こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

海は、そう、甘苦かった―Y―

 人前で泣いた後というものは総じて、妙な気恥ずかしさと居心地の悪さを感じるもの。氷波に抱き締められてからどれほどの時間が経ったのかわからないが、南夕は離れるタイミングを完全に見失っていた。いつまでもこうして胸を借りているわけにもいかないし、向こうでも、待っているだろうし。
 向こうでも。
 それを考えて、胸の内がまたずきんと疼く。泣き止んだとしても、気持ちの整理がついているわけじゃない。どうしたらいいのか。どうしたいのか。まだ、わからない。
「南夕」
 思考に沿って無意識に俯いたことに気がついたのか、抱き込んでいた氷波の腕が緩む。穏やかな彼の表情にほっとしたけれど、南夕は急いでその手から潜り抜ける。
 泣いていたせいで目が腫れているかもしれない。きっと不細工な顔だ、そう思ってやや俯き加減で盗み見てみると、氷波は抱いていた腕を見つめ何故だか少し不服そうな顔になっていた。無言で離れたのが、嫌な態度に映ってしまっただろうか。少し不安になって、俯きつつも慌てて謝った。
「あの、ごめんね、ありがとう。私、なんだかこんな……わけ、わからなかったよね」
 自分でもいまだに、よくわかっていないのだけど。心の中でそう付け足して、苦笑する。ここで泣いた理由を聞かれても、答えられない。答え、たくない。
 説明したら、きっと、自分でも何か見えて明確になるだろう。だけどそれが怖い。自分の中の嫌な感情とか、湿った想いとか、そんなものを目の当たりにしてしまう。そうしたらきっと、途方に暮れるしかないだろう。もてあました感情を、行き場のない感情を、ただ持ち続けて辛く重く感じていく。
 そんなのは、イヤだ。逃げようとする自分はずるいけど、でもどうしたらいいか本当にわからないから。泣くことができただけでも、まだ救われたのだから、いい。まだ、知らなくて、気付かないままでいい。気付かれたくない。
 重い自分の思考に口をつぐんだ南夕の頬を、氷波の手のひらが包み込むように触れた。親指が眦を拭い、涙の跡を消す。やんわりと持ち上げられて顔を上げた先には、嬉しそうに目を細める氷波の顔があった。
「訳なんていい。俺が泣き場所になれたなら、進歩だよ」
 進歩? それは、南夕が進歩した、と言う意味だろうか。
 首を傾げてみても、氷波は微笑するだけ。しかし、その笑みが何やら、いつも見せる笑顔より3割増しで、蕩けそうな笑みというか。珍しいとは思ったが、それを自分が受けているような錯覚に陥って、南夕は目を逸らす。それでも離れず顔を包む氷波の手のひらは、温かくて大きかった。参ったと言わんばかりに、南夕独り言ちる。
「ひーちゃん、大きくなったね……」
 その言葉に、氷波が噴出した。何故そこで笑うかはわからないけれど、相当可笑しそうに、くくっと喉の奥で笑っている。南夕からしてみれば昔からの思い出に沿った感慨の言葉だったのだけど、そんなに面白いことを言ったのだろうか。
「ああ、まあ俺だって成長くらいするけど……うん、解ってくれた?」
「うん……」
 笑いを滲ませながらも、氷波の指は滑るように髪を掻き分け、軽く握る。くしゃりと握った指先が、微かに耳のふちに触れた。
「近付いてるよ、どんどん」
「……何に?」
 おどけた眼差しの中に、本気の色が見え隠れする。どぎまぎと聞き返した南夕に、氷波は突如にやりと意地悪い笑みを浮かべる。
「……うん、間違えた。背はもうとっくの昔に引き離してた」
「……そ、そこまで離されてませんー!」
「それはどうだろう」
 翻弄しようと笑う氷波にむきになり口を尖らせるが、内心は少しほっとしていた。
 氷波は確かに、目を見張るほどのスピードで成長し、また、大人へと一歩ずつ、確かな歩みを進めている。それは成長を目の当たりにして嬉しい気持ちにもなるけれど、反面、寂しくもあった。
 今こうして笑っている彼は、年相応のようで、まだ大人とは言い切れない。だけどそのときももう近付いて、南夕にも、どんどん近付いていく。そして身長のように、あっという間に追い越されでもしたら。そうしたらまた、距離感を感じて、寂しくなることだろう。
 彼がどんな大人になるのかはわからない。だけど、今、自分が大人か子どもかはっきりしない境目の中で、南夕は何か漠然とした不安を感じていた。自分が今、どの辺にいるのか。中岡が、どの辺にいるのか。どのくらいの距離が、あるのだろう。ぼかした映像のように曖昧で、頼りないイメージしか湧かなかった。


