こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

海は、そう、甘苦かった―V―

「……あ、」
 膝にかかる波が絶えず引いては、また白い泡とともに寄せてくる。追いかけたビーチボールが波に攫われ、手の届く寸前で遠のいていく。どうして追いかけようとすると、余計に遠のくのだろう。押し寄せる波に逆らって進もうとして、足がもつれて南夕の身体はふらっと傾いた。
「お、とっ……」
 ふいに引かれた腕のお陰で転ぶ事は免れて、南夕は何とか体勢を立て直して振り返った。
「ありがとうございま、す……」
「いいえー? 怪我無い、南夕ちゃん」
 軽い言葉、雰囲気。中岡さんじゃなかった、なんてまた南夕は思ってしまった。振り返るたびに期待をしてしまうのは、おかしいかもしれない。瀬名にも失礼だし、自分が馬鹿みたいだ。
 ちょっと不安要素があるからって、中岡が傍にいなければいけないというのだろうか。そこまで考えるのはおかしい。それに、そんなんじゃ、いけない。少しくらいの事は平気でなければ、いけない。自分を誤魔化すためか笑みを浮かべて、大丈夫といった瞬間。ふいに後ろから、腰を引かれた。
「大丈夫ですから」
「ひーちゃん、」
「んん、ならー……安心安心」
 にやにやと妙に上機嫌な瀬名がぱっと手を離す。やけに不機嫌な氷波を意味深な笑顔で一瞥し、流されたビーチボールの方へと軽い足取りで向った。
 南夕には氷波の顔が見えないが、腰に腕が回されて後ろから抱かれている形なので肌が密着しているのがわかる。やけに力が込められていて、なぜかそれにどぎまぎして、慌ててその腕の中から抜け出した。
「……ごめん、南夕、ほんとに大丈夫?」
「う、うん。ありがとう……」
 心配そうに覗きこんでくる氷波に反射的に笑みを返しつつ、南夕は少しだけほっとしてしまった。妙に動揺してしまったのも不思議だけど、いきなり離れたので少し不自然な感じだがしたから。けれど氷波は別段気にも留めていないようだ。振り返るとビーチボールをとりにいった瀬名と美好がすぐ近くまで戻ってきていた。
「瀬名さん、中岡さんは来ないんですか?」
「こないだろあいつは。年中無気力男だからな」
「あー……やっぱり?」
 美好は苦笑するが、南夕は正直がっかりした様子を隠せなかった。せっかく海に来たのに、遊んでくれないのだろうか。大体中岡は、他の事に対する歓心がなさ過ぎる。だからこんな年中無気力とか言われてしまう。
 何にむっとしているのか、南夕の表情には不満の色が浮かぶ。本当は、そんな風に言われるほどの人じゃないのに。人に無関心に見えるけど、無視してるわけじゃない。それでななくばどうして、南夕と中岡は付き合っているのだろう。中岡の中で他人と南夕との境界線は、どんな風に引いてあるというのだろう。
 ちらりと、砂浜に目を移す。タープの下に人影。瀬名さんが来たって事は二人きりになってるのだろう、と考えてしまう。考えてはいけない、と思いつつも。
「南夕?」
「ん……んっ? あ、な、なにっ、ひーちゃん」
 目の前の光景を、顔を覗きこんだ氷波の、心配そうな表情に遮られてはっとする。
 ああもう、しっかりしなさい。どうして自分が、こんなに振り回されなきゃならないのだろう。どうして振り回されるのだろう。こんなにも。
「……気になる?」
「え、ええ? なにが? 別に?」
「……いや、いいなら……いいけど」
 氷波にも気付かれている? 
 びっくりして顔を背ける。まさかそれほど重症だなんて。なんとなく気まずくなる。皆で遊びに来たというのに。中岡一人を気にしすぎるのは、どうだろうか。そんな自分が恥ずかしくて、もう向こうを向くまい、と誓った。
「俺ビーチバレーしたーい」
「お、いいですね〜」
 器用に指一本でビーチボールを廻しながらの瀬名の提案に、ノリよく美好が相槌を打つ。ちらりとこちらを見た美好と目が合った。きっと心配して気を紛らわせようとしてくれたのかもしれない。そうだ。こんな天気のいい日に、こんなじめじめしてたら盛り下がるに決まってる。気分を入れなおさなくちゃ。
「わたしもやりたいですー! ひーちゃんもやろう?」
「……うん、やる」
 心配しなくても平気だから。目配せすると、氷波も笑ってくれた。気にしない気にしない。もう子供じゃないんだから。
「じゃ、ちょっくらお二人さんも呼んでくるわ」
 気に、しない。
『お二人さん』
 気にしないと、思いつつも。南夕の眼差しは恨めしげに、軽快に歩く瀬名の背中に突き刺さっていた。


