こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

flavor ―U―

 あの時、普通の『彼女』だったら、なんて答えるべきだったのだろう。
 『彼に近付かないで』? 『彼は私の彼氏です』? 
 どれもこれも、南夕が口にするには荷の重い言葉のように思えた。自分があの人の隣にいるだけの存在なのかどうか。それすら曖昧で、断言出来ないほど、南夕には自信が欠けていた。近くにいて遠くにいるようなあの人のそういう存在だと、南夕こそが誰かに証明して欲しかった。


 嗅ぎ慣れたタバコとコーヒーの入り混じった香り。空間を埋め尽くして、今そこに居る二人を包み込んでいる。隣の彼は一言ももの言わず、南夕もまた何も言わず、雑誌のページをめくる音だけが部屋の隅へと消えていく。
 ずっと何も言わず、ずっと何も言えず、南夕はただ押し黙って中岡の隣に座っていた。何かを聞くのが怖くて、何かが見つかるのが怖くて、いつものように軽々しく話しかけられなかった。
 横目でちらりと盗み見ると、中岡の目はじっと雑誌だけに向いている。南夕は忍ぶようにゆっくりと手を伸ばし、中岡の左手の肘のシャツの部分を掴んでみた。引っ張らず、軽く摘む程度に止めておく。それでも中岡は反応しないので、南夕は幾分かほっと気の抜けた表情になる。更に少しだけ寄りつつ、微かに頭を預ける程度に寄り添って、自嘲気味に微笑んだ。
 いつもは反応を返してくれないことにあれだけ不満を抱いていたというのに、今はそれが逆に自分を安心させている。自分の見ていない間に中岡が変わっていなかったことを確認できて、ひどく安心した。

 狡い根性だと、自分でも解っている。最上に言われた日からこの休日まで一週間、南夕は取り立てて何かをしようとしなかった。それどころか中岡のそっけなさに便乗して、自分の恐れていることを知られないようにと必死になっているだけだった。自分でどうにかしようと頑張らず、ただ、怯えているだけだった。
 真正面からぶつかってきたあの人に対して、自分はどれだけ臆病で狡いのだろう。どれだけ、中岡に甘えているのだろう。悔しさに息苦しくなって、南夕は中岡の背中に自分の顔を埋めるようにして、それを耐えた。
「……どうした?」
 ふと、頬のぬくもりが離れる。歪んだ顔を隠しきる前に、中岡が振り向いた。いつも聞いてない振りしているくせに、どうしてこういう時だけ、こんな絶妙のタイミングでこっちを向くのだろう。
 『なんでもない』と答えられればいいのに、自身の感情に堰きたてられて、声が出なかった。
「南夕? どうした」
「……や、」
「こっち、向きなさい」
 頤を持ち上げられて、問答無用に真正面を向かされる。泣きそうな顔が、中岡の目前に晒しだされた。
「どうしたんだ? 聞いてやるから、言ってみな」
「……っな、んでも、ないです」
「いいから」
 ――よくない。何も一つもいいところなんて、ないんです。
 妙に優しい中岡のことすら心の隅で勘繰ってしまう自分を、知られたくなかった。目を逸らしても、逃がしてくれない。まるであの時の最上のように、真っ直ぐに、中岡が見ている。
 もしも今自分の心の中を覗かれたら、きっと、この眼差しは軽蔑に染まるだろう。そう感じた南夕は、中岡の手から思い切り顔を逸らした。拒絶するように、思い切り。
「――なゆ」
 中岡が追求しようとしたその時突然、携帯のバイブレーションが二人の目前にある机を揺らす。振動でけたたましく鳴る携帯に、一瞬逡巡しながらも中岡は手を伸ばした。
「――はい……最上さん?」
 その名前を彼の口から聞いた途端、今まで恐れていたものが一気に襲い掛かってくるような不安に駆られた。すぐに逃げようと立ち上がり踵を返すと同時に、右腕を取られる。がくっと身体が傾いた拍子に反射的に後ろを向くと、携帯を持ちながらも見上げてくる中岡と目が合った。行くな、と暗に示しているその眼差しは、何故だか縋るように見えた。
 それなのに、どうしても、どうしても怖くて、南夕は顔を逸らしその手を振り切った。気分が悪いから帰ります、と早口に仮病を口にして、早足で中岡の部屋から出て行く。中岡の声は聞こえなかったけれど、掴まれた腕の感触がずっと残って、南夕を苛み続けた。


