短編

くもとくもの巣とくも

 ゆかりは自宅のパソコンで仕事の報告書を作成していた。夜も更け2時に針が届こうという時間にとうとう襲い来る睡魔に負けて、キーボードを枕代わりに夜の淵へと落ちていった。
 朝、目が覚めて慌ててがばっと起き上がる。窓を開けてすがすがしい太陽を拝もうと見上げた瞬間、とんでもないものが目に入った。
 くもの巣だ。窓の外に、くもの巣が張っている。かぜに揺られてゆらゆらと、目を凝らさないと見えない程の白い糸が張っていた。その中心には、一匹のくもが同じようにゆらゆらと揺れて、陣取っていた。
 ゆかりはくもが嫌いだ。あの鋭く長い手足とすばやい足捌きがなんともいえなく嫌悪感を引き出すのだ。見るだけでもおぞましくて、カーテンを閉めてくもを隠してしまった。

 あまりいい気分ではないが会社に行かなくてはならない。ゆかりは頭をかきながら朝食のある下の階へと降りていった。しかしここでもまた、気分の良くない事が起きていた。
 なにやら騒がしいのだ。両親がごちゃごちゃ言い合っている。ゆかりはテーブルの上に朝食の用意がすでにしてあることを確認して、席に座ってから顔色の優れない母親をちらりとのぞき見た。一瞬目が合ったが、しかしすぐにそらされてしまった。父親もゆかりが席についた途端すぐに黙り込んでもくもくと朝食を口に運んで、さっさと家を出てしまう。
 両親の不審な態度にゆかりは眉をひそめてとうとう口を開いた。
「お母さん、どうしたの?」
 食器を洗っていた母親はぴたりと動きを止めて、またすぐに手を動かし始めた。ゆかりの質問には答えず黙々と食器を洗い続け、その手が止まったときにようやく振り向いて口を開いた。
「ゆかり、あのね、ちょっと聞いて欲しいんだけど……」
 ぱたぱたとスリッパを鳴らせてゆかりの向かい側の椅子に腰を下ろした。気まずそうな顔をして、もごもごと口を動かす。
 朝っぱらから何をそんな不穏な顔をしているのだとゆかりはいらいらした。ただでさえくもを見て気分が悪いのだ。さっさと話を聞いて会社へ向かいたかった。
 ゆかりの不機嫌な顔を見て母親はますます言いにくそうな顔をしたが、ちらりとゆかりの顔を覗き見てから、ようやく喋り始めた。
「あのね、うちに泥棒が入ったみたいなの……」
「えぇ!? なんか盗まれたの!?」
 すごく驚いた。どうしてすぐに言わないのだとか、そんな事があって知らなかったとか、頭の中でぽんぽんと思い浮かんだが、それはすぐにぱっと消滅した。泥棒が入ったにしてはなんだか様子がおかしいからだ。態度が、変だ。
 母親の顔はひどく気まずそうで、口がへの字に曲がっている。何か他にあるのだろうと、すぐにわかった。
「ねぇ、何? どうしたっていうの?」
「それがね、キャッシュカードが盗まれてたんだけど……」
「えっ!? 警察は? 銀行には行った!?」
「ええ……それなんだけど、盗まれる前からね、お金が引き出されてたらしいの」
 それは、どういうことだろうか。盗まれる前にお金が引き出されていた?意味がわからなかった。が、その前に聞くこともあったのでそっちをまず聞くことにした。
「いくら?」
「限度額30万だから30万ほど…。」
「そんなに!? で? それってどういうこと?」
 母親は途端にまた口を濁してしまった。目をきょろきょろさせてせわしない。一体なんなのだとまたいらいらしてきた。はっきり言ってもらえないとこちらとしてもわかりようがない。
 ゆかりは不穏な態度の母に目に見えてわかるように顔をしかめた。
「なんなの? 早く言って、仕事行かなきゃなんだから」
「それがその……月々不定期に引き出されてるから……。警察に届けだしてもらおうと思って相談しに言ったらもう少し考えてから出したほうがいいって言うのよ」
「なんで? そんなの早く出しちゃえばいいじゃない」
「………身内がやった場合もあるからって」
 ゆかりはようやく両親の不穏な態度の理由がわかった。我が家の誰かがやったかもしれないと、そう疑っているのだ。途端にかっとなって母親を睨みつけてしまった。
「あたしやってないわよ! そんなお金に不自由してない!」
 母親はびくりと肩を震わせて途端に首を横に振った。まるで揺らすと首が揺れる人形のようだった。
「違うの、ゆかりは疑ってないわ。仕事で昼間はいないもの」
 自分のことを疑っているのではないと知って、正直ほっとした。本当にやってはいないが、疑われてると思うとなぜかどきどきしてしまうものだ。
そしてはた、と気付いた。自分ではない誰か……1人、いる。
「何……? まさかカズがやったって、言いたいの?」
 ゆかりの糾弾するような目に見据えられて、母はぱっと目をそらした。罪悪感でも感じているのだろうかと、皮肉に感じた。すごくばかばかしい。
 カズはゆかりの弟だ。確かに今は無職で家に入り浸りだけど、そんなことするような子じゃない。第一、家族を疑いの範疇に入れるなんてあまりにばかげているし、腹立たしいものだった。
 ゆかりは勢いよく席を立つと、食器を片付け始め、振り向きざまに母親に言い放った。
「カズを疑うような事やめてよね。あの子はやってないし、そんな風に親に疑われたら傷つくんだよ? どっかから泥棒が入ったのよ、さっさと届けだしてきて」
 そう言い放つと母親の返事も聞かずにすたすたと自室へ戻ってしまった。