 戻るのは憂鬱だった。だけど氷波がとなりに居てくれたから、まだマシだった。もう片付けも済んでいて、勝手に居なくなってみんな怒っているかなと不安が過ったが、南夕の姿を見るなり駆け寄ってきた美好はむしろすまなそうな表情を浮かべていた。
「南夕、大丈夫?……ごめんね、アレ、あたしが、」
 恐らく、突風が吹いたとき手を離してしまったことを言っているのだろうと、南夕は察した。けれど、あれは美好が悪いわけじゃない。いや、氷波の言葉では無いけれど、誰が悪いと言うわけではなかったことだ。ただ南夕が、余計に傷ついただけで。
「大丈夫。美好が謝る必要なんてないよ。こっちこそ、いきなり居なくなってごめんね」
「ううん! 南夕が大丈夫なら、それでいい……けど」
 言葉を濁し、美好はちらりと氷波の方を見た。どこか気まずそうに見上げるものだから氷波もきょとんとしたが美好はそれ以上何も言わず、着替えようと南夕の手を引いていった。
 ただ、南夕も気になって中岡のほうへと目は向けたけれど、瀬名とかぶってよく見る事は出来なかった。ほっとしたような、残念なような。そんな自分へ、もういい加減期待は止めろと理性的な自分が冷たく言い捨てた。


 着替えも済ませ荷物もあらかた乗せ終わって、瀬名の車の前には少年達も含め全員集っていた。彼らはこれからどこに連れて行ってもらえるんだろうと氷波に絡みながらわいわい楽しそうにやっていたが、南夕たちは何も聞いていないため不思議だった。がんばって8人乗りのこの車に、計11人もどうやって乗るのだろう。絶対無茶だ。
 まさかホントに、無理矢理詰め込む? 妙にリアルな想像を浮かべてしまい、ぞっと背筋を冷たいものが走った、ときだった。
「おーし、かんりょーう。ハイハイ乗っていいですよー順番にねー」
 車の中でごそごそしていた瀬名が降りてきて、助手席を開けて最上を誘導すると、自分も運転席に乗り込んだ。少し中を覗いてみると、後ろに二人分の席が増えていた。増やせたんだ! と、感動したけれど、ちょっと待てよと思いとどまる。
 それでも一人乗れない。やっぱり多少きつくても、詰めることになるだろう。そう考えている内にわいわいと奥に二人少年が乗り込み、また氷波と美好が乗り込んだ。とりあえず行きと同じ席で乗っていいらしい。しかし後に続こうと手をかけたとき、いきなりぐっと強い力に腕を引かれた。
「どうぞ」
「お、いいんですか? よっしゃーナミの隣りじゃーん」
「あっずりぃ!」
 腕を掴む、冷たい、手。振り向く間も、驚く間もなく、少年が席を埋めていく。動けない南夕の目の前で、無常にも扉は自動で、閉まっていった。
「じゃ、行きますかー」
 そんな瀬名の飄々とした声がかすかに聞こえ、動き出す車から見えたものは少年を邪魔そうに押しのけようとする氷波と、手を振る少年達と美好。それから寂しそうに笑ってこっちを見る、最上比呂だった。
 後には、呆然と立ち尽くす南夕と、その手を掴む中岡だけを残して。まるで孤島に置き去りにするように、車は軽快な滑りだしで、行ってしまった。


