5.悪魔がきた
千の姿を見た瞬間、あたしはなんだか何年ぶりかのような気分になって、五感で千の存在を確認していた。見下ろすと黒い服に包まれた、広い背中。鼻を掠める、ほのかな花の香り。さらさらと流れる黒髪はあたしの髪よりも黒く艶やかに、剣呑なエメラルドはその圧倒的な輝きを今も失わない。
千の肩に手を置いていて、ふと気付いた。千は悪魔の癖に暖かい。あたしを片手一本で抱える腕は見た目細腕の癖にしっかりとしていて、揺ぎ無かった。
その千の全てが千本人である事を証明していて、あたしは何故だか悔しいような切ないような、不思議な気分に落とされる。どうしてあたしが千なんかに切なくなるんだろう。
「久しぶりだな宇羅。二百年ぶりか」
あたしを抱えたまま、千はやけに艶めいた笑みを浮かべながらあの仮面の男に声をかけた。というか、二百年ってこいつらどんだけ生きてんの。もはやじじいを超越してる。
驚くあたしを尻目に、宇羅と思わしき仮面は振り返って不機嫌そうに腕を組んだ。
「違う。二百五十六年と三ヶ月と二週間丁度ぶりだ、馬鹿者が」
いや馬鹿はお前だろ。
丁度とか言ってどこが? なに、最後に会った日から数えてんの? その二百五十六年と三ヶ月と二週間前から。もうなんか細かすぎて恐ろしいよ、その長い年月数えてたお前の執念が恐ろしいよ。千の知り合いって一瞬で納得したよ。しかしこの雰囲気、突っ込み辛い。
どうしようかと身じろぎすると、千の手がぱっと離れた。当然あたしの体も床に落とされる。
「いって!!」
「お前重過ぎて持てない。骨折させる気か」
「あたしの体何トンですか!?」
今まで片手で持ってたくせにわざとらしくもう片方の手で肩をかばう。そのいかもに無理して肩を故障しちゃった野球選手みたいな面がむかつく。
強か打った腰を擦りつつあたしはなんとか立ち上がり、奴の襟首をがしっと掴んだ。
「くるのがおっせーんだよ殺されかけただろうがっ」
仮面の野郎は絶対あれまじだった。洒落にならないぎりぎりのタイミングで現れていけしゃあしゃあとヒーロー気取りする奴がどうしようもなくむかつく。こちとら臨死体験したってのにお前は気楽でいいなあとにらむと、千は鬱陶しそうにあたしの手を払う。
うわむかつく。はん、と小馬鹿にするように鼻で笑いやがった。
「だから落ちる前に出てやったろ? グッドタイミングナイス俺様」
「いやいやバッドタイミングお前何様」
「だから千様」
「主婦の恋人ペ様気取りかてめーは。雪も火山灰に変わるよマグマ大使め……って照れんな!!」
何鼻の下さすってんの、何とうぜんだよ的に髪かきあげてんの。まじでキモいんですけど。火山の火口に突き落として指輪とともに葬りたいんですけど。
頼むからいっぺん生まれ変わってくれないかな。いっぺんバンビとかに生まれ変わって自分の人生見つめ直してくれないかな。
「……もういい。好きにして」
「いやお前なんか好きにしても全然嬉しくない」
「あたしじゃねーよお前の今現在の在り方についてだよ! ってかその嫌そうな顔を力の限り捻り潰したいんですけど!!」
何こいつすげー疲れる。なんかあの仮面のほうがだいぶましだったかも。
早くも限界値まで蓄積した疲労感に負けそうになり、気休めに溜め息を付いた。すると、千は何やら気に入らないと言わんばかりに不機嫌にも目を細める。
「お前恩知らずもいいとこ。『ありがとうございます千様このご恩は私の命をとして一生をかけて返したいと思うのですがお許し頂けますかわが主、わが神、わが魂の帰依する偉大なお方千様』とか言えんのか」
「なげーよってかあたしがそんなん言うと思って助けたんか!」
「言われても御免被るけどな」
