ODD STORY

8.願いの在り処

 頭が真っ白とは、こうゆう事を言うんだろうか。その一瞬の後唇が離れても、動けなかった。身体も、心も、声も呼吸も止まったように、全ての感覚と機能が停止してしまったみたいだ。
 なのに、髪をつかむ、千の指の骨張った関節のあたりがちょうど、首筋にわずかに当たっているのがわかる。先が触れているところだけ、触れたところだけ感覚があるみたいだ。そこだけが、遠い昔に受けた古傷がいたむような鈍い痛みによってゆっくりと浸食されてゆく。
 千はキスと一緒に、あたしに呪いをかけたのだろうか。そんな考えが真っ白な世界にぽつんと浮かんだ。

「怖いか」

 ぎくりとする。
 ふいに開いた千の唇はうっすらと笑みを讃え、でもその瞳は蔑みを抱いて冷たく冷え切っていた。
 身動き一つ出来ない状態で、何かを答えられるような思考なんて持ち合わせていない。どうしようもない思考ばかりが出口を捜して身体中を彷徨うのに、あるのは持て余した恐ればかり。触れそうなほどに近い千の顔が綺麗で綺麗で。あたしは確かに千の言うとおり、怯えていた。

「お前のことなら何でもわかる」

 月の光を吸い込んだように白く細い指が、頬を覆う。限りなく触れそうでいて、触れない。
 温度がないだけなのに。なのに、だから。どんなに近くたって、こんなにも相手の事が伝わらないことがあるのだと、今更ながらに痛いほど感じた。こんなに、無性に、誰かに触れてもらいたいと思ったのは初めてだ。
 でもまだ怖いんだ。手を伸ばす勇気が、出てこないんだ。あんたを信じる覚悟はとっくに出来ているのに。

「……せ」

「何を考えているか当ててやろうか」

 名を呼ぶ事を躊躇ったその瞬間に滑り込むように、千は何を考えているかわからない表情で、そう囁いてくる。二人分の体重がかかっているベッドがちっとも軋まない事に、今、ひどく、恨めしいと思った。
 もしも何かが誰かが今を遮ってくれたならば、あたしは凄くほっとしていたかもしれない。でも無理だろう。だっていつも、あたしを安心させていたのは、千だったんだから。千がいてくれたから、初めて心のそこからほっとできたんだ。だったらそれを今千が許さないのならあたしがこの先安心できる時はずっと、こないのだろう。
 やるせない思いが、胸を締め付ける。きつく、きつく。

「『どうしたらいいかわからない』」

 ズキッと、痛みが急に増した。
 できることなら逃げたいと思っていたあたしを、千はしっかり見ていた。縛り付けられて身動きが出来ない。あたしは今ちゃんと、息をしているだろうか?

「『わからない』。なあ?わからないだろうな。お前はいつも俺に救いを求めていたからな」

 皮肉を込めて、冷ややかな眼差しを向けてくる千に見つめられ、無性に泣きたくなってくる。
 千が何で怒っているかあたしにはわからなくて、それなのにあたしはそれをどうにかしたいと思わずに逃げる事ばかり考えて。千にはあたしの心が丸見えだって言ってるのに、でもまだ隠そうともがいてる。

「怯えるくらいなら、信用しなければいいだろう。信用するな。俺は、悪魔だ」

 違う。違うよ、嘘じゃないよ千。悪魔だとか怖いとか関係なくあんたを信じられるよ。信じてるよ。でも壊されるのが怖いんだ。

「千……あたしは、あんたのこと、しんじ」

「要らねえって言ってんだよ」

 遮られる。言葉と、眼差しと、一つの思い。冷たい壁が、聳え立つ。

「俺は信頼をくれとお前に頼んだか? 余計なんだよ、いちいち」

 なんで。なんで、そんな事を言うんだ。今まで、馬鹿にする事はあっても、一度もそんな事言わなかったのに。こんなにまであたしに敵意を向けるのは何で。一体千は、何に対して怒ってるんだよ。
 まるで自暴自棄になっているみたいに何かを言うごとに攻撃してくる。こんなんじゃ、わけもわからないうちに千に壊されてしまう。
 そんなのは嫌だ。これからなのに。あたしと千はこれからなんだって、せっかく解ったのに。今それを失くすのは、絶対に嫌だ。

「千、なんで? 何で怒ってるの? 何に対して、怒ってるの?」

「あ?」

「あたしが悪いなら、どこが悪いかちゃんと教えて。何に対してどう思って怒っているのか、教えてよ。……あたし、あんたみたいに心読めないから、わかんないんだ」

 わからない。いつもそうだった。千が何を考えているのか、何を思っているのか、いつもわからなかった。
 考えもしなかったのかもしれない。千があたしの気持ちをいつも解ってくれているから、いや、解っているといつのまにか思い込んでいたから。だから、いつも一方通行で、千のことなんて考えずに自分の気持ちばっかりだった。
 本当は千も、あたしの横でいつも、何かを感じて考えていたんだ。そんな当然のことにもあたしは気付かなくて、ずっと千の気持ちを無視し続けていた。千が怒るのも、当たり前なのかもしれない。

「解らないのは仕方ないなんて事は、ない。だから……ごめん。あたし、千の言うとおり、馬鹿なんだ。あんたの気持ちを察してやる事もできない」

「……」

「でも、知りたい。あんたの事、何考えてるかとか感じてるかとか、知りたいよ。知って、ちゃんと……千と向き合いたい。対等に、なりたい」

 こんなことを誰かに言うのは、初めてかもしれない。何度この言葉を呑んできたことだろう。何度この言葉を諦めて、目の前の現実を見過ごしてきた事だろう。
 独りぼっちで、家に残される寂しさ。たまに帰ってきても夜中で、殆ど言葉を交わすこともない父さんとあたし。何度、思ったことだろう。

