こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

きっかけは失恋

 にこにこと人当たりの良い笑顔。誰もこの人を嫌う人なんて居ない。無論南夕も好きだった。この笑顔が大好きだった。だからそれが特有の誰かに向かうところを見るのは、心を裂かれるように、辛かった。

「せっかく来てくれたのに、ごめんね、散らかってて」
「いえ……私が急に来たのがいけないんです」
 人の良さそうな男を前に、南夕は目を伏せて返事を返す。男の隣には可愛らしい小柄な女の人がちょこんと座り、そのお腹はふっくらとなだらかな小山を作っていた。南夕はそれをちらりと見てまた目をそらし、テーブルの下に隠した手を密かにぎゅっと握り締めた。
「引っ越したばかりだからまだ片付かなくて。……元気だった?」
 男は南夕の様子に気付きもせず、南夕に向かってやんわりと微笑む。それは南夕が好きだったもので、一般共通用の笑顔。南夕もそれにやんわりと作り上げた微笑を返した。
「ええ、それなりに。……せ、先生がご結婚なさるなんて、知らなかったので…私何もお祝いを……」
「そんな事いいんですよ。わざわざここまで来てくださって、ありがとうございます」
 隣の女性がまるで春の花のように微笑んで、隣の男はそれに目を移して同意を示すようにこくりとうなずく。その二人の間の空気を目の当たりにし、とうとういたたまれなくなってきた南夕は突如、すっくと立ち上がった。
「あの、私、そろそろお暇します。お二人ともお忙しいようですし、新婚さんの邪魔しちゃ悪いし。それに帰りの時間も、あ、あるし……っじゃ、あの、お幸せに!」
「え? あ、お構いもしませんで!」
 二人が突然の南夕の発言にあたふたとしている間に、南夕は急ぎ足で玄関に向かい出て行ってしまった。後に残った二人は何が起きたのか判らないといった表情で、お互い顔を見合わせていた。


 見慣れぬ道を、一人とぼとぼと歩く。頬をなでる風は切るように寒くて、マフラーをしていてもコートを着ていても、それでも無情に寒くて仕方ない。曇った空にため息を吐いて、その場にぴたりと立ち止まり、南夕は小さく呟いた。
「私ってやっぱり、ばかなのね」
 自分で言って空しくなって、また振り切るように闇雲に進み始める。落ち葉をくしゃりくしゃりと踏みしめ、今しがたの出来事を頭に思い浮かべた。


 南夕は出会ってからすぐにあの人が好きになっていた。南夕の通う大学の准教授で、それにしては結構若く人当たりもよかったので構内でも人気のある先生だった。あの人のいる授業を専攻してちょっとしたことで話すようになって、あの笑顔を見ているうちになんだか会うのが嬉しくなって。夢中なるのは簡単なことだった。
 誰にでも優しくてよく笑うのは少し切なくもあったけれど、それでも彼に対して恋をしている日々は楽しかった。毎日が楽しくて嬉しくて、また彼に会える明日が来るのが待ち遠しかった。
 でも、彼はもう居ない。南夕はあの大学にまだ在籍しているのにあの人は居ない。それはなぜか。突然やめてしまったからだ。
 最初はそれを知って凄く哀しくなったけれど、それでもその事実によって逆に決心がついた。あの人に思いを打ち明けようと、決心する事ができた。それで居場所を知っている人に聞いて訪ねてみれば、あれだ。
 まさかのまさか、新婚さん。2年半付き合っていて、ついに子供ができてそれを機に実家の家業を継ぐ事を決心し、慌てて引っ越したそうだ。本当にいきなりで、本当に衝撃だった。
 自分が一大決心をし慣れない土地でどきどきしながら訪ねたのに、あれだ。これでは告白なんて到底できるはずがない。ましてや隣に奥さんがいるのに、それを見ていることなど不可能に近かった。
 そうして南夕は見事に出鼻と決心を諸々に崩されて、逃げるようにあの場から出て行ったのだった。哀しいというよりも自分のあの楽しかった恋がこうもあっけなく崩れ去ってしまった事に、南夕は落胆していた。


