隣りの子ねこ

ノラの夕方

「バレンタインデーのお返し」
 その日は雲ひとつない晴天。うんざりするほど燦々と照る日差しが眩しくて、でも目を逸らすのは癪で目を閉じては再び睨みつけると繰り返していた間に、気がつけば講義は終えていた。
 各々席を立ち荷物をまとめる学生達。そんな中で、ちらつく太陽の残像に惑わされている俺の肩を、トントンと軽く、隣りが叩いた。
「チーズケーキがいいなー。驕ってね」
 残像を掻き消したのは、見慣れた美咲の笑顔。元彼女の微笑みは、そう経っていないにも拘らず、何年ぶりかと思うほどに懐かしかった。

「チョコ、食べた?」
 ホワイトデー当日はやっぱりどこも盛況だ。いつもは落ち着いた雰囲気のこのカフェも、ウェイトレスが忙しそうにせかせかと働いている。甘い匂いは店そのものに染み付いているようで、甘いものが嫌いでなくとも眩暈が起きそうな、そんな感覚を覚えた。
 綺麗に焼けたチーズケーキにフォークを差し込む美咲の指は、薄いオレンジのマニキュアに飾られて、それ一つの動作がやけに綺麗だ。俺は、それを見てるだけでもうお腹いっぱいな気分で、飲む気もなくコーヒーに口をつける。
「食べたよ」
 口に入れる直前に答えたせいか、美咲はあんぐりと口を開けたまま制止した。
「……食べたんだ!」
「なんでそこで驚くんだよ」
「……え、なんか……なんとなく……」
 変な奴。思わず笑うと、拗ねたように、食べ損ねた一欠けらを含んだ。それからどうしてか、照れたような苦笑するような、曖昧な表情で微笑む。
「遊佐……絶対誰かにあげちゃうと思ったけど……食べて、くれたんだね」
 一瞬ぎくっとした。
 バレンタインのあの夜、違う未来を辿りかけたチョコレート。
 こいつ、前々から薄々思ってはいたけど、感がよすぎないか?
「遊佐?……どしたの?」
「……いや、あ〜……と、」
 言うべきか言わざるべきか。一瞬迷った、けど。けど、思ったよりも結構熱いコーヒーを嚥下して、意を決する。
 言ったら言ったでなんとなく美咲は傷ついてしまう気がする。でも別れた今、何故か、そう今更、美咲に対して誠実になりたいと思った。付き合ってた頃はどうだったかな。こんな風に思うことはなかった気がする。
 なに? と聞かれたら大抵の事は「別に」と答えて、話題を逸らしてた。
「美咲」
「なに?」
「何で俺が食べてないと思ったの?」
 実際、彼女があの夜泣きそうな顔で逃げてからその後すぐに、俺はそのチョコを一人で食べた。プロの作ったチョコはやっぱり形も綺麗だし味も滑らかで、ああ既製品の味だと当たり前のことを思った。
 けどそれは手作りよりも妙に味気なくて、それから食べた後にはどうしようもない寂しさが襲った。とんでもねえチョコだと思ったものだ。じゃあどっちが良かったんだと自問してみても、答えは出なかったけど。
 美咲は暫く黙ってた。それから、店の中が少し落ち着いた雰囲気に戻ってきた頃、まだ湯気の立つ紅茶を覗きながら、独り言ちた。
「遊佐は……ヘタレだから」
 ぐっと咽が詰まる。胃に運び込まれるはずだったコーヒーは気道に迷い込み、存分に俺を咳き込ませてくれた。
「お前……ゲフッ、な、んだよっ、いきなりっ」
 やばい、何人かこっちを見ている。
 咳を最小限に抑えようとかがんで咳をしていると、やっぱりヘタレ……と美咲が呟いた。お前、もしかして前からそんなこと思ってたのか。
「へ、ヘタレでなんで食べない結論になるんだよっ」
 ああもうホントにこいつはいつでも突拍子が無い。でも咄嗟のことでヘタレに対して返す言葉が無い俺も十分ヘタレだ。
 美咲は俺のたじろぎ振りに可笑しそうに笑ったけど、またふ、と色あせた笑みに変わる。過去のものを懐かしむようなそれが、俺と美咲が終わったことを、証明しているような気がした。
「あたしがいつも手作りだったのに、最後に市販にした意味、解る?」
「いや……」
 睨むなよ。それが解ってたら俺だってきっと、多分、あの子にあげようなんて気にもならなかったはずなんだから。あんな風にも、ならなかったはずだ。でもそれは美咲とはもう関係の無いことだ。
「あれは、そのー……あたしの精一杯の、女心ってヤツだったんですよ」
 でた、俺的宇宙語。
 苦手意識が顔に出たのか、美咲はむきになって俺を睨んだ。
「遊佐はね、デリカシーがないんだよ。あたしいっつも、女心出し損ねてたんだからね!」
