隣りの子ねこ

子ねこのあやし方

―Her―

たった一瞬の衝動で、こんな大それたことをしてしまう自分がいるなんて。
あの人を中心に、知らない私がどんどん成長する。自分が自分じゃなくなるこの感覚は不思議で、怖くて、でも大切だと思えた。この気持ちは何より大切だと、宝物だと、思えた。

「じゃあ、ね」
「ああ」
隣から、あの人の声と、もう一人女の人の声が洩れてくる。玄関先で、喋っているのかもしれない。
聞き耳を立てる、なんてはしたない事かもしれないけど。でもどうしても気になって気になって、部屋の中心で身動きとらずに冷めたカップを両手で握る。
あの人に教えてもらって、やっとガスをつけてお湯を沸かしたりと覚えて、コーヒーも入れられるようになったのに。あの時入れてもらったココアほど暖かくてほっとするようなものは自分で作れなかった。寧ろ今は、冷たくて心許無い。
「遊佐……ね……」
「……あー……人が来たらやべーし……」
甘えるような、女の人のしっとりとした声。何かをねだっているとすぐに解ったのは、女の勘って言うものなのかもしれない。
それから、じくじくと胸が締め付けられる痛み。これは、なんて、言うものだろう。
「……ダメ?」
やめて。
よくわからないけれど、激しい危険信号と悲壮感が頭の中で泣き喚く。何かに縋りつきたい衝動で、殆ど気休めにしかならないけれど耳を塞いだ。
でも声は聞こえてこない。それは、耳を塞いだせいじゃないってことなんかわかりきっている。その他愛もない小さな間が、大きな力を持って胸に食い込んだ。
 痛い。
 痛い。
 すごく、痛い。

「…………ん……ふふ、恋人っぽい、ね」
「ぽい、じゃないだろ」

 螺旋のように痛みが廻る。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 哀しくて悲しくて。
 それでもとめどなく想いは廻る。
 ぐるぐる。
 ほんのちょっとの間でも、傍にいられたら幸せだと思っていたけれど。こんなに哀しい事は無い。こんなに哀しい思いは無い。

 それでも廻る想いは溢れ。
 零れたひとつを、そっと拾った。


―He―

 恋人同士と言われぎくりとして、そんな自分に感じた罪悪感を取り繕うように肯定した。
 ああ、なんだっつーんだろう。他愛もないその甘え縋りを重く感じて、脳裏にちらりと関係ないものが思い浮かんで。一体結局何に罪悪感を感じてんだか、自分自身に白けてくる。
 あいつがあんな風に言ったのだって、俺の態度に不穏なものを感じとったからだろう。女はこういうところ、怖いくらい敏感だから。
「……疲れた」
 一人っきりとなった部屋の中で、ようやく安堵の息を吐く。なんかおかしいとは思ったが、それ以上追及する気になれなかった。
 ろくなもんじゃねえな。なんか知らんが色々面倒になってきた。何もやましい事はないはずなのに、どうしてこうもはっきりしない、気持ちの悪い心情なのか。ひどく煩わしく感じる。
 大体。
 大体、大体。
 くそ。
 何に当たればいいかも解らずに、薄い壁に背中を預ける。
 薄っぺらな壁一枚。
 薄っぺらだ。音も小さい音ならまだしも少しくらい大きければそれなりにつつ抜けだし、振動も伝わるし。薄い壁に覆われた頼りないプライベートルームだ。
 薄っぺら過ぎて、たまったもんじゃねえ。余計なもんまで伝わってくる気がする。お前のせいだ、お前の。
「……いて」
 ごん。と、頭をぶつけて呟く。
 虚しいッたらない。
 俺の抗議はちょっとは伝わっただろうか。なあ、ボロ壁のくそったれ。


