こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

海は、そう、甘苦かった―\―

「そう、それで、何か知らないけど妙に避けられて」
「……ハァ、」
「自分から誘ってきたくせにね」
 これ見よがしな言い方は最早確信犯。彼女は真っ赤。態度も立場も、逆転。
「さっ……さ、さ誘ってなんかないですっ」
「……うん? 海に、誘っただろ」
 なんなのか、この空気は。いたたまれなさ過ぎて硬く目を閉じる南夕の髪を、肩に回る中岡の手が一房掴んでは玩ぶ。ぐっと二人の距離が近付いたけれど、いや、否応無しに近づけられたけれど、思っていたものと少し違う。なんだか、仲直りを通り越して、矛先が変わってきたようだ。
「思ってみれば、おかしいな。ヤキモチを妬かれていたはずの俺が、なんで妬かされてるんだか。……もしかして、確信犯?」
「ちがっ、……それっ」
 ――それは中岡さんのほうです。とは、言えない空気。今南夕に発言権は無い。中岡は、薄い笑みで相槌をついた。
「そうだね。そんな事できる器用さがあればここまで面倒なことしなくて済んだし」
「……うぐ、」
 どうしてこう、ちくちくと刺してくるのだろう。中岡の言わんとしていることが判る様で解らない。妬いたと言われても妬かれる要素があったとは南夕は思っていなかった。
 元々彼女の従兄弟のこれまでの言動にも気付いていなかったようだからそれも当たり前と言えばそれまでだったが、中岡にはそれで済ますつもりも無かったようだ。南夕はただ素直に追い詰められるまま、怯えるように肩を縮める。
「こっちのことびくびく観察する割に、近付いてこないし。それどころか、違う男の陰に隠れたりして。俺は悪者気分だったよ」
 つい先刻謝った人とは同一人物とはいえ無い程に、がらりと態度が変わっている。怒っていると言うよりあえてじりじり嬲っているという感じ。南夕は怖くて中岡の目を見ることができず、半分に減ったコーヒーだけ見つめている。もう冷めきっていることだろう。飲み込んでも、きっと頼りない。
「あ……あの、だって、えと、目をあわせてくれなかったのは……」
 そっちのほう、とは言い切れないこの弱さ。そんなこと言われたって、あの時はいっぱいいっぱいで。と思いはしても、まるで言い訳のようで口には出せない。というか今何を言ってもきっと言い訳にしかならない。
 中岡もそれを解りきっているのか、悪びれもせず肩をすくめた。そして気のせいか、固まる南夕の顔を覗きこむように首をかしげる。
「俺? そうだね、悪かったよ。いつもまとわりついてくる癖にあの時だけ妙に避けられたから、つい苛々したんだよね」
「……うぅ〜〜」
「泣いちゃダメだよ、まだあるんだから」
 怖い冷たい鬼悪魔。これじゃどっちが悪かったのか解らない。いや、中岡のこの言い振りだと、確実に南夕にも非がある。ただ、中岡があえて核心を突いて言わないだけで。それがますますいたたまれない。言葉を返しようが無くて、黙って受けるしかない。
「そう、それであとは……そうだね、従弟だから仲良いのは百歩譲るとして、あそこまで密着したのには腹が立ったかな」
「えっ」
「色んな意味で迂闊だよね、君って」
 驚いてつい伏せていた目を上げる南夕に、中岡は笑みを崩さず容赦ない言葉を淡々と浴びせる。
 南夕は驚くことが数多あって、どれから驚けばいいか解らなくなりかけた。思ってもみなかった氷波の存在を中岡が突きつけてきたことにも驚くが、それよりも驚いたのが、あの時あんなに離れていたのに南夕が転びかけていたところが見えていたこと。
 南夕は裸眼で、離れた中岡が何をしているか見えなかったのに。コンタクトレンズというものはそんなに見えるものだったのかと思い知り、同時に寒気がしてきた。
 密着と、氷波のこと。と言う事は、アレのことを言っている?一瞬そんな事、と思い笑いかけたが、そのシーンを思い出してつい赤面してしまった。密着。アレが。そう、見えたのだろうか。
「何赤面してるんだ」
「え、……う、」
 笑みは崩していないはずなのに、目だけ一段温度が下がったような気がする。
 再び身体を堅くしかける南夕に先手を打つように、中岡は南夕の脇に手を差し込んで、自分の足の間にまんまと誘導する。子供にするかのような動作だったが、それにしては密着しすぎるほどに後ろから抱き込まれた。腕は南夕の腹部にまわされ、なおも近くへ来いと力を込めてくる。これはあてつけだろうかと、ついつい疑心暗鬼なことを考えてしまう。
「ああ……嫌になるね。勝手に一人になって頼っても来ないやら、他の男と手を繋ぐやら、その男の陰に隠れて彼氏に怯えるやら。悪かったよ。俺は至らない男だから、そんな些細なことにも苛々してしまったんだ」
 肩に顎を乗せてきた中岡のわざとらしいため息が、微かに首にかかる。全然、悪いと思ってない。南夕はそう確信しながらも、動けなかった。