じゃあ言うな。しかも言わないから、そんなもしもは未来永劫ありえないから。
だめだ、なんかこいつと顔付き合わせると話が進まない。こんな下らない話よりも先に言うことがあるんだよ。
あたしは千から目を離さずに、後ろで口を挟むタイミングを失った仮面男を勢いよく指差した。
「そうじゃなくてこいつ! こいつなに、あんたの知り合い? 殺されかけたんだけど!」
小娘風情が指をさすなと文句を言ったが、そんなん今はどうでもいい。今問題なのはこいつは何者で何をしにきて最終的に何故あたしを殺そうとしたかだ!はっきり言って殺されるいわれがない。
必死の形相で千に詰め寄ると、何やら嫌味な嘲笑を浮かべてなんてこともないかのように言った。
「ああ……お前嫌われてるみたいだな」
「そんな問題なんですか!?」
なにそれ嫌われてるみたいってそれだけで普通人殺そうとするか? どんな闇抱えてんのあいつ。それよりもあの短時間で嫌われて殺意を促すあたしも何者なんだよ。なんもしてないだろ……多分。
腑に落ちなくて納得しあぐねていると、千は邪魔だと言わんばかりにあたしを横に押し退けて仮面男と対峙する。おーいまだ解決してないんすけど。
「宇羅ァ、お前何しに来たの?」
千は笑っている。表面上は楽しそうに、でもその声はまるで柔らかく撫でて脅すようにしなやかに冷たい。声をかけるのも躊躇われるほどに、千の雰囲気がいつもと違った。つまり、一言で言ってしまえば、千は本当の悪魔のように冷ややかな悪意を放っていたんだ。来て早々なんでそんなに怖いんだ、千。
でも仮面のほうはその様子に気付いているのかいないのか、臆する事もなく一ミリの悪気もなさ気に肩をすくめた。
「それはこちらの台詞だ。なんだその下品な小娘は」
頭のネジ根こそぎ消え去った人に言われたくないんすけど。
むかっときて顔をしかめると、千が横目で見下した笑みを浮かべる。なに、こいつの笑みのほうがむかつくってどうゆうこと。
「てーこだ。テメーでこいつに聞いたろ」
ぐりぐりとあたしの頭を乱暴に撫で回しかき回す。ああもうぐちゃくちゃじゃないかっ。
その手を邪険に振り払っててぐしで頭を直す時に、チラッと見えた仮面男。なんだか仮面の奥から、焦がし尽くさんばかりの眼差しを向けられた気がして。体がぴきりと凍りついたように止まる。なんか異様に迫力があって、冷ややかで。ぞっとして思わず目を伏せると、千があたしに背中を向けて立ちふさがった。
うわ、なんか。千があたしをかばうわけないって言うのはわかってんだけど、それでもその行動でほっとした。
なぜだか知るわけもないけど、あたしはあの男に切り裂くような悪意を向けられていて。それで、実はさっきからそれにびびってしまっていたから。首を絞められた感触は残ってる。あの憎悪に満ちた声も耳に響いた記憶が離れない。正直本気で、ぞっとした。嫌だな。もうあんな怖い体験真っ平だ。マジでサスペンスものだったもん。
千の背中で奴が見えない事に安堵して肩の力を下ろすと、千が動き出した。ゆっくりと前に、踏み出す。不思議と、その緩慢な動きに異様なものを感じた。
「なあ……だから、知ってんだろ? こいつ、俺のもんなわけ」
「誰がっ」
「黙ってろ」
有無を言わさないその一言で、不覚にもぐっと口を噤んでしまう。千はあたしの視界の真ん中を器用に進み、仮面の男に近付いていった。
見えないけれど、奴が息を呑んだような気がした。あたしも千の迫力に、息を呑んだからだろうか。ちょっと剣呑だ。
「人のもんにさ、何勝手に触れてくれちゃってんのお前。誰が許可した」
「青千我……っ、私は」
「黙れ。お前の事なんてどうだっていいんだよ。俺の質問にだけ答えろ」