―Her―

 どん。
 ごん。
 背中越しに、振動が伝わる。
 びっくりして背中を離すと、少しして小さな呻きが聞こえた。

 どうしよう、どうしよう。
 これって、あの、あれ。

 すごく、すごく慌てて。誰もいないのに、部屋の中をきょろきょろと見渡してしまう。声を立てないように、音を立てないように。そっと、壁に向き直った。
 正座をして、じっと何もない壁を見つめる。さっきとは違う胸の痛みが、何かに握られてるようにぎゅっとなる。それは涙腺と繋がっているのか、ふいに泣きたくなってしまった。
 こんなの、おかしい。理由もないのに、どうして涙腺が緩んでくるんだろう。
 でも、不思議。
 泣きたいような、でも、胸が苦しくて、それから、嬉しいような、暖かいような。言い知れない、この感情。壁の向こう側に直結しているような、そんな予感。
 こわごわと、壁に触れてみた。
 硬くて、冷たくて、動かない。
 でも。
 でも、でも。暖かい、気がする。
 伝わってくる、気がする。
 暖かい温度が。その、安心するような、大きくて、暖かい鼓動が。
 それだけで、もう。苦しいのなんか、なくなって。手のひらから伝わる、感覚だけの温度。暖かく包まれるような、胸の苦しみ。冷えきった芯に届く、何か。
 こんな事だけで幸せになれる。例え伝わらなくても、感じれることがある。ゼロじゃなくて、一つだけでも嬉しいことがある。その一つが、こんなにも幸せな気持ちにさせてくれる。
 凄い、事。
 嬉しい、事。
 伝わらなくても、伝えられなくても。それでも今、嬉しくて、ほっとして、幸せだから。今この瞬間を、一生大事にしたいと思う。一生大事にしたい気持ちを、今、壁越しに感じている。


―He―

 ふいに、聞こえた。鼻を啜る、音? と思えばしゃくりあげる小さな声や、くぐもった声。
 なんだなんなんだと振り返っても、そこには壁しかなくて。壁しかないけど、聞こえた、よな。恐る恐る、壁に耳をくっ付ける。いや、これは別に、盗み聞きとかでなくてだな。とか、誰に言い訳してんだ俺は。
「っひく」
 うわ。もろに聞こえた。小さいけれど、どこかで聞いたことのあるような、小鳥みたいな声。
 思わず耳を離したけれど、息も殺してますます音を探ってみる。しかし、今度は聞こえなかった。
 というかなんだなんなんだ。泣いてんのか? しかもこんな至近距離の壁越しに? おいおいおいどうしたんだよ。
 意味もなく慌てて、しかし、はた、と思い返す。俺は何でこんな隣の様子を探ってるんだ、というかそれで俺が慌てる意味もわからない。何かあったのか。無性に気になる。
 だけど、もしも本当に泣いてたらどうする。それがわかったところでどうして泣いてるのかも俺が何をできるかもわからない。それに、どうにかする理由がない。
 でも、でも。

 ちくしょ。泣かせておくのは、落ち着かない。落ち着かない、ので。

 コン。

 なにやってんだ俺は、と、またも一人つっこみ。壁にノックで泣き止むなら赤ん坊あやすのに玩具なんて要らない。全部ノックアウトで十分だ。いや、ノックの意味が少し違うけども。
 とか思って焦る俺。柄にもなく無意味に混乱してる。無意味が多いな、俺。

 コン。

 え。
 きた、きたよ。何これ。
 返事? 返事か?
 焦る俺。意味もなくまた、コンコン。

 しまった一つ増えた。とか思ってたら、向こうもコンコン。
 おいおい、待て待て。いやいやいや。

 コンコン。
 コンコン。

 モールス信号かこれは。
 どうする、俺。後に引けないぞ、俺。
 どういうつもりだ彼女。そして俺もどういうつもりだ。
 どうする。エンドレスだぞ。
 クソ、こうなったら。

 ココンコンココン。

 二重に聞こえた三回ノック。
 あれ?
 と、首を捻った瞬間、聞こえた。

「……ふふっ」

 今、笑った。笑った、よな?
 つうか、あれか。つまり同時に三回ノックして重なったと。しかも微妙にずれつつ。
 だから「ふふっ」て、「ふふっ」て。

 わかった途端に、ふいに感じてしまう。ほのぼのと、軽い気持ちで。
 伝わる振動に乗って、彼女がほんの一瞬笑った事。見てもいないのに思い浮かぶ、誰にも気付かれずこっそり嬉しくなるような、そんな小さな笑顔。
 ほのぼのと、軽い気持ちで。
 可愛いなと、思ってしまった。
 違う意味で焦る俺。
 何も見えない壁を前に、彼女の笑みを思い浮かべて。これが愛玩的な感情ならばまだ良心的なのに、とため息をついた。

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