1.若い翁
朝、目が覚めて、妙に胸がどきどきしているのを感じる。首もとに手を当てるとぴったりと指が吸い付いて、その湿り気に自分が寝汗をかいていたことに気がつく。
ああそうだ、何か夢を見ていた。灰色の天井を見上げて思い出そうとするも、のっぺりとしたそこからはなんのイメージも思い浮かばなくて。だけど無性にどきどきして、二度寝をする気にもなれなかった。
寝起きで重い体を両手をついて起き上がり何の気なしに部屋を見渡す。
窓が開いていて、朝日に透けるカーテンがはためいていた。まるでそこしか救いがないように思えて裸足でベッドから降りて窓に向う。
たった一つ取り付けられた、部屋全体を照らし出す窓。縁に手をかけて覗くとスッキリとした朝の風が前髪を玩ぶ。陰気な城にも爽やかな朝はやってくる。清浄な空気を吸うとだるい体が楽になっていく。下を望めば断崖絶壁、その更に下には豊かな森が広がっている。どこまで続いているのかわからない。この光景すら本物かどうかわからないし、かといって確かめる術もない。
延々と続く森を眺めて、思わず眩暈を起こしそうになった。あまりに不透明な世界で、意識を保っていないとどこかに落っこちてしまいそうになる。
だって今あたしがおかれているこの状況すら、証明しようがない。あたしの夢の中の産物かもしれないし、千という存在だって居ないかもしれない。
そうだ、千。振り向いて、ぐるりと部屋を見渡した。灰色の壁、灰色の天井。床は赤樫色の絨毯、壁にはあたしが眠っていたベッドがぴったりとくっついている。そうして今あたしがいる窓の手前に細かな装飾の椅子、対になる丸いテーブルが一つ。
だけどいつもそこに座る千は居なくて。何を期待してたんだかと馬鹿馬鹿しくなって、脱力するようにその椅子に腰掛けた。あいつが居ない事なんていつもの事だ。
人が眠るまでしつこく部屋に居座るくせに、起きると居たり居なかったりと日によって変わる。こんな早朝に、あいつは何をやっているんだろうか。
そこまで考えて、また小さく息をつく。あいつがどうしてるかなんて考えても無駄だし、どうでもいいことだ。あたしには関係ない。
はためくカーテンを振り払って、シャワーを浴びる為部屋を出て行く。あいつがなんだろうがどうしていようが関係ない。願いが叶えばそれでいいし、それまでの契約相手ってだけだ。あいつは悪魔、あたしは人間。関係ない。
「ふん、ふふふん、ふ、ふ、ふんふ〜ん」
なんだこの珍妙な歌は。なんだかご機嫌に部屋の向こうから聞こえてくるじゃあないか。シャワーから帰ってきたらコレだよ。スッキリ気分も萎えるっつの。千の野郎呪いの歌なんか口ずさみやがって(断定)。
微妙に入りたくない気もしたけどぶっ飛ばしたいという衝動が抑えきれずにドアを勢いよく開けた。見ればテーブルに足を乗せてがたがたと小学生のガキのように椅子の足を浮かせる千の後姿があって。
「千っ今までどこ行ってたんだよ!」
あれ!?なんか違う事言っちゃった!慌ててばっと両手で口を閉じると同時に、あたしの声に驚いたのか千の座る椅子が揺らぎ。どだん!!と、部屋中にいい音がこだました。
「ちょ、大丈夫っ………ですか…知らない人、よ…?」
驚いて駆け寄ってみるとそこにいたのは、千ではなかった。
クリーム色に近い薄茶のきらきら光る綺麗な髪、その顔はなんだろうか。凝視すると顔ではなくて。そう、顔ではなくて、仮面をつけていた。外国みたいな煌びやかなものじゃなく、日本舞踊で使うような翁の能面に似ている。
ってかよく見ると服も黒くない!黒のTシャツに白のシャツで下はジーンズ。あいつとは正反対なくらいのラフさ!なんだこいつ。ってか普通間違えねーだろこんだけ見た目違ってりゃあ。どうしたあたし。
あまりの驚きに言葉を失いかけていると、倒れていた男がムクリと起き上がった。
「……おお痛い。いきなり声をかけてくれるな」
「…あ、スンマセン」
なんだこいつ、ってか誰!? 千の知り合い?
強く打ちつけた頭をさすりながら倒れた椅子を直して、また座りなおした。状況が飲み込めなくて固まっているあたしを見上げて、ちょいちょい、と指で小手招く。
へ? あたし?