言い募ろうとした仮面男に、有無を言わさず千が畳み掛ける。とても怖い。仮面のほうじゃない。千が。いつもみたいな小ばかにした声じゃない。酷く無機質な、温度のない声。背筋にぞわぞわと、悪寒が生まれ始める。こいつ、本当に千なんだろうか。
かつ、こつ、と床を鳴らし、ひどくゆっくりと足を前に。その不自然なほどの緩やかさが、場の緊張感を助長させる。千がどんな顔をしているのか、背中を見つめるあたしには見えない。或いは恐ろしくて、見ることなど叶わなかったかもしれない。
仮面の男は動揺したように機微すると、見えない顔をなおも隠すようにわずかに俯いた。それはあたしとは違う、千には嫌われたくないという意志が垣間見えた、気がした瞬間だった。
「お前、お前が……あんな下賎な小娘如きに執着するなどありえんと……」
「お前如きに俺を定義できる云われもねえけど」
絶対的な差だ。最初から優劣が決まっていたかのように、無為な言葉の交差が紡がれる。ただ感情なく奴の言葉を切り捨てる千に、何故かあたしが胸を締め付けられてくる。あたしが言われているわけじゃない。だけどなんだか、千の言葉一つ一つがひどく排他的で感情がなくて。そんなもので斬りつけられるのは怖いと、感じた。しかも、自分が好きな相手だとしたら。
仮面の奥は見えない。だけど千が近付くたび、千の言葉が奴の言葉を容赦なく殺ぎ落とすたび。奴の動揺が激しくなっていると、感じた。こつりと、靴の乾いた音が最後の音を端的に響かせる。もう目の前まで、来ていた。
「宇羅……お前さ、あれに何するつもりだった?」
声がやけに柔らかい。見下ろされているのは仮面のほうだというのに、あたしまで身動きが取れなかった。
奴はあたしより高いが、千よりは低いようだ。身長差が優劣を表すようで、あたしを見下ろした時はひどく大きな存在かのように感じたあの男は、千の前では卑小に見えてしまった。
千、どうしたんだろう。嫌な雰囲気だ。
こんな千は、嫌だ。いつもの何倍も、比べる事もできないほど、嫌だ。だって、だってこれじゃあ。
「こうして、たよなあ……?」
つ、と奴の首筋に触れる。千の、すらりと長い指。首筋をなぞり、徐々に広がる五指。意外と細い奴の首を、千の指が覆い隠した。
何故か仮面の男は抵抗せずに、千を見上げている。その手がゆっくりと持ち上がり、己の首を包む千の手にかかる。訴えるような、そんな空気を孕んでいた。
「そうだ、私はあの娘の首を絞めていた」
「……何故?」
「何故……何故と? 聞くまでもない、殺すつもりだったからだ」
少しむっときたかのように、仮面のほうが心なし詰め寄る。だめだとあたしが止める前に、奴は饒舌に口走った。
「お前ほどの奴が何故あのような木偶に関る。あんなもの、一片の価値もない! ただの残りかすだ、抜け殻だ、過去の……っ!!」
全てを言う前に、千の五指が食い込む。どれだけの力が込められているのか、奴は一瞬で言葉さえも封じられ、その白い首からは食い込んだところから血が滲み出していた。
躊躇うことなく徐々に五指を食い込ませる。のけぞる奴をそのままあたしがされたようにベッドに押し倒し、千はかすかに笑いを洩らし首を押さえつけたまま顔を近づける。触れそうなところまで近付いたところで、そっと、囁きかけた。
「俺にとってはお前が過去。今の俺にとってお前は何の価値もない。だからお前こそが――要らない」
そう囁いた千の言葉。本気だと、わかった。本気の言葉、本気の殺意。
ああ。おかしい。なんか、おかしい、けど。
嫌だ。なんだかとても、嫌だ。
やめろ、千。やめて。
それじゃあ、そんなんじゃあ本当に、悪魔じゃないか。あたしは悪魔を呼んだんじゃない。千を、呼んだのに。
そう思った途端。
弾かれたように、体が動いた。