こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

独りぼっちの恋人

 夜の調べが胸を伝い、日々の躍動も攫われて、後には何も残らない。空になった心の中で、寂しさだけが波紋を告げる。
 初春の匂いを風に感じて、彼女はゆっくりと眼を閉じた。手すりを握り締めていても心許無いこの気持ちは、どこから来るのだろう。眼下の夜景はそれでも独りでに煌いていて、心だけがますます一人孤立する。
 睫の先がふるりと震え、外気に冷やされた身体で踵を返した。部屋に戻るなりベランダの窓に鍵をかけカーテンを閉めると、彼女はかけてあった上着を取りそのまま部屋を出た。もういい時間だというのに、上着を羽織ると同時に鍵を握り締め、チェーンを外し外に駆け出る。行く先は決まっている。
 走るほどの距離では無いのは十分承知の上で、それでも小走りに向った。もう一分一秒も我慢できなかった。縋りつくようにその扉の前に辿り着くと、それまでの焦りとは裏腹に至極ゆっくりと、小さなインターホンを押す。少しの間の間に、呼吸を整える。
 ――扉がゆっくりと、開いた。
「……どうした」
 ふわっと香るシャンプーの柔らかい香り。毛先はしっとりと濡れそぼり、その下では眼鏡をかけていない無防備な中岡の顔があった。自分を見下ろすその人の、不思議そうな眼差しに、心が溶ける。冷えた身体にほんの少しだけ、温度が戻ってきたような気がした。
「一緒に、寝てください。……お願い……」
 どうしても、どうしても、今夜だけはお願い。
 縋る眼差しを向けたのと、迎え入れられたのは同時のこと。断られずに良かったと、ひとまず胸を撫で下ろした。


「どうした」
 中岡はつい先刻と同じ言葉をかけながら、南夕の目前にカップを差し出す。ココアの甘い香りが鼻腔をくすぐり、南夕は誘われるようにそれを両手で包み込んだ。すぐに飲むわけでもなく顔を近づけじっと香りを楽しんでいると、中岡が向かい側のソファへと腰を下ろす。
「何かあったのか?」
 かけられた質問に、南夕は珍しくも沈黙を返す。それでもカップを抱えたまま立ち上がり、中岡の傍らにわざわざ座りなおす。そのままこてんと、肩に寄りかかった。暫くじっと、肩のぬくもりと、手の内にある温度だけを感じながら目を閉じていた。中岡は何も言わず、けれどそこから立ち上がることもせずただ南夕の頭をさらさらと撫で続けてくれた。
 じんわりと、暖かいものが染みてくる。身体の力はいつの間にか抜けていて、南夕は湯気の立ち上がるココアを一口飲み込んだ。
「……あのね」
「うん」
 これが、生返事でも構わない。それでも落ち着く声だと思った。この人はとても、落ち着く人。南夕は独白めいた呟きを、ぽつりぽつりと洩らし始めた。
「中岡さんは……一人で居ることを楽しめる人よね」
「そう、かな」
「私……も、嫌いじゃないんだけど。でも、でもね。たまに、こんな気分になる時があるの」
 日中どんなに騒いで楽しんで笑ってたとしても、沢山の人と触れ合っていたりしていても、時々ふっと襲い掛かる。一人きりになった、無防備なときを狙って。
「一人で居るときに急にね、寂しくなるの。急にどうしようもない気分になって、やるせなくなるの。……いつもじゃないのよ? ほんとに、時々……」
 そんな時は何をしても癒されない。お風呂に入ってみたりしても、雑誌を読んでみたりしても、何か気を逸らすようなことをしてもまるで無駄になる。突然心にぽっかり穴が開いたように、隙間風がひゅうひゅうと流れ込んで心を冷やす。
 ここにあって、ここにないような、心許無いこの気持ち。逃れたいのに癒す術が見当たらない。どうしてだろう。どこから来るのだろう。こんな気持ち。一人でいる限り、ずっと癒されない。
「今日もね、そんな気持ちになっちゃって。どうしても我慢できなくて、中岡さんのところに来たの。……中岡さん、怒る?」
「どうして」
「だって、なんだか自分勝手な気がして。中岡さんが一人で居たいなら私……」
 出て行くから。
 そう言おうとしたとき、ふっと中岡が笑い出す。不思議そうに見上げる南夕を見下ろして、苦笑を浮かべていた。
「とんだ誤解だな。俺だっていつも一人が好きなわけじゃない」
「でも……」
「いいよ、一緒に寝よう。保障はしないけどね」
 なんの? と見上げても、中岡はぼかすように微笑を浮かべるだけだった。


