寒い。吐き出した息の白さで、半分欠けた月が朧に見えた。
「お前どうしたいの? めんどくせえ奴」
 呆れたように佐久間は言った。
 この単純B型野郎め。お前に俺の崇高な思いが分かってたまるか。
「……どうしようもないんだよ阿呆」
 口にすればするほど、阿呆は俺のような気がしてきた。多分佐久間もそう思ってる。
 俺だって面倒くさいのは嫌いだ。あの雨の時だって、そう思っていたはずだった。
「あのさあ、俺思うんだけど、言っていい?」
「なんだよ」
「……やっぱいーわ。怒るもん」
「言えよ。気になるだろ」
 中身によっては怒るかもしれないが言いかけて止められるほうがよっぽどむかつく。肩でどつくと佐久間は大げさによろけた。というより、俺から距離をとったのかもしれない。
 何を言うつもりなんだ。
「だってさあ、遊佐のそれ、違くね?」
「はあ?」
 思わず語尾を上げると、佐久間は怯えるように顔をひくつかせた。
「こわ。……だから、どうしようもないっていうの? それは何か違うっぽいって、俺は思うわけ」
 要領を得ないな、はっきり言え。
 佐久間はたまにこんな風にして煮え切らないときがある。そしてそういう時、コイツは必ず、ドキッとすることを言う。
 俺は聞きたいような聞きたくないような、そんな気持ちに駆られつつも平静を保つ振りをした。
「……何が違うと思うんだよ」
「いや……だって、どうしようもないことなんてまだ何もないじゃん」
 すん、と佐久間は鼻を啜って月を見上げた。妙に拗ねた表情が子供っぽい。
 俺はきっと、こいつが何を言うか、もう自分自身でも気付いている。それでもまだ蓋がかかっていて、奴にそれを開けてもらおうと、黙って歩く。言うまで、黙って歩いた。
「小説の主人公は、自分がやるべき事に進むよ。だってそうしないと話が進まないし。でも遊佐は終われないって言った。それって、そういうことなんだろ」
「なんだよ」
「俺から見ればいっぱいあるんだよ。彼女を捜すとか、自分の中で決着つけるとか。ただのんびり過ごしてハイ終わりました過去の話です、なんて、クソ小説もいいとこだ」
「小説じゃないだろ、普通に現実の話だ」
「でも終われないってお前が言ったんだろう、遊佐」
 佐久間が足を止めて俺の方を向いたとき俺は漸く気付いた。こいつは何に対してか怒っている。その表情はいつものぼんやりしたものより少し真面目に映るだけだったが、口調だけは完全に違っていた。激怒というほどでもなさそうだ。それでも、その眼差しは俺を責めたそうにしている。
 けれど暫くの沈黙の後眼を逸らしたのは、佐久間の方が先だった。何故だか悔しそうなのに、引っ掛かりを覚える。
「佐久間」
「終われないって言ったんなら、お前はどうにかしたいはずだ。少なくとも、俺にはそう聞こえた」
 確信を突かれたというよりも、「ああ言われてしまった」と、どこか観念した気持ちが俺の中に滲み出てくる。暖かいラーメン屋から寒いと知っているはずの外に出て、「寒い」と身に染みる感覚と似ている。
 佐久間の言葉は、冷えた鼻の奥に急につんときた。
「どうにかしたいと思ってるくせに、そう思う自分を無かったことにしてるのが今なんだろ。お前、自分がどうにかしようとしてどうにもならなかったときが嫌なんだよ。それを想像して止まってんだよ。だから、いたずらに時間ばっかり過ぎていくんだ」
 いつにもまして、憎らしいほどはっきり言ってくるくせに、怒る気になれなかった。ただ佐久間の言葉は、俺のなかの曖昧な部分を気持ちがいいくらいに線引いてくれた。
 深呼吸して、空に吐き上げる。身体の芯まで冷たく澄んだ空気が染み込み、火照った身体も漸く冷え切った。馴染んでみるとこの寒さも案外心地のいいもので、不思議なもんだ。
 月に照らされた道を、道路の白線に沿ってゆっくりと歩き続けた。


 冷え切ったドアノブをしっかりと握って最後まで捻り、押そうとする。当然開くはずもなくダメもとで俺の部屋の鍵を宛がってみるが、それもまた当然合うはずもなく拒まれた。
 まあ、当たり前といえば当たり前。俺の部屋の鍵が隣の鍵に合致するはずも無く、ましてや誰も住んでいない部屋の鍵が開きっぱなしになっているはずが無い。
 判ってはいたけれど、試したかった。もしかしてなんて、ありえない期待に縋る俺がいた。
「あ〜あ」
 残念至極に情けない声を上げ、雨水に錆びかけた手すりに肘をかけもたれかかる。首だけ後ろにかくんと倒すと、屋根の先から月が覗いた。
「……寒みぃ」
 今は4月。彼女が来たのは半年前。まだ雪も降らない、十一月の始め頃。それでもきっと、今よりも寒い季節だった。雨も凍てついて、本当に凍えていたように思える。
 濡れた猫を抱いて、おどおどと見上げてきた、見慣れない子。『なんなんだ』なんて、あの子に出会ってから何回思ったことか。
 なんで俺のところに来たんだよ。なんで消えたんだよ。意外と気まぐれだったりする? それだったらマジで猫みたいだな。
 ――どうでもいい事ばかり、考える。でもどうでもいい事なのに、無性に気になるんだ。

 今、何してる? 気になるよ。どうでもいいことだけど、気になるよ。
 君が居なくなってからずっと、俺は。そんなどうでもいいことばかり考えて、落ち着かなかった。落ち着かなかったんだ。

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