2.困惑MIX
それはふとした違和感から始まった。頬と手に当るちくちくとした痛いようなくすぐったいような感触と、鼻に妙な異物感。目を開けるとそこには、いつもの冷笑を浮かべた千がしゃがみこんであたしを見下ろしていた。ついでにフン、と鼻で嘲笑される。
「お前鼻から菌糸ってマジ引くわ」
引く?ってか、引くというより物凄く楽しそう。アリの巣に水を注ぎ込む小学生みたいな、残酷且つ勝ち取った優位に綻ぶ性格の卑しさ丸見えの笑顔。
嫌な予感がして鼻に手を伸ばすとそこにはいつもとは違う何かが、何かが鼻を塞いでいた。って、
「ん、がっ? ぶが……っ! なんだこれキノコかっ?」
鼻に、キノコ。キノコが二本鼻に刺さっていた、いや差し込まれていた。菌糸って、キノコじゃん。いや、それよりも。
「ちょ、お、おおおおい……こン、のクソ外道……」
千の胸倉を掴んだまま、未だかつてない屈辱に絶句。だって、鼻に、キノコって。予想だにしない、というかできない展開だろ。なのに何故か千は被害者ぶった面で心底嫌そうにこの手を振り払う。
「ちょ、近付くなって、キノコうつる」
だあああこいつどこまで性格悪いんだ。
「うつるか! ってかどこの世界に眠れる乙女の鼻にキノコつっこむ奴が居るよ!」
「どこの世界の眠れる乙女が鼻にキノコ生やすって言うんだよっつーかそんな奴は乙女じゃない、汚ギャルと言うんだ」
「古いし生えたんじゃなくてアンタがつっこんだんだよね? つっこんでくれたんだよね!」
いくら汚ギャルでもキノコは生えないだろ。なんなの、起き抜けに何なのコイツ。起き抜けに人の鼻の穴にキノコつっこんでニヤニヤ笑ってるとか何なのコイツ。嫌がらせどころかもうこれは奇行の域だよ、ものすごい異端児だよこいつ。もうこいつの髪の毛一本爪の細胞核、元素に至るまでとことん絶滅させたいよ。滅したいよこの世から存在そのもの尽く。
「ちょっ、頼むから一回消えてみよう。元素から消えてみよう。あんたならできるから」
「……お前キノコ生やしたくらいでそこまで思いつめなくてもいいと思うぞ」
「毎度のネタだけどあたしじゃなくてアンタの話だよ! その“精一杯気使ってます”みたいな顔やめてくれませんか! 血管ブチキレそうなんだけど!」
ああもう気分はバーサーカー(狂戦士)。やる、やるぞ今日こそやってやる。魔貫光殺砲で塵にしてやるよ!
「歯ァ食いしばれ!」
「ああ卑しい顔だ」
あん? ……いてっ。
「こんなものが乙女と云えるものか……下品な娘よ」
千の襟首に伸ばした手が、その背後から伸びてきた手によってパチンと撥ね退けられた。しかもそのままさり気無くするっと首に巻きついて、だーい好き、と言わんばかりの抱擁。千の眼が一瞬、絶対零度まで下がった様に、見えた。
「宇羅さん……?」
なんでここに。と、思ったら、肩にかかる影。
「俺もいるよ」
少し戸惑ったように、見下ろしてくる青年。
「ナサエル」
どうゆうこった。さっき千が「いくぞ」って言って、例の如く意識が遠のいたから絵本の向こうに行ったのかな……て、思ったんだけど。でも、宇羅さんとナサエル、居るよね。でも、あれ……。
「そういえばここ、ドコデスカ……」
手のひらのちくちくした正体はわさわさとのび放題の野草。それから降り注ぐ木漏れ日、耳をくすぐる小鳥のさえずりに、頬をすり抜ける青葉香る風。頭上に生い茂る木々を今初めて目の当たりにして、あたしはようやく当たり前の疑問を抱いた。
「何でお前らまで居る。呼んだ覚えは無い、早急且つ迅速に消え去れ」
「はて……私には“行くぞ”と聞こえたがねえ……」
空惚けつつもずっと離れない宇羅さんに、千の眼に込められた殺気が積もり積もってゆく。どうやら、千が一緒に連れてきたわけではなく、宇羅さんが勝手に着いてきたらしい。しかもナサエルまで巻き込んで。
なんというか、どこまでもついていくその健気な精神は良い事なのかも知れないけど、どーすんだコレ。
「どこだここは……てーこの部屋はどうしたんだ、なぜ俺たちはここにいる……いや、案外あの魔の見せている幻影かも知れないな……とするとここは本当はてー」
「こさんの部屋ではありませんよナサエルさんや」
ぶつぶつ呟き続けているナサエルの思考にストップ。幻影とかなんか凄い疑心暗鬼な答えだされても、ね。でもやっぱりコレが普通の反応だよね。思えばあたし随分順応性早かったなー……余程切羽詰ってたと見える。
普通こんな意識遠くなって見も知らぬところに連れてかれたら薬一発決め込んで幻影見てるんじゃないかとか考えちゃうかも、しれない、のかな?
