ODD STORY

6.あの時/今/傍に居る

 血の気が引くっていうのは、正にこういう事を言うのかな。
 水を浴びた砂の様に平常心が崩れ落ちる。吸い込んだ空気は冷えて湿っていて、カラカラに渇いた咽を満たす様に、身体の芯に染み込んだ。その緩やかな呼吸の後に漸く、何が起こったのか理解することができた。

「ナ、……っ」

 触れようと身を乗り出して、がくっとバランスを崩しかける。それで自分が縛られていたことを思い出して、急に全身に寒気が走った。
 殴られた。ナサエルが、あたしを庇って。嘘だ。馬鹿、どうして。

「ナ、サエル」

 自分ではちゃんと声を出していたつもりなのに、思ったよりもずっと頼りない声が出てきた。その声はナサエルには届かなくて、気を失っているのか、あまり寝心地がいいとは言えない冷たい地面の上で、反応もなく横たわったまま。
 息が震える。緩慢に顔を上げると、両手で石を掴んで呆然とする男と目が合った。その途端に男はびくりと肩を揺らして、その手から滑り落ちるように岩が鈍い音を立てて地面に転がる。只でさえ雪よりも真っ白な顔は、それすら通り越して蒼白と言う外ない。
 まるでそれは一連の映画のシーンみたいに、本当に、嘘みたいな光景だった。嘘みたいな光景が、目の前にあった。

「ちょっと、」

 薄暗い視界の中で松明に照らされて、転がった岩がよく見えた。ごつごつしていて、白い石や青い石が混ざっている、灰色の大きな岩だ。
 こんなもので、人を殴ったの。ナサエルを殴ったの。
 嘘でしょ。こんな、殴られたら痛そうじゃ済まないもので、ナサエルは殴られたの。あたしの代わりに殴られたって言うの。嘘でしょ、ありえない。馬鹿じゃないの? どうして、庇ったりしたんだ。あたしそんなの、頼んでないのに。
 頭の中、悲しいとか、怒りとか、わからない感情がぐるぐる廻る。色んな感情をめちゃくちゃにかき混ぜて、咽に無理矢理詰め込まれているような感覚。訳の判らない怖さが首を絞めて、苦しい。
 それでも、縛られたままの無様な格好で、なんとか膝でよちよち歩いて、ナサエルに近付いた。なのに触れることも、抱き起こすこともできやしない。こんなに近いのに手すら届かない。

「何なの、これ。ナサエル……ナサエル! ナサエル! おい!」

 起きてよ。怖いよ。ナサエル、お願いだから起きて。肩口に額を押し付けて、馬鹿みたいにゆらゆらと揺さぶった。
 本当はこういう時揺さぶっちゃ駄目な事は、前に学校の授業で習っていて知っていたけれど、そんな事考えている余裕もなかった。動かないナサエルの姿が過去の光景と重なって、より一層あたしを混乱させて、平常心を奪っていく。
 ありえないって言って。嘘だって、冗談だって、言って。その声で、笑い飛ばして。
 気がつくと、聞こえないはずのサイレンの音が耳の奥に木霊していた。他の音が何も聞こえなくなるくらい、頭の中がうるさい。止まない喧騒と、サイレンの遠吠えと、あと、あとそれから。
 それから、破裂しそうなあたしの心臓。

「お、おい」

 ぐっと、肩に手がかかる。後ろから誰かがあたしをナサエルから引き離そうとして強く引っ張った。あたしがそれに逆らわずに一層早く振り返ると、何故か怯えたようにその手が離れた。
 なに。

「……なに、見てんだよ」

 殴った張本人の彼らは揃って不安そうな顔をしていて、ただただ頼りなく突っ立って、あたしとナサエルを見下ろしていた。おどおどと顔を見合わせて、誰一人としてあたしと目も合わせようとしない。
 これは幻なのか、それとも現実なのか。解らない。あたしには解らない。だってこれがあの時なのか今なのか、それすら解らないんだから。
 ただあの時と同じで、心臓が狂ったように鳴り響く。どん。どん。どん。責めるみたいに、身体を打つ。

「……ねえ、この縄ほどいて。ナサエル助けてよ! ねえ!」

 詰め寄るごとに、あれほど近くまで密集して囲んでいた輪が広がっている。見る人全てが「自分は知らない」と目を逸らして、逃げるように一歩、二歩と後退した。
 あ。
 ああ。あの時も、そうだった。
 人があれだけいたのに別の世界の人みたいに遠巻きで、誰も彼もがテレビ見てるような目をしていた。でもあたしも、何も、できなくて。耳にサイレンの音がこびりつくまで、呆然としてた。