「ちょっとちょっと」
 夕方、人で賑わい笑い飛び交う中で、赤茶の髪をした少年が秘め事を囁くように隣りの少年に顔を寄せる。しかも、その筋の肩の如く身体をくねらせ、手の甲をほほに寄せながら。目は、何やら悪戯を思いついた少年そのものだが。
「何々?」
「我らがひー様がご立腹よ」
 隣りに座る、比較的背の小さな少年も乗るように答え、ぶすっと不機嫌を隠さず座る氷波を横目で見つめた。
「まあ恐ろしい、どうしたのかしら」
「どうしたのかしら」
「どうしたのかしらどうしたのかしら」
「うるっさいよお前ら!」
 苛々と言い放った氷波に、少年達は示し合わせたかのように一斉にして「こわぁい」とわざとらしく身震いして見せた。その仲のいい様子に美好も比呂も笑い、瀬名は頬杖をついてにやにやと微笑んでいる。氷波はそれがまた気に食わなくなってくる。どうして自分はこんなところにいて、こんな風に馬鹿達にネタにされているのだろうか、と。
 着いたところは一見して、中華料理店のようだが、夜は居酒屋という感じでもある。見上げるほど高い天井で金魚や竜の提灯が揺れ、雰囲気はなかなかのものだ。それに対して氷波以外のメンバーはそれに喜んではいたが、氷波は全然嬉しくもなんともなかった。
 南夕が居ない。ついでに、あの男も。こんなことがわかっていれば、向こうに置き去りにされた方がまだ良かった。それというのも全部――この男のせいではないか。にやにやと気分の悪い笑みを向けてくる瀬名に、氷波は容赦なく冷えた眼差しを返した。
「おーこわ。最近の高校生は怖いねえ」
「未成年をこんな店に連れてくる大人が何言ってるんですか」
「いいじゃん、ねー?」
 苦笑しながら最上とかいう女がたしなめたが、男のほうは意に介さず仲間に同意を求める。もちろん、馬鹿共もいい返事を返すが。気に入らない。どういうつもりか知らないが、あんな状態の二人をあの場に残すなんて。南夕が可哀想だ。心配なのか嫉妬なのか氷波が深いため息をつくと、瀬名はふっと鼻で笑った。
「若いよねえ。やっぱ違うわ」
「……何がですか」
「んー?」
 自分が大人だとは思っていない。だが、若いと言われるとどうにも気に入らない。瀬名の態度は馬鹿にしているというより、羨んでいるように聞こえるのも確かなのだが。
 質問に真っ正直に答えるつもりが無いのか、瀬名は出されたお絞りを目に当てて、上を向いた。釣られて氷波も顔を上げる。ゆらゆらと、オレンジの金魚が揺れている。
「あいつはさ、狡いんだよ。俺も人のこと言えないけどね。……ま、今回は、君の実直さで許してやってよ」
 何を言っているのかさっぱり要領を得ない。許せといわれても、何をどう許せというのか。それがわからないと、素直に聞き返したくも無かったが。だけど氷波は答えることもせず、提灯を見つめた。
 ゆらゆら、揺れる。おぼろげに、曖昧に。解らないとは言いがたい意地と、早く解りたいと焦る心。見つめることもせず、瞼を隠す男の笑み。ゆらゆら揺れる、この曖昧さ。怒りというよりも、呆れと諦めが入り混じる。
 がやがやとうるさい店内。ゆらゆらと揺れる照明の下。南夕はどうするのか。そう、漠然と思った。

Continued on the following page. 2010/4/10微修正。

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