だめだ、もう多分千の異常且つ姑息な嫌がらせのせいでこのファンタジー性も薄れちゃって普通の反応すら麻痺しきってるわ。
「気安く触んなっつってんだろ」
「気安くないぞ。その証拠に私はいつもお前に対してはありのままだろう」
「要らん」
ってなんか横ではいつのまにかいちゃこらしてるし。おーおーベタベタとお暑いことで。この間なんか殺されそうだったくせに宇羅さんも症懲りないね。
ていうか、何故か千も急に態度緩和してるようにも見えるのは気のせい? 触るなとか言っといて、顔は凄い嫌そうな割に本気で離そうとしてないしさ。千って意外とハッキリしない奴だったんだ。
「てーこ」
「んー?」
ぽけーっと返事をすると、不意に頭を撫でられる。なんでここでいきなり撫でるの。意味わかんなくて横目でちらりと見てみと、パチッと目が合あった。しかもナサエルはそれに対して妙に見透かした目で笑いかけてきた。な、何だその顔は。なんとなく不愉快だぞ。
「ちょっと、よくわかんないけど子供扱いしないでくれませんかね?」
「あはは、してないしてない」
「んぐ……余計腹立つな」
なんだその余裕ぶった態度。何でも解ってます受け止めてあげますよお兄ちゃんが、とか言いそうな顔だ、うざい。妙にむかむかしてきて、その笑顔を止めさせようとほっぺたを抓ると、反撃とばかりに頭をわしゃわしゃとかき乱された。くそーっ、笑ってんじゃねええ。
そうやってむきになってしまいやりあっていると、横からいきなり目前にぬっと手が飛び出してきた。
「うわっ……て、千?」
「この糞餓鬼が」
うぅ? いつもの5割り増しドスの利いた悪態に、不覚にもぞくっときてしまう。あたしに言ったのか? と、思って精一杯睨みを利かせてみるも、千はこっちを見ていなかった。
突き出した手はナサエルの手をぎりぎりと握っていて、あたしを完全無視、ナサエルを思いっきり睨みつけている。しかも宇羅さん後ろにくっつけたまま。何このカオス。
「元ある場所に帰ってそのまま永眠しろ」
「俺は人間だ。貴様のような妖しげな力は無い、よって自力で帰るなど不可能だ」
真面目に答えんなよ。
「じゃあ今この場で永眠させてやろうか」
「断る。貴様に俺の生の是非を委ねてたまるか」
「なら答えはシンプルだ。とりあえず死ね」
なんだそのとりあえずって。答えになってないし。とか、心の中で悠長につっこんでる間に、異変が起き始める。
「……え、ちょ、何だコレわ……」
千の足元から周りの草がどんどん生気を失ったように黒く変色して、萎びていく。同時に、視界が暗くなってきた。……雲? 木漏れ日が薄れると同時に、吹き荒れる強風が木々を揺らし暗雲を運んでくる。
てか、千、眼が光ってるよ。おいおいおいコレ、何、千もしかしてキレてんの?つうかなんでナサエルもキレてんのさ意味解んないしこのままだとやばそうだぞ。
そして宇羅さん、何か千に期待するような眼向けないで。アンタが巻き込んだナサエルが今現在危機なんだからさ。
「せ、千……ちょ、落ち着いてっ」
「黙ってろ。スグこいつら消すから」
おいおいおい不穏すぎるだろそれはー!消すってどうゆう意味だよそんなもん目の前で見せ付けられたら胸糞悪すぎ。
おまけに頭上に広がる暗雲はどんどん濃くなって、なにやら雷鳴らしきゴロゴロといった音まで聞こえてくる始末。
ヤバイ。と、と、とりあえずこれは止めなきゃというか止める役があたししかいないよコンチクショウ。
「千っ、やめてって……、」
煌く雷光。
落ちる。
そう、思った刹那。
「……っぅ?!」
不思議な音だった。まるで、そう、大きな雷と雷が、ぶつかり合ったような音。頭上のそれはあまりに近すぎて、鼓膜が破れんばかりの振動が、全身を打ちつけた。え、と……落ちた、のかな?