 今更これ以上何も言えないように思える。南夕の葛藤を中岡が全て知っていたとは思えないと言うか思いたくないけれど、少なくとも、その南夕は自分のことにかまけて中岡に同じことをしていた。相手との関係が想われ人だの従兄弟だのという事実はこの際関係ない。どちらにしろ、そうしてしまいそうなってしまったことには変わりは無いのだから。同じく気付いていても気付いていなくても、そうしてしまった事実をそらす事はできない。
 端的に言えば、自分を棚に上げて南夕は泣いた。そういうことだ。だったら、南夕が泣いたり怒ったり拗ねたりしてみせたぶん、中岡は南夕を反省させる権利がある。同じことをしたのだから、同じように責めるのも当然だ。ただそれが、どちらが先でどちらが後かという違いだけ。少しだけ、どちらかというと後のほうになりたかったと南夕が密かに思ったのは、内緒の話。
「聞いてる? ……それともまだ、怒っているのか」
 日焼けのせいか、必要以上の密着のせいか、真っ赤になった南夕の首筋に柔らかい感触が当てられる。見なくても、唇が押し当てられていると解った。胸の奥が、ずくりと疼きだす。
「お、怒ってなんか、ないです……けど」
「……けど?」
 だから、この状態から離して欲しい。とは、言えない。
「……ごめん、なさい」
 結局は、こうなることは見えていたのかもしれない。気がつけばいつものパターンだ。なおも考えるのは南夕の悪い癖かもしれないが、中岡はいつも先に折れた振りをして後からじりじりと追い詰めてくる。狡いというか、性質が悪い。そんな事を言えば余計に責められてしまうのも解っているから、言わないけれど。
 それにやっぱりこんな空気であっても、中岡が本気で言っているのも解る。きっと今日は、お互い、傷つけあったのだと思う。
「……私、中岡さんにやきもち妬いたり、中岡さんの態度に色々考えちゃったりして、一人でぐるぐるしていたと思ったの。……でも、違う……のよね?」
「……ああ」
 いつも中岡だけが酷くて狡くて冷たいわけじゃない。南夕だって、気付いていないだけでそういった部分は少なからずある。でもあまりに余裕がなくて、自分を見返すこともせず、つい中岡に気持ちを押し付けてしまうから。相手が自分より大人だからって、手放しに甘えて言い訳では無いのに。やきもちだって、子供が必ず妬くわけでも、大人が必ず妬かないわけでも、ない。
 ――私達、一緒にぐるぐるしていたんですよね。
 声に出さずに確認して、南夕はまわされた腕にそっと自分の手を添えた。
「自分で海に誘ったくせに避けてしまったり、逃げたりして、ごめんなさい。だから、もう……」
 この話は、ここで終わり。悲しかったり腹が立ったりしたけれど、喧嘩両成敗ということに、したい。つまりは、南夕もようやく、仲直りする気になれたということ。
 中岡の胸に背を預けながら、南夕は胸のうちでほっと息をつく。もやもやしたままで終わるよりも、結果的にはこの方が良かった。海では近寄ることもできず彼との思い出も作れなかったけれど、こうして最終的には落ち着いたのだから万々歳。そう、思った、のだけど。
「じゃあ……最後に、一ついい?」
「え?……どうぞ?」
 なんだろうと振り返る南夕。刹那、ぎくりと固まる。何故かってそれは、自分を見据える中岡の目が先ほどの微笑の欠片も無く、冷ややかに南夕を映していたから。
「……他の男の前で、よくもまあ無防備に泣けたものだね」
「……ひゃ、」
 思いも寄らなかった感覚に、色気も何も無い声が出た。熱い潤いと、滲む小さな痛み。唇は離れず、僅かに動いたそれが笑んだことを敏感に感じ取った。低く甘苦い声が、首筋を湿らす。
 あつい。あつい。じりじりと、焼き付けるように。
「これだけは別問題だよ。見せる相手は誰だ?」
 ずくずくと、疼く。痛みと眩暈がごちゃごちゃになって、撹乱される。神経ごと。
「ホラ、誰?」
「……中岡さん、です」
「あたりまえ」
 いつのまにか首を固定した手も手伝って、顔を上向きにされる。
 触れた唇は、まず、煙草の苦い香りがした。それから角度が変わり、ぴったりと合わさる。これは、コーヒーのほろ苦さ。幾度か啄ばまれ、隙を狙い、深まるごとに苦味は増す。なのに、嫌じゃない。
 じりじり焼け付く熱に翻弄され、苦さの隙間に潜むもの。時々目を開けては見つかって逸らし、そのうち病み付きになるこの感じ。熱くて、苦くて、眩暈がしそうな程のこの、甘さ。時折見せるその甘さは、不思議な既視感を思わせる。

 追っては引いていく波。焼き付ける熱。揺蕩う感情。包み込んでくれる、柔らかさ。胸を締め付ける冷ややかさ。苦い香り。それなのに惹かれずには、いられない。

 期待した思い出は、無かったかもしれない。それでもきっと、この人といれば、いつでも容易に思い出すことができる。確かに感じた、あの海の狭間を。

Continued on the following page? 2010/4/10微修正。

http://mywealthy.web.fc2.com/
inserted by FC2 system