夏と友情とボーナスと
だってね、そう、まず暑かったんだ。黙ってても汗がにじみ出て、昼寝をすれば悪夢にうなされる。そんな感じなほどに、暑くて暑くて。あっちーなーと寝転んでぱたぱた団扇で扇いでるときに、ふと思いついたのさ。
「そうだ! ナサエルんちいきたい!」
ナイス名案あたしってさえてる。こんなうだうだしててもしょうがない。だったらちょっくら外に出て有意義な時間をすごそうじゃあないか、あたしよ。
それから団扇をぽいっと投げて起き上がる。さて支度支度旅の支度だ旅支度だ! と、うきうき部屋を飛び出しかけて。そういえば。そういえば、ナサエルのとこまでどうやって行けばいいんだ? やっぱり直前になってぴたりと止まる。
「………………千……?」
夏だっつーのに暑苦しい黒一色で、なのにさらりと涼しい顔して本を読んでる。なんだか異様な光景にちょっと眼を奪われて、変な間が出来た気がした。
「…………千?」
無視。無視ですよ、涼しそうに無視。なんかもう、聞こえなかったのかな?とかいう問題じゃない。あたしの存在が見えていないといわんばかりの完全無視。こっち見ないし動じないし無論反応なんかない。
この部屋にいるのは千だけで、つまりあたしはいないと。透明人間だと。完璧な無視ってやつをあたしは今初めて見た気がする。
「…………ちょっと、千さんよ」
てくてくてくっと近付いて、目の前で手を振ってみる。
無視。ああそうかいわかったよ。そっちがその気ならね。
「千ちゃーーーーーーんっ」
てーこ選手大きく振りかぶって右ストレート空振り。ジャブジャブジャブ。空振り三振。なんかさらっと避けられちゃってます。
何、こいつ。無視なら受け止めとけよ。受け止めて鼻血拭いてそれでも本読んで涼しそうにしろよ。よけてんじゃねーよっ。
「千様ひどいっ」
肘鉄アッパーかかと落とし。どうやって避けてるのかと聞きたいくらいにさらりとかわす。あんまり腹立ったもんだからプロレス技かけてやろうと飛び掛った瞬間立ち上がるものだから、勢い任せに窓から落っこちそうになった。
ひどい。コレはほんとにひどいと思う。というか、何が何でも、掴まえたくなった。
「待てッ千!」
ぜってー掴まえてパロ・スペシャルお見舞いしてやる。屈辱的な体勢を強いてやる。
追いかけると千もまたすたすたと歩き出して、部屋の中をぐるぐる回る。ああもうこのクソ暑いのにどうしてあたしが汗かいてこいつだけ涼しそうなんだ!
ますます苛々して追い掛け回すと、いきなり千が本を読みつつ踵を返して身を翻す。くいっと捻って出された千のその足首に、勢いを止められなかったあたしの足が引っかかって、床にベチャリと這い蹲ってしまった。
「いってぇ……うー…………鼻血が出るじゃないかっ!」
うううう鼻血は出なかったけど顔をもろに打って涙が滲む。もうやだ。もういい、こうなったら捨て身だ。
「とうっ!……う、うわ?」
大手を広げて飛び掛ると、避けられると思ったのにあっさりと千が掴まった。だけど待って待ってこれじゃ倒れるーーッ!
「むぐ」
運よく後ろがベッドだったお陰で二人共々ぼすんとベッドに落ちた。ほっと、したけど。でも、あれ、なんかこれって。
「今時の女はこえーな。男に襲い掛かるか普通」
皮肉っぽく言った千の台詞にむかっとなって顔を上げると、にやにやと笑ってあたしを見下ろしている。ちょっと待って。襲い掛かる?
待て、この状況。
ベッド。あたしと、千。しかもあたしが千に飛び掛って上に乗ってる。
…………ぎ
「ぎゃああっ!!」
ちが、違う違う違うんだそんなんじゃないんだ!
「ど、どどど、ど、どけえっ」
「お前だろ。こっちは押し倒されてんだよ。つまり被害者」
「ぎゃ、ばっ、馬鹿なことを言うなっ!」
あわあわあわと急いで飛びのくとそのままベッドから転がり落ちて強か腰を打ってしまった。
ううううう。こんなはずじゃなかったのに。さすさすと痛む腰を擦ると、千がそれを見下ろして小馬鹿にするように鼻で笑った。
畜生。余裕綽々で人のベッドの上で足なんか組みやがって。靴脱げバカヤロー。ここは欧米じゃない。てーこ様の部屋だ。
「お前どんな時も暑苦しいのな」
「ほっとけバーロー。ってかあれはあんたが足かけたからっ!」
「お前が待てッつったから止まってやったのにな……恩知らずな女」
「えっ、そうなのあたしったらごめんなさい千……って、このやろ裁判起こすぞボケコラ」
ああもう何この煮えたぎるような怒り。この暑さも加えてアドレナリン30%増量中。今凶器があったらあたしは大きく振りかぶってこいつにむかってフルスイングをかましている事だろう。ちなみに釘バットが望ましい(よい子じゃなくても絶対真似しないでください)。
「あー……ったく、あたしゃなんだってこんな不毛なやりとりを……」
やってんだろう、ね。なんだっけ。なんで、千を追いかけてたんだっけ。えっと、そうだ。千が無視するから。いやいやそうじゃなくて、えっとそうだナサ……
「おい、お前自分に夏休みがあると勘違いしてないか?」
ん? 思考途中で千が話しかけてきたので、霧散してしまった。と、いうか、千、何か怒ってるのかな。いや、顔はいつも通りなんだけど。言葉がきつい。いや、いつもきついか。
「……夏休み、じゃん。大学」
「テメーの三流大学のことなんて知るか」
「誰が三流っつった!」
失礼なんですけど。ここぞとばかりに失礼なんですけど。三流じゃないよ、多分(自信ない)。どうだろう、そうなんだろうかと腕を組んで考えていると、こつりと革靴の音が聞こえた。
ん? と、思って顔を上げると、どこか褪めた笑顔を浮かべて千があたしを見下ろしている。いつもみたいな意地の悪い笑い方って言うより、冷えきっていて。冷凍庫で24時間凍らせてきたような笑み。暑いのに、背筋がぞくっとした。
「な、なんだよ…………」
「仕事だ」
「ええっ?」
待ってよこのクソ暑いのに? 冗談じゃない! しかも今年はまだどこにも遊びに行ってない。そうだよ遊びに……
「てーこ」
「な、なにっ……やだよ、だって遊びに」
「ボーナスが出たら遊び放題だろうな」
ん? ぼ、ぼーなす。マーボー茄子。
いやオヤジギャグはどうでもいい。ボーナス?ボーナスって、その、あれか、特別手当。そう、普通の給料とは別に貰える、お金。ボーナス!?
「ボーナス貰えんのっ?」
「嫌なら別に」
「要るっ行くっ今すぐ行くッ」
ばっと飛びつくと、にやりと千が笑う。ちょっと気にかかるけど、どうでもいいや。ボーナスボーナス。
「千………」
「なんだ」
「あんたって、イイよ……最高だよ……!……着替えてくるっ」
うわあいとテンション最高潮で部屋を飛び出して、何に着替えようかと考えるあたし。
さて、ここで問題。
いち、千はどうして勝ち誇ったように笑ってたんだろう。に、どうして千は機嫌が悪そうと思った途端に急にボーナスとか言い出したんだろう。最後に。あたしがキレイサッパリ忘れ去ったものは、なに?
答えは、「お前文字通り現金な奴だな」と、愉快痛快と笑った千が知っている。