 カーテンから薄く漏れる淡い蒼の光が部屋の片隅に窓枠を映し出す。そのすぐ脇に、南夕の部屋にあるベッドよりも大きくてシンプルな装飾のベッドが佇んでいる。それらを部屋の入り口からじっと見つめて立ち呆けする南夕。中岡は既にベッドの上に横たわり、枕もとの照明で悠々と小説を読んでいた。
 暫く南夕から一方的な無言の問答が続いた後、一区切りしたのか中岡が本を閉じ南夕へと呆れの眼差しを向けてきた。
「南夕さん、躊躇うのもいい加減にして早く来なさい。これじゃいつまで経っても寝れないだろう」
「だ、だって……」
「来いって。取って食うわけじゃないんだから」
 それも、その通り。そう言われると、これ以上躊躇していても取って食われることを希望している態度と取られかねない気もする。観念して、もとい可笑しな決意を抱きつつ、南夕は中岡の傍らにもぐりこんだ。
 けれど先ほどまでの寂しさなんてどこへやら、代わりに眠気も醒めるほどの動悸が胸を打つ。これじゃあ違う意味で眠れない。ぎゅっと力強く目を閉じた瞬間、するりと、腰と背中に手がまわる。あまりにも自然な動作に驚くことすら数瞬遅れてしまった。
「なっ、なっ、なっ、なかっ、お、かさ……」
「もっとこっちに寄れ。そんなに端に居ると落ちるぞ」
 問答無用で引き寄せられて、ほぼ密着状態になる。
 嫌な、わけじゃない。むしろ嬉しい。けれどこれじゃあ、寝ようにも眠れない。触れられていることに意識が集中してしまう自分が腹立たしかった。
「……なか、おかさん……」
「ん。狭い?」
「い、いえ……」
 抱き締められるのなんて初めてのことではないのに、どうしてこんなに慣れないのだろう。動悸よ静まれ、と祈るほかない。
 でも、すっかり消えてしまったようだ。あのどうしようもない、やるせない気持ち。いつのまにか消し飛んでしまった。この人のお陰で。くすっと笑うと、中岡の身体が少しだけ離れた。
「中岡さん?」
「……誰にだってある感情だと、俺は思うよ」
 月光が逆行になって、自分を見下ろすその表情は読めない。けれどきっと、穏やかで優しい顔をしているに違いない。降りかかる声はこんなにも穏やかで優しくて、落ち着いているのだから。
「そういった孤独感っていうのは、産まれた瞬間からセットになってついてくるんじゃないかな。個人になったということは、一人であるということなのだろうし。それでも、だからこそ、なんじゃないのかな」
「だから?」
「だからこそ他人を認めるんだろう。自分を知った瞬間から、他人を知る。他人を知るから、独りだと知る」
 自分が、自分だから。それ以外の存在を知って、自分が自分であることを知って、独りの自分であることを知る。誰にでもある感情。誰にでもあるけれど、決して共有できない感情。自分が自分である限り。
「南夕が南夕であるからこそ、他の何かが恋しくなる。それだけはきっと、何にも代えられない」
 優しく髪を撫でる手のひら。これを感じられるのも、南夕が南夕であって、中岡が中岡だから。そうでなければこうして一緒に寝ることも、抱き締めてもらうことも、話しかけてもらうこともできない。笑いかけてもらうことも出来ない。
 この寂しさは、独りであって、独りではない証なのかもしれない。愛しい寂しさなのかもしれない。
「……うん」
 僅かな切なさを胸に抱いて、けれどそれはもう嫌ではなくて、抱えたままに目を閉じる。その胸に縋りより、身体を預けた。
「中岡さん……」
「うん」
「その他人の中で一番ね、誰よりも近付きたい人が居るの。だから私、その気持ちを抱えてここにいるの」
「うん」
 さっきよりも強く、抱き締めてくれる。これだけで、十分。隙間風なんてものともしない。全部覆い尽くしてくれる人がここに居るから。
 だから、もう――。
「あとね……」
 あと、ココアをありがとう。
 南夕は夜にコーヒーを飲むと眠れない性質だと知っていたから、自分は飲みもしないココアを買い置きして、出してくれた。受け入れてくれているささやかな証のようで、とても嬉しかった。
 ああ、言いたい事が沢山あるのに、瞼が重い。程よく馴染んだ温もりの中で、意識がとろんと溶けてゆく。嬉しかった。嬉しすぎて、そして眠りに落ちた。誰よりも近しい人の腕の中で。


「……保障しないと言ったのに」
 眠る小部屋に虚しい独り言。傍らですやすやと眠る彼女には聞こえない。
 ただただ穏やかに、夜は深深と更けていった。

fin. 2010/4/10微修正。

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