 明日からまた普通の日々に戻るのかと、ぼんやり思いながら歩いていくと、無機質なメロディが鞄の中から鳴り響いた。
「はい、真島です」
『あ、真島さん』
 電話の主は、2年先輩の中岡亜愁だった。一緒のゼミに入っていて、たまに会話をする程度の仲だ。少し変わったところがありそれでも人には好かれるらしく中岡の周りには人が絶えなくて、南夕はいつも疑問に思っていた。
なぜあんなマイペースな人が人気があるのかと。中岡を見て同じ人気でも先生のほうがいいと、恋心に酔いしれた事もある。
 そういうわけで別に率先して付き合うこともなかったから電話なんてあまりしないのに、珍しいなと南夕は思った。
「はい。中岡さん、何か用ですか?」
『あー、うん。真島さん、俺のレポート一緒に持ってない?』
「あ、あー……。もってるかもです……」
 心当たりがあった。持ち物に入れ違いがあったらしく、南夕もそれに後で気づいて、いつ渡そうかと思っていた。しかしそれは今南夕の手元にはない。
『あー、やっぱり。珍しいねそんな間違いするなんて』
「……ん、ちょっと他が忙しくて」
『ふーん……何かあったの?』
「いえ別に、大したことは……。明日渡して間に合いますか?」
『……うん、まあ提出日はまだ先だから。でもちょっと早めに微調整入れとこうと思って。今どこ?』
 中岡の質問に南夕は歩みをぴたりと止めた。きょろきょろと辺りを見回すと、そこは全く見慣れぬ道だった。
「……わかりません」
『は?』
中岡の怪訝そうな声を聞いて、それはそうか、と南夕も納得する。どうしてこんなこと正直に言っているのだろう。自分でもわからない。
「ここがどこかわからないんです」
『……なに? 迷子なの?』
「そうみたいですね」
『……そうみたいって……大丈夫?』
 何が。その質問に、何故だかしらけた。
 どうしてここまで聞いてくるのだろう。南夕は段々と苛々としてきていた。こんな面倒な有様を伝えたのは自分だが、そんなこと彼には関係ない。いつになく食いついてくる様子が、理解できなかった。もう、電話を切ろう。切りたい。
「……なんとかなりますけど、そういうわけで今日は渡せないみたいです。スミマセン」
『いやそんな事はいいよ。周りに何か目印になるものないの?』
「……? コンビニと、お豆腐やさんと、工場みたいなのが見えますけど」
『それだけじゃよくわかんないな……地名は?』
「高納谷」
『……結構遠いな』
 要領を得ない。思案めいた中岡の声に、南夕はやや声をきつくして答えた。まったく余裕がない。余裕がないから、早く電話を切りたいのに。
「なんですか?」
『迎えに行ってあげるから、もうちょっと詳しく教えて』
 何を言っているんだろう。南夕は耳を疑った。今までの南夕の印象からすると、中岡はただの後輩にそこまでする男じゃない。されたこともない。埒が明かないと、南夕は自分から見切りをつけることにした。
「……いいです。バス停か駅見つけて自分で帰りますから。レポートすみませんでした。じゃあ、さようなら」
 一方的に言うと南夕はぷちりと携帯を切って、バッグに放り込んでしまった。ああ、せいせいした。そんな気分で空を仰いで、一人苦笑を漏らす。
 完全に八つ当たりだ。仮にも先輩にあんな態度取るなんて。後で謝らなきゃ。そう思いつつも、謝辞を考えるのも億劫になり、南夕はまた当てもなくとぼとぼと歩き始めた。特にバス停を探そうという気もなくなんとなしに、延々と続く道を進んでいった。