 ゆかりは仕事を終えてくたくたの体で家路についた。よろよろとリビングに行くと既に母親も仕事から帰ってきていて、1人でじっとテーブルの上に座っている。
「お母さん、どうしたの?」
 母親は力なく振り返ると、不安げな顔でゆかりを見つめる。そして手招きをして朝のように向かい合って座ると、ぼそぼそと小さな声で喋り始めた。
「やっぱりね、一応聞いておいたほうがいいと思うの。カズに」
 それを聞いてゆかりは呆れると共に目の前の母親に失望した。どうしてこう自分の子供を簡単に疑えるのか不思議でならなかった。
 ゆかりの冷めた目に母親は怯えるような表情になり、弁解するように慌てて口を開いた。
「お父さんがね、一応聞けって言うのよ。一応。」
 何を苦しい弁解をしているのだろうか、どの道二人してカズを疑っているのだろうと、ゆかりは母親の弁解にもならない言い訳に不信感を募らせるだけだった。しかし母親はそんなゆかりの気持ちに気付かず、更に追い討ちをかけるようなことを言った。
「だからね、カズには『一応ゆかりにも聞いたんだけど、』って言おうと思うの。そしたら傷つかないでしょう?」
 呆れた。失望した。起こる気力さえ湧かない。それは母親が悪者にならない方法に過ぎないとゆかりは知っていた。こんなふざけた考えの持ち主だと知って、逆にゆかりこそが傷ついた想いだった。
 大きくため息をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあそういえば? 私知らないからね、カズが家出しても」
 母親はそれを聞いてあの子に行くところなんかないわよと笑ってあしらったが、それがますますゆかりの怒りを増徴させて、ゆかりはだんだんと足を踏み鳴らして階段を上っていってしまった。


「何よ! 最低あんな親! どうせ私のことだって本当は疑ってるんでしょ!? あー腹立つ!!」
 ゆかりは思いっきりドアを閉めると、換気のために今朝の事も忘れてカーテンを開け放ってしまった。そして外の景色を見た瞬間、ゆかりは声も出ないほどに驚愕した。
 そこにあったのは朝と違ってくもの巣だけではなかった。そのくもの巣に、もう一匹くもがいたのだ。恐ろしくて思わず目がそらせなかった。
 そしてある事に気づいた。一匹のくもは今朝のくもだが、もう一匹は同じくらいの大きさなのだがなぜか丸まっている。そして風が吹いてきたのか、くもの巣が揺らいだ。
 ゆかりはぞっとした。
 もう一匹のくもは、死んでいるのだ。くもの巣にくもがかかっていて、その巣の持ち主に殺されてしまったのだ。恐ろしくてたまらない。くもはなんでも食べるのだ。仲間でさえも。
 ゆかりはますますくもという存在にとてつもない嫌悪感を抱いた。とんでもない生き物だ、共食いまでするなんて、と。
 そのまま震える手でカーテンを閉めて、もう間違っても開けることのないようにと、心に誓った。