 重く湿った空気が身体を包み込む。見上げると、重苦しい曇天が空を多い尽くしていた。再び下を向き深いため息をついた南夕は、このどうしようもない状況にうんざりした。
 逃げ出したはいいものの――自分の部屋にはいつ中岡が来るとも知れないので帰れない。かと言っても、身一つで飛び出したものだから、行く当てもない。あんなに愚痴をこぼしたのになおも美好を頼ることなどできないし、連絡の取りようがない。
 にっちもさっちも行かず一階のエントランスで時間をもてあまして、もう小一時間にもなる。自分の無計画さにうんざりして二度目のため息をつき、南夕は顔を上げた。とりあえず自分の部屋に戻って気持ちを整理して、それから彼のところに行ってみよう。
 そう、思って、顔を上げたのに。その目に見えたものは、彼女の姿だった。
「……なんで、」
 思っていた方向とは別の方向へと、無意識に身体が向く。透き通る自動ドアを越え散歩踏み出したところで、向こうもこちらに気がついた。
「南夕ちゃん……」
 今、一番、会うのが怖い人に会ってしまった。頭の中で、見たくもないパズルのピースが埋められていく。
 南夕を目にした最上は一度躊躇したように数度瞬きしたが、すぐに見返してきた。南夕の恐れるその真っ直ぐな力強い眼差しで、ゆっくりと近付いてくる。
「偶然……本当に、偶然、近くに寄ったんだけど……でも、だから」
「……どうして」
「中岡さんに逢いたくて」
 もっと他に、ぼかした言い方もあったように思える。仕事とか、用事とか、なんでもいい。それでも彼女がその直球な言い方を選んだのは、彼女なりの正直さのように感じた。強くて真っ直ぐな、ひたむきな人柄が見えた気がした。そしてそれに対する自分が、あまりに弱い存在のようにも、南夕は感じた。
 きっと今、弱弱しい顔をしているように思う。鏡を見なくても、想像に難くなかった。
「南夕ちゃんは、どこへ行くの?」
 首をかしげ問いかけてきた最上に対して、南夕は何も答えることができなかった。どこへ行くのではなく、どこへもいけないのだから。
 押し黙ったままの南夕を見つめる最上の表情が、次第に曇っていった。
「……いいの? 私を、行かせても」
 最上の言葉は試すというよりも、責めるような響きを持っていた。
 南夕をおちょくっているとかそういうわけではなく、彼女が本気な事は、南夕にも解っている。けれど、色んなことがいっぺんに降りかかってきて、折角守っていた何かも、一気に駄目になってしまった。
 南夕は咽まで込み上げた苦しさを吐き出すように、泣きそうな顔で二度首を振った。
「最上さんがどう思おうとどうしようと、私には止められません。中岡さんがどうしようともどう思おうとも、止められません……私には」
「……それは、」
 最上が何か言いかけるも、南夕は再度激しく首を振る。もう何も聞きたくなかった。
「最上さんは私にまっすぐ言ってくれるけど……言わなくても、いいんです。罪悪感も感じなくて、いいんです。そうゆうのには、『狡い』なんて、きっと、ないんです」
 中岡と南夕の間のことに最上が関わろうとするのなら、南夕もどうにかしようと思ったかもしれない。でも、中岡と最上の間のことを、南夕が何とかできるはずもない。誰が誰を想おうと自由で、だからこそ南夕は美好に何度愚痴を言おうとも中岡の傍に居た。
 最上が中岡に会うことも、中岡がそれを許したならば南夕にどうにかできるはずもない。自分の想いも他人の想いも、止めようと思って早々容易く止められるものではない。
「……でも、」
 それでも。それなのに、どうしても思ってしまう。
 南夕はゆっくりと顔を上げた。初めて最上を真っ直ぐに見据えて、食いしばっていた想いを解く。
「でも私は、私はそれが嫌なんです……どうしても、どうしても、嫌って、思ってしまう」
「南夕ちゃん、」
「中岡さんはいつも私が話しかけたって生返事かスルーかで、あんまり聞いてくれないし、部屋だって同じ階にいるのに一緒に住んでいないし、それに一緒にいたって私は居るか居ないかも判らない存在なんです」
 客観的な自分が頭の隅で、こんな子供っぽいこと、と思う。こんなところで感情をさらけ出すなんてありえない。それでも、彼のことを思えば思うほど、歯止めが利かなかった。今までのことが一気に頭に浮かぶ。それらが全部無くなってしまうことこそ、何よりも恐れていたものだった。
「……中岡さんは、私が居なくても平気なのかもしれない。ううん、多分、平気なんです。でも、」
 近くに居ても遠いあの人。何を思っているのかわからない。遠すぎて、この気持ちすら、届いていないのかも、しれない。
「でも私は、あの人が居ないと嫌です。隣に、居たいんです。返事がなくても必要とされなくても、隣に、居たいんです。だから、そこを、誰かに盗られるのが怖くて……あなたが、怖くて……っ」
 盗らないで。盗られたくない。
 怖くて、逃げようとして、でも逃げ切れなかった。
 零れる粒の熱さで漸く我に返って、咄嗟に目じりを拭った。最上は戸惑いを隠せないようで、言葉もなくそこに立っていた。
 これでは、駄々っ子と何も変わらない。自分の大切なものをとらないでと泣き喚いているだけ。それに気付き、南夕は再び俯く。こんな風にしたってどうしようもないだけだと、硬く目を閉じて深く息を吐いた。
「……すみません」
 自分にすら聞こえているか分からないほどの声で呟き、立ち尽くす最上の横をすり抜ける。自棄な気分になりかけたまま、歩き出した。既に地面には点々と雨の跡がついていて、ちょうど降り始めたところだった。
 アスファルトの熱に上げられた雨の匂いを嗅ぎ取って、そういえばと、思い出す。そういえば、先生に告白できなくてこんな風に歩いていた時も、雨だった。傘もなく行き先も分からず今と同じように歩いていて、それから。それから、声がして。
「あれ」
 思わず顔を上げたら。
「南夕ちゃんじゃん。どうしたの? こんなとこで」
 中岡、ではなく。ビニール傘を南夕のほうへと傾ける、瀬名の姿が目の前にあった。

Continued on the following page. 2010/4/11微修正。

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