 ぽつりと、南夕の頬に雨が当たる。まだ秋なので雪は降らないが、代わりに冷たい冷たい雨が降り注ぐ。南夕は傘を持っていなかったので雨にもかまわずとぼとぼと歩き続ける。そのうちに雨は強くなっていき、南夕の服も雨で湿って肌に直接寒さが伝わってきた。
 惨めだった。寒いし、足は痛いし、ここはどこだかわからないし。それに……あの笑顔を自分がもらえなかった事も。
「バカよね」
 ぽつりと呟く自分の弱弱しい声に、ますます惨めになる。
 今まで自分が好きだったあの人の笑顔は変わらず貰う事ができた。けれど、あの愛しさがあふれ出すような特別な笑顔だけは、貰う事ができなかった。皮肉にも彼がそれを奥さんに向けてはじめて、南夕はあの人の本当の笑顔を知ることができた。
 バカみたいもいいとこだ。自分が夢中になっていたのは万人共通フリーの笑顔。さっき見たのは隣のあの人専用の笑顔。一人で舞い上がっていきなり人の家に上がりこんで勝手にショック受けて、勝手に出て行って迷子になって。滑稽にも程がある。おまけに中岡からの電話をあの人からと思って期待して。……あの人に、携帯番号教えた覚えなんてなかったのに。
「私のことなんて見てくれるわけがなかったのにね」
 ふっと笑ってまた惨めになる。もう自分が何をしても、惨めな気がした。
 急に哀しくなって、その場にしゃがみこんで俯いた。ぽたりと雨に混じって、コンクリートに点ができる。顔をゆがませて嗚咽交じりに泣いて、自分の惨めさを呪った。
「……も、もうやだ……。なんで、結婚するの? 私、好きだったのにどうして言えないの? 言っちゃだめなの? ずるいよ自分ばっかり幸せで。私、も、幸せになりたいよ。………私を、好きになってよ……っ」
「なるから立って」
 ふっと頭上から声がして、なにやら急に雨がやんだ。顔を上げるとそこに立っていたのは、傘を南夕に差し掛ける中岡だった。
 中岡は妙に憮然とした表情で、ずぶぬれの南夕の腕を半ば強引に引っ張りあげて立たせる。南夕が目を白黒させている間に、いつのまにか傍に止めてあった車のドアを開けて、有無を言わさず南夕を中に押し込めた。そのまま中岡も乗ると南夕にぽんとタオルを渡して、車を発進させる。
「なんで勝手に携帯切った? 話、途中だっただろ」
 前を見つめたまま中岡は静かな口調で南夕に問いかける。怒っているわけでもなさそうだが、何故だか反発心が沸いてきた南夕は、タオルを握り締めても拭こうとせず、俯いた。
「迎えに来てなんて言ってません」
「探してやったのに文句言うな。あんな様子で行かないほうが人非人だろ。拭かないと降ろすぞ」
「べ、別にいいです」
 南夕はふてくされたように言い返し、中岡は急に車を道の端に寄せて停車させる。本当に降ろされるんだろうか。自分で言っておいてびくついた南夕を見下ろした中岡は、おもむろに南夕の手からタオルを掠め取った。そのタオルで南夕の塗れそぼる髪を丁寧に拭くと、甲斐甲斐しくも乱れた髪を整えてくれた。
「ん、よし。服も濡れてるけど一応拭いて。後ろにまだタオル置いてあるから」
 まるで子供をあやすように頭を撫でながら中岡は微笑んで、それを見た南夕はかっとなって一気にまくし立てた。
「迎えに……来てなんていってないです! なんで中岡さんがくるんですか? レポートなら明日返すって言ったじゃないですか!……なんで、なんで中岡さんが笑うんですか! 私は……っ」
 ああ、もう。何を言っているんだろう。彼はあの人じゃない。こんな事言ったってしょうがないのに。この人は、ただ、迎えに来てくれただけなのに。
「……私は、なに?」
 中岡は、取り乱した南夕に驚く様子もなく、冷静な顔で問い返してきた。南夕はタオルに顔を伏せてか細い声でまた呟いた。
「……ご、めんなさい……違うんです。私、」
 何が、違うの。頭の中のもう一人の自分が言う。
「うん。わかったから」
 何が、わかったの。もう一人の自分が問い返す。
 でも、南夕の唇は、勝手に話し続ける。
「だって、先生が笑ってくれないから……」
「うん」
「そ、れに、結婚もしててっ」
「うん」
「せっかく、会いに、行ったの、に……言えなくて……っ」
「うん」
 ――私、なに、言ってるんだろう。
 頭の隅では、自分の不可解な行動をまったく理解しきれていない。なのに、止まらなかった。どうしてだろう。どうしてか、彼が、聞いてくれるから。だから。
「あ、赤ちゃんまでできてて……いえ、赤ちゃんはいいんです。元気で、可愛い子が生まれてくれれば、いいなって……」
「……うん」
 南夕の発言に少し含み笑いをして、中岡は相槌を続ける。南夕はいつの間にか泣いていて、タオルでぐしぐしととめどない涙を拭き続けている。
「だって私今まであんな先生知らなくて……」
「うん」
「どっ、どうして急に居なくなっちゃったのかなって思ってたらっ」
「うん」
「あの人がいたでしょ?」
「うん」
 玄関で迎えられたときに見た、あの笑顔。どうしてあんな顔ができるの。悲しいことに、南夕には理解できなかった。あんな素敵な笑顔、知りもしなかったから。気づきも、しなかったから。
「だから、学校辞めてでも、あの人といたかったのかな、って思って……」
「……うん」
「私とは離れたのに、しっ、幸せそうだからすっごくすっごく哀しくてぇ……っ。どうして、かなって」
 どうして?あんな顔、一度も見せてくれなかった。私に見せて欲しかった。
「……どうして。私のこと、好きになって欲しかった。にっ、2番目でいい……から好きに……。私、にも、あんなふうに笑ってよ、って……」
 どうしてだろう。どうしてあの人は。でも一番解らないのは自分。どうしてあの笑顔一つで、諦めがついちゃったんだろう。あんなに、好きだったのに。まだこんなに、好きなのに。会いたいのに。
「…………せんせえ〜〜……っ」
 もう、中岡の存在など気にも留めずボロボロと泣いていた。頭の中は説明しきれない思いでいっぱいで、それがおさまり切らずに涙に代わり、止まらなかった。悲しい。悲しかった。この涙は自分の恋の終わりを告げているのだと、南夕は知っていた。

 そうして、そのまま傍らに中岡がいながらも南夕は泣きつくし、とうとう泣きつかれて、いつのまにか眠ってしまった。
 中岡は、涙でしっとりと湿った南夕の頬を指の背で撫でながら、目を細めてその寝顔を見つめる。
「……あの人の噂、知ってたくせに。その上で玉砕覚悟で行って結局言えなくて迷子になって。バカだね君は」
 その言葉とは裏腹に、目に揺らぐ感情を滲ませて、眠る彼女にそっとキスを落とした。そのまま南夕の背もたれを少し降ろして寝かせると、また車を発車させる。
「俺も、バカだけどね。……君のそんな投げやりなところが、気に入ってるんだから」
 穏やかな寝息を繰り返す南夕の横で、誰に聞かせるわけでもなく呟いた中岡の言葉は、打ち付ける雨しか知らない。

fin. 2010/4/10微修正。

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