『行かないで』

 今日はあたしと一緒にいて。話したいことがある。聞いて欲しい事がある。顔も見ないで、言葉も交わさないで終わる一日じゃなくて。ただ一言でも、言えたなら。
 最初は、忙しい父さんにそんな事を言うのは憚られて、遠慮して。そのうち成長するにつれて、甘えることにも気恥ずかしさを感じて。そしたらもっと喋らなくなって。最終的には、自分の意地みたいに、『行ってらっしゃい』さえ言わなくなってた。
 どうして言わなかったんだろう。どうして自分の父親に遠慮して、『寂しい』の一言も言えなかったんだろう。
 自分の寂しさとか諦観とか抱えたものとか、最終的に父さんのせいにして。あたしは、やる前から諦めていたんじゃないか。気持ちを伝える事を勝手に諦めて、相手の反応さえ自分の中で勝手に決め付けて終わらせていた。
 あたしが寂しかったのは父さんのせいだけじゃない。あたし自身のせいで、寂しかったんだ。

「千と、対等になりたい。対等になって、千の気持ちも知って。……千があたしを助けてくれるように、あたしも千を助けられる人間になりたい」

 自分の意地を破ったせいか、ふいに涙腺が緩んだ。
 ずっと、言えなかった。一番言いたかった人に言えずに溜まって、消えかけてた言葉を、千には言えた。
 酷く安心して、凄く泣きたくなった。
 あたしはまだ誰かに対して、こうゆう気持ちを持てたんだ。諦めとか、傍観とか、そんな風に捨てずに済んだ。少し嬉しくて、少し切なかった。父さんにもこうしていれば、もっと何か、違う未来があったんだろうか。
 ああ、でも駄目だ。過程なんてしたって、戻らない。今目の前にいるのは父さんじゃない、千だ。今あたしが伝えたいのは千で、知りたいのも千の気持ちだ。
 滲んだ涙をぐっと堪えて、腕でごしごしと目を擦る。涙を消したクリアな視界には、信じられないものを見るかのような、千の綺麗なエメラルドの瞳があった。首に当たる千の手のひらが、力を奪われたように緩む。

「お前……」

 あ、また。まただ。怒っているような、悲しんでいるような、色んな感情が複雑に入り混じった顔。
 でもそれもすぐに消えて。痛いくらいの力で腕を引かれて、天地が逆転した。右腕をベッドに縫い付けられ、ぎりぎりと力を込められる。容赦のないその力が腕にのしかかり、痛みで思わず顔を歪めてしまう。
 でもそれ以上に激しい怒りと狂ったような嘲笑に歪んだ千の顔が、あたしの顔にぐっと近付いて囁いた。激情を押し殺したような声が、降りかかる。

「ごちゃごちゃうるせえんだよ。そんなものは要らないと何度言ったら解るんだ愚図」

「千……」

「お前はただ俺に願っていればいい。請えばいい。お前の願いならば何でも叶えると言っているんだ。お前は尽き果てるまで薄汚い欲望をさらけ出していればそれでいい」

 目の前のあたしを今すぐにでも縊り殺しそうな殺気めいた眼差し。わざと脅して、怯えさせようとしているみたいだ。怖いというより、痛かった。
 千は、壊してまでもあたしに何かを求めていると、わかったから。その必死さが痛くて、苦しい。千は何か、気が狂いそうなほどの何かを、持っているんだ。多分それが、千の本当の願いなんだ。

「わかった」

 腕にかかる力が止まる。あたしは空いたほうの手で、千の首に手をかけて引き寄せた。

「千の願いを叶えたいよ。千があたしの願いを聞いてくれる分、あたしも千の願いを聞きたい。……それが今のあたしの、願いだよ」

 前髪が重なって、千のエメラルドがよく見える。見開いたその瞳のなかに何か見える気がして、ただそれだけを見つめた。
 『怖い』や、『どうしたらいいかわからない』。さっき、千はあたしにそう言ったけど。確かにあたしはそう思っていたけれど。
 千にそれが解ったのはただ単にあたしの心を読んだからとかじゃなくて。千も、同じ気持ちだったからじゃ、なかったんだろうか。千もあたしとは違う位置で、違う目線で、でも同じ事を感じていたんじゃないだろうか。
 あたしが千にそう感じていたように、千があたしに対して。あたしに対して、何かを、『怖い』と。
 そう考えると、不思議と切なくなって。滲む痛みをかばうように千をぎゅ、と抱きこむ。すると、腕の戒めが解けて。千が、無言で抱き返してきた。
 痛みを耐えるように強く、でもさっきとは違う、なんだか切ない優しさを伴って。痛い痛いと泣き叫ぶ。あたしの心か、千の心か。でも今初めて触れたような気がして。初めて、千に触れたような気がして。その切なさと嬉しさと苦しさに、音も無く涙が流れた。縋りつく千の分も泣くように。あたしは抱き合っている間ずっと、泣き続けた。

 願わくばどうか。
 千の願いが、叶いますように。あたしが千に寂しさを消してもらったように、千にあんな顔をさせる願いが、早く叶ってしまいますように。そしてできれば、それをあたしが、叶えてあげられますように。

  

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