「カズー、ちょっとこっちに来てくれない?」
 下から母親の声が響いた。来た、とゆかりは思った。なぜだか妙に落ち着かない気分で、罪悪感まで湧いてくる。これもみんな父と母のせいだと恨めしく思った。
 とたとたと廊下を歩く音が聞こえて、ゆかりの部屋の前を通って足音は階段を駆け下りていく。
 その後の夕食はとてつもなく気まずくて、みんな押し黙ったままもくもくとご飯を口に運ぶだけだった。ちらり、とカズを盗み見ると、なんだか心なしか青ざめて見えた気がした。


 ゆかりは夕食を食べ終わってすぐに自室に戻ったカズのことが気がかりでならなかった。父と母にどんな風に言われたのだろうか、とか慰めたほうがいいのかな、とか1人で悶々としていた。しかしやっぱりじっとしていられなくて、カズの部屋の前に立ちこんこん、と2回ノックした。
「はい」
 中から小さな声でカズが返事をする。少し気まずくなったが、意を決してゆかりはドアを開けて部屋へと入った。カズは勉強机に向かって座っていた。部屋は暗いのに電気スタンドだけが煌々と光っていて、怪しい雰囲気をかもし出している。
 ゆかりは動揺を隠すように部屋の照明をぱちりとつけて、カズのベッドに腰をかけた。
「ねぇ、カズも言われたんでしょ?キャッシュカードのこと」
 カズの肩がピクリと揺れた。ゆかりはそれを目の端に捕らえて見逃さなかった。そして場の雰囲気に合わない声で馬鹿みたいにぺらぺらとまくしたてる。
「気にしないほうがいいよ、あたしも言われたから。最悪だよね、人の事疑うなんてさ。仮にも子供だよー? 全く信じらんないよね。大体……」
「ねぇちゃん、それ言いに来たの?」
 ゆかりのわざとらしいほどの口調に相反してカズの声は抑揚が全くといっていいほどなかった。こちらを向かないカズを、ゆかりの目は注意深く捉えていた。
 するとカズは椅子を半回転させてゆかりに向きなおすと、目を伏せて呟いた。
「出てってくんない? 1人になりたいんだよ」
 ゆかりは途端に青ざめて、無言でカズの部屋を出て行った。自室にもどってベッドにダイブする。そしてまた悶々とカズのことを考えているうちに先ほどとは違う考えに自分が捉われている事に気がついた。
 自分はカズを疑っている。カズの部屋に入ったのは、慰めるためではなく確かめるためだったのだと気がついた。
 自己嫌悪や罪悪感、羞恥心などあらゆる感情がゆかりの中に渦巻いて、それを振り切るかのようにゆかりは布団をかぶって自分を無理矢理眠らせた。


 それから一週間はずっと気まずかった。カズだけでなく、両親とも微妙な雰囲気で、一家全員が気まずい中過ごしていた。
 そしてちょうど一週間後、カズの仕事が決まった日に事が起こった。キャッシュカードが見つかったのだ。泥棒の常習犯の部屋から見つかったらしく、警察から電話があった。
 両親は今までの疑いはどこへやら、カズに謝ってうそ臭い笑顔を浮かべていた。カズもゆかりもそれに対しては何もいわず、結局はもとの家族に戻ったかのように見えた。
 しかしゆかりはその後もずっと嫌な気持ちを抱え続けていた。
 カズはそれから気まずいままも家に居続けるし、カーテンは相変わらず開けていない。
 開けるのが怖かった。
 そこにはまだくもの死体が残っているのだろうか、そこには誰が、誰に共食いされてくもの巣にかかっているのかと。

The end.

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