6.嫌いだよ
――――いやだ。
その一瞬、ただそれだけ思って。体が、動いていた。
「―――― 千っ!」
千の綺麗な指が鮮血に染まる寸前。つんのめるように駆け出したあたしの体は勢いよく奴の背中にタックルをかける。それは思いのほか成功して、二人して床へと共倒れする。
意外と痛くなかったのは、千が咄嗟にあたしの体を抱えたからだ。力加減の余裕もなく飛び出したのに、千の手はあたしの体をまるまるすっぽりと抱き抱えていた。
「いてぇ……このくそ餓鬼」
あたしの体を抱きすくめたまま、千はいつもと同じ悪態を吐く。その声音がいつも聞いている憎たらしい感じに戻っていることに、あたしはほっと息をついた。
それから千の顔面に一発ぶち込んで、急いで身を起こし横で軽く咳込んでいる仮面の野郎の方に駆け寄る。
「おいアンタ大丈、夫……って、え?」
駆け寄ったそのベッドに、仮面の男はいなかった。代わりにいたのは、首を押さえてベッドにぐったりとしなだれかかる髪の長い女の人。
その髪は腰を超えるほどに長いらしく、扇上に広がるクリーム色の美しさに思わず息を飲んでしまう。
というか、誰この人。
混乱してそれ以上近付けないでいると、その女の人がわずかに身動ぎをしゆっくりと身を起こす。からんと硬質な音がした。落ちた仮面のかけらに目を移し、振り向く女の顔へと自然に視線が向く。そんなわけないと揺れ動く疑惑を払拭するほどの美女が、そこにいた。
「オイてめぇっ」
後ろから千の声が聞こえ、はっと我に帰る。文句をいおうと顔を押さえ起き上がった千に振り返り、あたしは再び掴み掛かった。
「ちょっと千っあれ誰!? まさか」
まさかと信じられなくて、首の傷に顔をしかめる美女を盗み見る。千は襟首を掴むあたしの手を鬱陶しそうに振り払うと、眉を潜めてボソリとつぶやいた。
「お前絶対DVだろ」
「お前もな! って違うわボケぇえ!! そっちじゃないそっちの話じゃない」
あれあれっと指をさすと、舌打ちが返される。
馬鹿にするように見下ろす千じゃなくてどうやら、あの美女から聞こえたらしい。
「きいきいと喧しいわ猿娘が」
うほ。じゃねえ間違えた、うき。
今のはあの美女が言ったのかなと恐る恐る振り返る。端正なお顔に恐らく一番美しく見える位置に配置されたこれまた見惚れるような琥珀の瞳。それが刃物のように鋭く冷たく、あたしに向けられていた。
「怒ってるのに美人! っていうかむしろたまらん!」
「お前キモい。っていうかむしろ気持ち悪い」
うんざりしたように千が隣で口調を真似て皮肉った。お前よりましだと睨みつけるが、逆に睨み返され思いっきり頬をつままれる。まじで痛いのに離してくれない。なんだってこいつはいつもこう容赦がないんだっ。
「いひゃいいひゃいへんひゃいひゃい」
「誰が変態かこのマウンテンゴリラが。巨体で俺の邪魔をするとはいい度胸だ」
あたしの悪態を律義に聞き取りながら、ぐににゃにににとありえない力でほっぺの肉をねじる。痛い痛い捩じ切れるっ。
「はなひぇほのほえふひゃろう!」
「俺のイニシャルSだから」
「あほーーっっ」
痛い痛い痛い痛い痛い。涙ちょちょぎれて限界まできたところで、千の手がぱっと離れた。言葉もないほどに痛い。ほっぺたこぶとりじいさんになってないかな。
反撃すら出来なくて痛みに悶えるあたしの横を、千は満足めいた悪辣な笑みを浮かべながら素通りする。嫌な予感がして、あたしは頬の痛みに耐えて千の足にしがみついた。あたしが動けないと思ったら大間違いだぞコノヤロッ。
「待てこの鬼畜悪魔っ」
「さわんな。離せ」
「嫌だねっ」
意地悪変態役立たずのろくでなしっ。足にしがみついて必死で悪態を吐きつつ引き止める。
だって嫌なんだ。千のことが好きな奴を千が殺そうとするなんて。千がその存在を否定するなんて。お前なんか要らないって言われる事がどんなに辛いのか千は知ってるの? それを恐れてるあたしには想像する事すら怖いよ。
何がなんでもしがみついて嫌だ嫌だと首を振ると、千はうんざりと言わんばかりに大きなため息をついて足を鷲掴みするあたしの手をぐいっと引き上げた。
「邪魔すんなよお前……こいつを消そうが消すまいがお前には関係ないだろう」
「あるから邪魔してんだろがこのどSッ」
飽くまで反抗的に睨んで言い返すと、千はほう? と笑みを引きつらせてあの美女……いや、もう間違いなくあのうらという仮面なのだろう彼女を見下ろす。
「ああ関係あるかもな。お前こいつに殺されかけたもんな。だったら俺が代わりに消してやるんだから無問題だろ」
そう言い切る千は早く彼女を殺してやろうと笑っていて、そこには友情だの愛情だのましてや同情の情のかけらもない。
その不可解さと、千への思いを裏切りで返された事に対する彼女の表情は、きつめの顔つきにもかかわらずどこか傷ついた少女のように儚げだった。
あたしは、確かに関係ないかもしれないけど。そんな彼女の表情を見てしまったら、関係ないなんてとても言えない程に千を許せなくなった。
「お前最低! 最も底辺、最も低脳、最も低級!」
いつものパターンで、頭目掛けてきつめの一発をお見舞いする。
いやだイヤだ嫌だ。何が嫌だってそれはいちいち悪者ぶる千が。すこぶる気に食わない。ほんとはもっと、もっとわかってくれる奴なんだ!