 はあ? 出し損ねるってなんだ。
「だって、初めて部屋行った時に、早速器用に手料理作ってくれたしさ」
「……駄目なの?」
「駄目じゃないけど駄目。だって、美味しかったし、その後も何でも作ってくれたし……だから、」
 だから、女としては、彼氏よりも下手な料理なんてお見舞いできなかった。
 解るようで解らない理屈だ。男からしてみれば彼女に料理を作ってもらえばそれだけでも嬉しい事実だし、美味ければ尚いいがそれよりもむしろ一生懸命作るところが可愛いと思ったりする。別に美味くなくたっていい。
 いや、違うな。むしろこれが俺のデリカシーの無さなのか。
 美味くなくたっていいなんて発言はむしろ、うまく作れる奴の理屈だ。少なくとも美味く作れないと思っている奴にはそう聞こえかねない。
 彼氏の部屋で一度も手料理を振舞ったことが無い彼女に対して、特に何も考えず「何が食べたい?」だのと聞いていた俺。作れなかったんじゃなくて、作りたくなかったのか。
「だから……最後の最後で市販だったのかよ……」
「そうだよ? 遊佐は優しい人ぶるから手作りだったら食べてくれると思ったけど、今更、市販しか買えなかった」
 優しい人ぶるって、失敬な奴だな。
 そうは思いつつも、寂しげに笑う元彼女を見てしまったらもう言い返せなくなってしまうところが、俺の弱みでもあるんだろうけど。
 高々数ヶ月の仲なんてものじゃなく、何年か付き合った仲だ。美咲には俺のことなんて丸見えなんだろう。他の奴に言われたら悟ったような事言ってんじゃねえよって興ざめするけど、美咲に言われると納得せざるを得ない感じだ。
 気付けばこれは、親友に近い感情の置き方。俺も美咲も、一度断ち切ったからには、進まないわけにはいかない。忘れかけていた寂しさが少しだけ戻ってきた気もするけれど、これは置いていこう。それが一番いい。
「遊佐」
「……なんだよ」
「遊佐は優しくって、浮気もしなくて、よくみれば実は結構かっこよくて」
 よくみればは余計だ。
「ちょっと大人っぽい雰囲気でもててたし、一緒にいて落ち着く雰囲気の持ち主でした」
 過去形が憎い。といっても、俺らが話し始めてずっと、過去形でしか喋ってない。
 俺も美咲もそれに気付いてる。それが少し寂しくもあり、また嬉しくもある。過去として話せるなら、俺達はまたずっと続いていけるだろう。違う関係であっても、それは終わりじゃない。形は変わっても、尊い仲だ。青臭い青春事でも、結構嬉しいもんだ。美咲もそう思ってくれていると、なおのこといいんだけど。
「俺も美咲が彼女で良かったよ」
「……それは禁句でしょ〜」
 思ったままを口に出してしまったけど、それも失言だったらしい。呆れた表情で、美咲は紅茶をこくりと飲み干した。
「あー良かった正解だったよこんなデリカシーない男と別れて! 中身はただのヘタレだしさー!」
 耳が痛い。ずばずばという女め。小憎らしいけど、皮肉を言う元気があることにほっとする。
 俺が言うとまたデリカシーがないとつつかれそうだから口にはしないけど、こんな俺のせいであんな表情をさせるのはごめんだ。笑ってる顔が好きなのだけは、前も今も変わらない。
「遊佐ー?」
「んー……?」
 テーブルに突っ伏した彼女の髪が、照る夕日にキラキラ光る。赤とオレンジと茶色が交じり合い、とても綺麗だ。その色が、いつもの雰囲気を取り戻した店内の静けさが、からのティーカップが。諸々相成って、少し切なくさせる。
 美咲は穏やかに目を閉じて、最後の手向けを俺に渡した。
「もう、傍に居るだけの彼女は……あたしで最後にしてね」
 痛かった。痛かったけど、心地よくもあった。一欠けら残した想いを捨てない女の情が、愛しかった。
「……ああ」
 別れを告げられて、さり気無くショックだったこととか。メールも電話も来ない夜が、思ったよりも寂しく感じこととか。笑い通り過ぎるその後を、暫くは目で追ってたんだとか。
 そんな事は、秘めておこう。そしてまた過去だと笑えるそのときに。話の種に、使ってみよう。きっと君は、拗ねつつもはにかんで、笑ってくれることだろう。

 それから帰り道、バレンタインの夜に仕出かしたことを全部美咲に打ち明けた。彼女はやっぱりヘタレだねと、少し大人びた表情で微笑んだ。

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