「あ、れ……?」
落ちたわけじゃなかった。
耳は音が篭ったように麻痺してよく解らなかったけれど、さっき咄嗟に目をつぶったから多少は見える。その見上げた先にあったものは、つい先刻見た空と同じ青い澄み切った空だった。
嘘。さっきまであったあの分厚い暗雲が、刹那の後一瞬にして無くなってるよ。一瞬あたしはそれを千のこけおどしか失敗かでそうなったのかと思って、千を見上げたんだけど。どうやら違ったようで。
千はまるで不可解だと言うかのように眉根を寄せて、青い空を睨み付けていた。
「……なんだ、今のは……てーこ、大丈夫か?」
「……え、あ……うん……」
ナサエルに心配されて初めて、そういえばみんな大丈夫なのかとそっちの方に意識が向く。あたしはもちろん大丈夫だし、見たところナサエルも無事みたい。宇羅さんは……千から手を離しちゃったみたいで座り込んでるけど、無事みたいだ。
でも、その顔は険しく、まるで睨み付けるように一点を向いている。
なに?
その視線の先は、所在無く垂れた千の右腕。ボロボロの、右腕。
「……っ」
焼け爛れているような切り裂かれているような、赤黒い痛々しい傷跡が肩から人差し指と中指のままで広がっている。
何だ、この腕。
「ちょ、……な、ど……なに、コレ」
頭が一瞬にして真っ白になる。千のその痛ましい傷だけが、眼に映る。
「千……千、千!……っちょっと、何だよその傷!」
なんで自分の腕が傷ついてるのに、ちょっとも見ないの。
ねえ、千、あんたの腕が。
心臓が一気に爆発しそうな感覚に、追い立てられる。千の傷を見るごとに、妙な恐怖が駆り立てる。助けて。いや、そうじゃなくて、なんとかしなきゃ。
「……せん……ちょっと、おい、ねえこっち向いてよ! 千! ……千、千っ、千!」
他の何もかもを無視して、上に目を奪われるように千は空を見上げている。少しもこっちを見ないことが、凄く怖くなった。自分が怪我していることすら意識してないんじゃないだろうか。
でもどうしても気をこっちに向けたくて、何度も千を呼ぶ。でも千は答えない。それでも、何度も呼ぶ。
どうしよう。あたしの声が、届いてないのかもしれない。どうしよう。どうしよう、あたし。真っ白から、真っ黒になりかける刹那。
「てーこ」
まるであたしのパニックを黙らせるみたいに、千がその痛ましい左腕で、あたしの髪をくしゃりと撫でた。
魔法みたいに消えてしまう、抑えきれずに暴走してた、恐怖心。でも千の眼は、まだ心ここに在らずみたいに虚ろだ。
「千……」
「ドラゴンを捜してこい」
「え……なに、ちょ……っと」
そうして。ただ、そう一言告げて。追いかける間もなく、千は消えた。