「千はわかってるんだろ! この人が千の事想ってるって」
「だからどうした」
そんな事関係ないと、一蹴する。
その言葉一つ一つで悲しくなってる彼女をもしも千が知っていたとしたら。知っていてその上で言っているとしたら。あたしは本気で千を嫌いになれそうだ。
「……頼むよ。やめて」
なんだか途端に悲しくなってきて、最後の抵抗のように千の服の裾を所在無げに摘んだ。訝る千には、きっとあたしがここまで邪魔する理由が解んないんだろう。
「千」
「なんだ」
「あたしはアンタの事むかつく奴だと思ってるけどさ」
ひくりと千のこめかみが引きつる。仕方ないじゃん、むかつくもんはむかつくもん。でも問題はあたしじゃなくって。ちらりと、複雑な表情を浮かべる彼女を見下ろす。
「この人はアンタの事嫌いじゃないのはあたしにもわかるよ」
「だからそれがどうしたと……」
「だから、大事だと思う。大事にしなきゃだと、思う」
自分を大事に思ってくれる人がいるなら、その人を大事にするべきだ。それはあたしの押しつけに過ぎないだろうけど、でも思うんだ。
だってそうゆう存在ってこのほの暗い世界の中では、ほんとはとても稀有な光なんだ。不安に包まれる世界の中でぽつりと足下を照らしてくれる、暖かい光だ。だから無為な扱いをするなんて、可哀想過ぎる。お互いに。
綺麗な水がないと生きていけない蛍と、夜闇に孤独に流れ続ける冷たい川。無くちゃ寂しいし、苦しいよ。あたしは大事な存在を失って一人になって、死んじゃいそうなほど寂しかったし苦しかったよ。大事にされなかった自分は大事にする価値が無いんだって思い込んだりもした。
だから、千。
縋るように見上げて、表情の読めないエメラルドを見据えた。
「あたしが彼女を憎んだり殺したいって思うのはあたしの勝手」
実際はそんなこと思ってないけど、でも殺されかけたんだからそれくらい。
「それはあたしだったらいい。でも千はだめだ」
「何故」
なぜって、それは。なんとなく裾を掴む手に力を込めて。空しい笑みが込み上げてきて、乾いた声で答えを返した。
「大事にしてくれる人を大事にしなきゃ、いずれ独りぼっちになるからだよ」
大事にされなきゃ、だんだん大事にするのが苦しくなって逃げちゃう。どんなに思いが深くても、どんなにに絆が強くても。強くなりたいと願うその心は、思ったよりも弱いもの。寄り添うものがなきゃ、弱るものだよ。心は。
だから千、悪者ぶってても悪魔だからって言っても、あんたにだって心はあるって知ってるから。ねえ、独りぼっちの悪魔なんて嫌いだよ、あたし。
「あんたは大事にしてくれる人がいるんだからちゃんと…………千……?」
呟いた、あたしの言葉。ふいに千の手が、裾を掴むあたしの手を上から握る。
見るといつもみたいな有無を言わさずな力でもなく、嫌がらせのように異常に力を込めるわけでもなく。握っているというより添えているようなそんな儚い触れ方。なんだか、千の手じゃないみたいだ。
「せ……」
顔を上げて、どうしたのかと表情を読み取ろうとした。だけど名前を呼ぶことも出来ず、あたしは言葉に詰まってしまった。
千が何を思っているか、表情からは読み取れなかったんだ。千は固まったあたしを見下ろして、ただ短く呟いた。
「お前、馬鹿すぎ」
いつもと同じような悪態をついたというのに、その声はなんだか苦しげに呻くように聞こえて。それに何かを感じ取る前に、腕を引かれて千の胸にぼすりと入る。頭を抱えるようにふわりと抱き締められて。
――いいや、違う。手を握られたそのときから、ほんのりと感じる。縋るような、そんな手のひら。縋るように、抱き締められて。
こんな千は初めてだ。こんな千は、見たことがない。あんな顔をするなんて。あんな、見捨てられた子供みたいな真っ暗な瞳。胸が痛くて、動けもしなかった。遠い何かを追い求めるような千の寂しそうな眼差しに、胸が痛くて仕方がなかった。たった一瞬見ただけなのに、目に焼きついてしまった。