「そう、お前だお前」
やや離れたところで様子を伺うあたしに近くに来るように再度呼び寄せる。と、あまりに怪しすぎて行きたくないのに足が勝手に動いた。よどみない動きで男のほうへと一歩また一歩と歩き、男の手前でぴたりと止まる。
どうなってんだあたしの足!動かない足に抗おうとしている間に男が立ちぬおっと結構な身長差で見下ろしてくる。
千と同じくらいだろうけど…能面だからやたらと迫力がある。こえぇ。今までにない危機感に引きつったあたしの顎に手を添えて、くっと見えるように上を向かせる。
能面の目に開いた穴の向こうの闇が怖い。あたしを見ている。じっと、じっと、じっと。
「お前、名はなんと言う?」
問いかけと言うより試すような愉快的な口ぶりで、能面の向こうからくぐもった声があたしの耳に届いた。
ああ、いやだ、早くこいつから離れたい。まともじゃない、まともじゃないぞ。金縛りにあってるって訳じゃないのに、体が動かせない。
唯一問われた言葉を返すのに唇だけが許されたのか、ゆっくりと、それを紡ぐ事ができた。
「……てー、こ」
やっとの事で答えたってのに、それでも男はふぅんと言ったきり離してくれない。考えるように顔を上げて、微かに首を捻った。
「おかしいなぁ…私は名を問うたはずだが」
何を言ってるんだこいつは。あたしはちゃんと名乗ったじゃないか。なんでもいいから、早く、早く、早く離してくれ。
必死の思いでかろうじて動く右手を上げて、あたしの顔を抑える男の手にしがみつく。男がそれに気づいて、ゆっくりとその手に顔を向けた。
「おや、お前動けるのか。……と、その小指」
小指? ああ、そうか、契約のときに何故か黒く染まった小指。男はあたしの顔を離して、今度は右手を持ち上げた。
よく見えるようにと能面の手前に掲げて、多分、小指を凝視している。裏も表も見るようにひっくり返したり軽く捻ったりしてそこだけを見つめて、またそれを見終えると手を掲げたままあたしに目を向けた。
「誰と契約した」
「……なに?」
「誰と契約したと聞いている。……まさか、青千我か?」
は? 誰しょうせんがって。首を横に振ると、また小指を凝視する。そしてまたあたしの顔を検分するようにじいいぃぃっと眺める。ああ、ちくしょうなんなんだこいつ。抵抗もできない。
こんなときに何やってんだよどこいってんだよどこの美香といちゃついてんだよっ! 人がこんな思いしてるってのにあのくそ野郎。
「……ん」
「…なんだ?」
男がいぶかしむ。違う、違う違う違う。
あの椅子に座ってるのはこの男じゃなくて。今どうしようもなくむかついてる奴で。あたしが契約したのは。
「千っ!!」
「……っ!」
その名を叫んだ途端ばちぃっと火花が散るような音がするとともに、あたしの手を掴む男の手に青い閃光が走り。はじかれるように男の手が離れた。それとともに、自由になる体。
不言実行早い者勝ち思い立ったら吉日!よくわかんないことわざを思い浮かべつつ素早く後ずさって男から距離を置いた。
男ははじかれた腕を抱えて痛みに跪いているようだ。見るとさっきまで白く覗いていた腕が真っ赤に染まり火傷したように爛れている。何? 何? あれあたしがしたの!? すごくね??
「チッ……よくもやってくれたものだ」
手負いの右手をかばいながら男は立ち上がり、忌々しそうに呟く。
やばい、これ逃げたほうがよくないか?脱兎のごとくドアに駆け寄ってドアノブをひねようとしてもしかしびくともしなくて。やべぇここ鍵なんてついてたっけ。いよいよ袋のねずみと化したあたしにゆっくりと男が近付いてくる。
それとともに、怪我をした腕をもう片方の手で撫でる。すると。
「ぅおっ……!?」
まるで魔法のように、手のひらを重ねた後から見る間に治癒していった。ものの見事にまた白くすらりとした右手に戻っている。いやぁまぁそんなこったろうと思ってましたが…十中八九人間じゃない。
じりじりと壁を伝うごとに、男の歩みも進んでいく。
「お前…私に嘘をついたな」
「ッつ、ついてないついてないっ!」
ぶんぶんと首を振るも問答無用で近付いてくる。やばいぞ、この男ヤバイ匂いがぷんぷんする。あたし、殺されるんだろうか。
想像した途端、ぞっとして悪寒が全身に走る。いやだ! 願いを叶えるまでは死ねない!
「来るなっ!」
「……そう言われると行きたくなる」
だはー…典型的な嫌がらせ男だよ。楽しむようにわざと奴はにじり寄り、近づかれたくない為あたしも否応なく壁を伝う。じりじりと妙な緊張感が走り、怖くて男から目がそらせない。隙を見せたら瞬殺されそうな勢いだ。
しかし、それが盲点だった。
「あっ!?」
何かがあたしの足を阻み、見ればすぐ横にベッドとは。しまった、と思った瞬間に顔を上げれば能面の男が目の前にいて。恐怖におののきそのままのけぞり様に倒れこむ。急いで身をよじると既に間を挟むように男が手を突いていて。
まさに蛇に睨まれた蛙、げこげこ。って冗談言ってる場合じゃなくてっ。
「さぁて…どうしてくれようか…?」
聞かれても知りません。
どうしようどうしよう、能面の男に見下ろされ固まる体。畜生、やっぱりあんな奴大嫌いだ。こんなときに役に立たない。
千の馬鹿野郎、死んだら真っ先に呪ってやる。アートネーチャーもお手上げな自分の頭に一生嘆くがいいさ。