 ここの海水浴場はビーチコートが備えてあって、貸し出しされている。行ってみると思ったよりも本格的だったので、チームわけをすることになった。負けたほうは昼の買出しの罰ゲーム付。
「じゃーんけーん、ぽん。あいこで、しょっ」
 ぱー、南夕氷波。ぐー、中岡最上。ちょき、美好瀬名。
 中岡はなんとなく、ぱーだと思ったのに。恨みがましく自分の平手を見つめ、ちらりと中岡を仰ぎ見る。やる気がなさそうに自分のチームのコートに移り、あくびをかみ殺していた。ああ、もう、なんだか中岡まで恨めしい。なんで、ぱーを選ばなかったの!
「ンじゃ俺ら審判でー」
 最後の負けで決まった瀬名美好チームはコートの外に出て、両チームとも自分のコートに入った。ああなんでこんな妙な雰囲気の中でビーチバレーをしなければならないのだろう。微妙も微妙な心境の南夕の肩を、氷波がぐっと引いた。
「南夕、上げられる?」
「え?」
「俺サイドにまわるから、南夕はあげてくれるだけでいいよ」
 妙に気迫の迫る物言いに、反射的に南夕はこくこくと頷く。南夕はテニスをやっていたが、バレーはあまり得意ではない。現役高校生の氷波に任せておけば、大丈夫なのだろうか。というかやけに気合が入っているのは何故だろう。
 首をかしげながらも、ポジションに立つ。なんだか本当に本格的で、いやにどきどきしてきた。
「じゃ、コイン・トスは面倒だから省略で、先攻真島ペア」
 氷波のサーブ。ひーちゃん早くこっち来て、と祈ってしまう。一人で、あの二人を見るのは、なんだか心細い。というか、胸が、痛い。些細なことで、簡単に痛む。馬鹿みたい。きっとあの人は、中岡さんは、なんとも思っていない。南夕一人だけで動揺して、振り回されて、胸を痛めてる。
 傾いた思考に釘刺すように、パン、と小気味のいい音が響いた。上手い。それは直線のようにすっと南夕の頭上を通り、相手コートに入る。しかし中岡は特に機敏な動きでもない割に最小限の動きでボールの落ちる位置に移動して、滑らかにレシーブを返した。
 普段あまり動かないくせに、こういうところは何故か要領がいい。綺麗に上がったボールに、影が差す。見上げた瞬間、ぱしっと、ボールが横切った。
「イン!」
「え、……あ」
 ――はい、ちゃった。
 ああ、なんだか、こんな他愛もないことなのに。他愛もないことなのに、なんだかとっても惨めな気分。周りすら見えていないなんて、なんて馬鹿らしい。コレじゃ本当に、子供だ。
「南夕」
「……あ、ごめ……ひーちゃ」
「いいよ、落ち着けって。大丈夫だから」
 頭を撫でる手が、慰めるように優しくて。せっつかれるように押し寄せていた感情が、嘘のように落ち着いていく。
 何を取り乱していたのだろう。あまりに揺らいでいた自分に驚き、その反面よくわからなくなってきた。別に、そこまで気にする必要は無いのかもしれない。そこまで、気にされていないのだから。
「なんか、腹立つかも」
 ふいに、氷波がぼそりと呟いた。その目線は、照りつく暑さに不機嫌な表情を浮かべる中岡に注がれている。苛立ちか闘志か、焦れつく眼差しで射抜いている。
「え、あの……ひーちゃん?」
「見なよあの余裕ぶり……っつーか、やる気のなさぶり?」
 確かに、余裕というよりやる気が見られない。
「別に俺もそこまでやる気あったわけじゃないけどあそこまでだらけられると逆に、ね」
「んー……でも」
「だから、さ。勝っちゃお? 負かしてやろうよ、南夕」
 勝気ににやっと笑い、向こうのコートにボールを投げ渡す。
 やっぱり、氷波は、気付いている。そう感じて、南夕も向こうのコートにゆっくりと目を移す。最上比呂と、中岡が何か会話をしている。特にこちらを見ていない。というか、中岡はここに来てから南夕の方に気を向けていない気がする。途端にむかむかむかっと怒りが湧いてきた。
 気にしすぎもどうかと思うが、気にしなさ過ぎもどうかと思う。彼女の水着姿を前にして顔色を変えないのはどうかと思う。彼女がいるのに他の人と容易く二人きりになるのは、どうかと思う。
 燃え上がるような闘志が、未だかつて無い程に燃え上がってきて、氷波の手をぎゅっと握った。
「勝とうね! ひーちゃん!」
「あたぼう」
 向こうに勝つ気がないなら、遠慮なく勝ってしまおう。これ以上悔しい思いになんかなりたくないし、勝って報いた気分を味わいたい。
 サーブで下がった中岡を穴が開くほどに睨みつけ、思いっきり方向性の曲がった闘志を燃やした。

「……とても楽しいデース」
「……ナチュラルに最低ですよね」
 外野で両者見比べながら、にやにやと瀬名が呟き美好が冷え冷えとつっこむ。
 じゃんけんの時点で裏工作があったことを知っているのは、瀬名と瀬名から話を聞いた美好、だけ。つまり、大勢のじゃんけんで最初に出にくいチョキを瀬名が出してあいこを謀り、あとは事前のマインドコントロール。氷波には『南夕ちゃんは絶対中岡がパーだすと思ってるね』と囁き、比呂には『中岡はとことんやる気無いから一度出した手をずっと出し続けるよ』と密告した瀬名。まんまと思い通りのペアに、組み替えた。
「いや〜みんな素直なことで良きかな良きかな」
「瀬名さんが捻くれすぎなんですよ。……中岡さん、気付いてますよ」
 たまにこちらを、というか瀬名を睨んでくる底冷えした中岡の眼差し。瀬名は瀬名で嬉しそうに手を振るものだから、余計火に油を注いでいる。

 肌を焼く、焦れついた感情。熱に舞い上げられる、焦げた想い。どこに向うのか、夏の陽炎に揺れ動く。暑さに麻痺した神経は、惑わされ、撹乱され。まるで迷路のように、回路をめぐる。
 各々が、各々の夏を見つめていた。

Continued on the following page. 2010/4/10微修正。

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