「やだ」

 これじゃあの時と一緒だ。何もできない。目の前で、過ぎていくのを見守るしかない。

「嫌だ……っ」

 身体の力が抜けて、糸の切れた人形みたいに、項垂れた。ざり、と額が地面に擦れて、湿った土の匂いがした。

 あの時と同じ匂い。
 同じ光景。
 同じ状況。

 ああ、そうだ、あの時叶わなかった。願いを受け取る人がいなかった。神様も、仏様も、天使も、何もかもが裏切った。あたしですら、あたしを裏切った。

「う……っ」

 あの時、あたしを含めた全てを呪った。呪って、呪って、呪って、でも最後の最後に。最後の最後に受け止めてくれたひと。そうだ、何よりも覚えてる。あの、胡散臭いほどの怪しい微笑み。世界中がひっくり返ったような、そんな心地になった。
 願いを口にするために、名前を。この世界で初めて、願いを聞いてくれたひと。真っ暗な世界の、綺麗な綺麗なエメラルド。

「千!」

 呼ぶが早いか遅いか、一瞬にして身体がふっと軽くなる。正に手品よりも鮮やかな魔法の一瞬で、手足を縛っていた縄が忽然と消えた。
 急に解放された両手が地面について、湿った土にじゃり、と触れる。弾けるように顔を上げて辺りを2回3回と見回したけれど、ただ周りのどよめきを煽るだけ。捜した姿はいなかった。
 それなのに、口にできない思いが咽の奥に迸って。苦しいくらいに、切なくて。
 唐突に、大事なことに気がついた。姿はどこにもいなくても、千はいる。あたしの傍に居てくれる。どこかでちゃんと、見てくれている。あの、見上げなきゃいけないくらいおっきくて黒い背中。そうだ、傍に、居てくれるって言った。
 思い出したら急に切なくて、咽が震えた。爆発しそうな気持ちが、すぐそこまで出掛かっていた。

「……っう、……ナサエル、ナサエル、助け……っ」

 助けなくちゃなんだ。ううん、動けるから、あたしが助けられる。誰かに「助けて」じゃなくて、ありえない神様も、慈悲深い仏様も、天使の奇蹟も、要らなくて。あたしが、あたしの手で、なんとかしたい。
 あの時はただ世界中への不信感でいっぱいになって、全部、全部、「何かのせい」にしてたけど。でもこれはあたしのせいで、あたしを庇って、ナサエルはこんな風になってしまった。だから、あたしが、なんとかしなくちゃいけない。そうしたいと、あの時のあたしが何よりも強く、思っていたはずだった。思っていて、できなかった。
 でも、今は千がいる。千がいるから。だから今、できる今は、泣いてる暇なんかなくて。
 振り向きながら滲んだ涙を拳で拭って、自由になった手足で駆け寄った。首筋に触れると驚くくらいに冷たくて、思わず嫌なことを連想してぞっとしたけれど、指先は小さな鼓動を掴んだ。
 だいじょうぶ、大丈夫。前とは違うんだ。今は今、あたしは動ける。
 よし、と自分に言い聞かせて、また周りを何度も注視した。ナサエルの縛めを解こうとしたけれど、結び目が寸分の隙間も無い程に硬すぎて解くことができなかった。刃物か何かで切るしかない。
 何かちょうどいいもの……と見回すと、今まで近くで取り囲んでいた輪は3メートル以上の間にまで広がっていた。さっきの騒ぎとあたしの縄が解けたせいなのか、好都合にも、脅しのために用意したのか小さな刃物やら火の残る松明やらが転がっていた。その中で一番近くに落ちていたペーパーナイフくらいの長さの小刀をとると、またどよめきと輪が広がる。あたしが誰かを刺すとでも思っているんだろうか。そんな暇なんかないよ、もう。
 すかさずナサエルのところに戻って、固く結ばれた結び目にそれを宛がった。使ったことがないのか手入れもされていない小刀はさびかけていて、こんなもので縄が切れるのかと思ったけれど、のこぎりで切るみたいに引くようにして宛がうと案外すんなり切ることができた。
 とりあえず足の方だけ切って、その小刀は返さずにベルトに引っ掛けた。腕は縛られたままにしておいて、その手をそのままあたしの首に回して一息に背負う。こうしてないと、手の力だけじゃ落ちてしまうからだ。

「ナサエル。もうちょっとだけ、もうちょっとだけ我慢してて」

 声をかけても反応がないなんて解りきってる。あたしをかばってくれたんだから。でも、言わないよりはマシでしょ?
 眠っていても、人の耳はちゃんと音を拾っているって何かで聞いたことがある。眠っていても、少しの励ましにはなるんじゃないだろうか。夢の中にも、声は届くんじゃないだろうか。
 ナサエルはぐったりとあたしの肩に頭を預けていて、首筋に前髪が当たってくすぐったかった。よいしょと背負い直して、共倒れになら無いように慎重に立ち上がる。男にしては珍しくやけに細いけれど、やっぱりあたしより背も高いし体躯も違うから、一人で運ぶのは相当の力が必要だ。共倒れになら無いように集中しないといけない。

「……と、よし。がんばれ、がんばれ」

 がんばれ。自分と、ナサエルに向って呟いて、一歩、踏み出した。
 すると、物々しく見ていただけの連中も、気がついたように近付いてきた。やっぱり簡単に逃がしてくれそうもない。怪我人抱えた相手に随分と物騒な顔してくれちゃって、怖いったらないもんだ。多勢に無勢って、こうゆうことを言うんだろうな。
 なんて、頭の中が妙にのんきなのが可笑しい。なんでだろう。さっきと大違いなのは、なんでだろう。その答えをあたしはもう、知ってる気がした。

「貴様……止まれ」

 ナサエルを殴った男が、目の前に立ちはだかった。刃物をめいっぱい前に突き出して、脅すように鼻先にちらつかせてくる。

「それを下ろして手を組んで頭の後ろへ」

「出て行く」

「……な、」

「出て行く、から、放っといて。ナサエル、医者に連れて行かなくちゃなんだ」

 どうせ、何もできないだろう。そう思って、刃物を避けてかまわず歩く。
だってね、この人たち、臆病すぎる。ナサエルを殴っただけであんな風に動揺してたんじゃ、この上あたしをどうにかなんてできそうもない気がするよ。助ける気も無いんだろうから、出て行くしかないけど。

「何を、」

 無視した瞬間、肩を掴まれそうになった。気が、したけど。

「……っぎゃ」

 いきなり火花が散ったみたいな音がして、男が声を上げた。
 びっくりして振り返ると、信じられないものを見るかのような目で、片手を庇うように抑えながらこっちを見ていた。周りの人たちも同じ。まるで化け物を見る目つきだ。それがあたしに集中している。
 何があったのか、さっぱり掴めない。何? いきなり。
 思わず怪訝な顔を浮かべると、男の顔がひくっと引きつって。いきなり、叫んだ。

「ま……魔女だ!」

 はあ? 誰のこと? 瞬く間にその声を合図にその場が阿鼻叫喚となる。

「魔女だ! この女は魔女だ!」

「女子供と老人は奥へ!」

「追い出せ! 魔女を追い出せ!」

 いきなりなんだよ。これはヤバイ雰囲気かも。だら、と冷や汗を感じる。
 戦々恐々とした顔で、武器を手に男達が近づいてくる。これはヤバイ。
 回れ右をして、あたしは走った。出口に向って、一直線に。幸いなことにそう遠くなくて、足場がごつごつしていて走りにくかったけど、すぐに出て行けそうだった。
 うう、人をおぶって走るのはすごい重労働だ。でも休んでる暇も無いくらい近くまでヤツラが迫ってる。後ろより迫りくる足音から逃げて、走って、トンネルを出るときみたいに眩しい光に包まれる。
 やったあ出口だ! と、思った矢先に、がっと何かが足に引っかかった。

「げ……っ」

 ぎゃああ躓いた! この一歩で出口なのに。ナサエルごめん、と呟いてぶつかる地面に覚悟した。

「……え?」

 と、思ったら、あれ? いつまでたってもぶつからない。というか、妙な浮遊感というか背中に強烈な風ララバイ。あれ? と思えば目の前には、さっきまでいたはずの洞窟の出口。男達が呆然としてこっちを見ている、というより見下ろされてる?それに、空。景色がどんどん遠ざかる。
 これは、もしかして。まさかのまさか。そろ〜……っと、後ろを見てみると。広大な森。なんてゆうか、これぞ紐無しバンジー?

「げええ!」

 落ちてる! 落ちてるよ! ナサエル、マジごめん!
 恐怖の涙がぽろっと上に上るのが、見えた。

  

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