こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

涙降る降る

 雨の日しとしと。まさに憂鬱という言葉がぴったりだなと、南夕は浮かない顔をしてリビングの窓から空を覗く。見上げる空は心に重い。灰色の雲がのっぺりと覆い尽くし、こちらの気分まで灰色に染まってしまいそうだ。おまけに曇天を見ているとなぜだか胸が詰まる気がして来る。やっぱり、こんな日は家でおとなしくしているに限ると思う。
 振り向けばいつものようにカウチソファーにもたれて何かを眺める中岡がいる。何を読んでいるか知れないが、中岡は静かな時間を過ごすのが本当に得意だ。きっと彼がその気になれば何十分何時間も黙々と趣味に徹することができると南夕は信じている。また冗談ではなく、それは南夕を放っている時間と比例するであろうことも。
 でも今日は違うはず。そう願いつつ、南夕は試すような気持ちで中岡に呼び掛けてみた。
「中岡さん中岡さん」
「ん」
 ああ、やっぱりそんなわけなかった。期待してはいなかったけどそれなりに虚しい。いくら南夕が特別だと思っていても無論中岡が同じく特別な可能性なんて低い上、彼が南夕の特別に合わせてくれることすら皆無だ。
 南夕は中岡に無駄な期待をしたくはないと思いつつも、どうにも引き下がれずこちらに関心がない中岡の背中に近付き、肩を揺さぶる。
「聞いて、聞いて下さい」
 お願いだから、今日はこっちを向いて。そう思ったけれど。
「うん」
 ああ、もう。なんだか嘘つきと罵ってやりたいけれど、南夕がしたいのは喧嘩じゃない。ただ聞いて欲しいだけ。ただ今日の自分の話を一時だけでも、聞いて欲しいだけ。なのに。
「……聞いてないでしょ」
 全然聞いている素振りも態度も見せようとしない中岡を揺らすようにわざと隣りにぼすりと腰掛け、拗ねたように南夕が言う。しかしその甲斐あったのか、中岡の目が一瞬離れて南夕の方に向いた。
「ん?……ああ、いや」
 なんて気のない返事。聞いてないなら返事なんていらない。拗ねた顔のまま中岡の肩にこてりと頭を預け、南夕は悲しそうに目を細めて口を開いた。
「…………今日、有馬が怪我したの」
「ああ」
 有馬というのは、実家で飼っていたラブラドールの老犬だ。南夕が高校生の時に飼ったから、数えてみるとそれなりに生きてはいる。遊びに行くたびにきらきらした無垢なまなざしで出迎えてくれて、でもさすがに年を追うごとに子犬の時のような俊敏さは失われていった。
 だから交通事故と聞いた時は、本当に心臓が凍る思いだった。一命は取り留めたけれど、弱った有馬の体には多少の後遺症が残るらしい。命はあれど有馬の老体には辛い事実だ。包帯に包まれ丸く縮まった有馬の姿を思い出して南夕は沈鬱とした表情を浮かべ、どこか縋るような目で中岡を見上げた。有馬の事は度々話してあるから知らないことはないだろうが、しかし彼には全く関係のないことだ。そんなことはもう当たり前のことで知っているけれど。でも中岡の無感情な面差しを見たら何故か胸が痛くなった。
 曇りの空が、胸に染みこんでくる。
「……それから関川さんにまた睨まれた」
「うん」
 関川さん。彼女については実は南夕と色々因縁があったりなかったりするが、彼女はあの『先生』に気があると一時期噂になったことがある。それだけでも確かに何かありそうだと頷けるが。しかしだからといって彼女に目の敵にされる言われはない。睨むなんて四六時中、あるいは小言を呟いたり妙に態度が冷たかったり。
 知らない方が幸せだという現実もあることを知らない南夕は大いに悩み、終いには彼女の事が苦手になり中岡に愚痴るのは彼女の事ばかりになっていた。まあ、大抵今のように聞いて貰えもしないのが現実だが。
 そう、彼はいつもの通り聞いていない。いつもの事だけど、いつもより心は沈む。中岡の手の内にある雑誌のページがめくられる様を無感情に見つめて、南夕は水溜りのように沈鬱な気持ちが溜まっていくのを感じる。
「帰りの電車で隣りに座って来たおじさんがいやらしい雑誌見ててすごく嫌な感じでした……」
「……うん」
 他にも席はあるのにわざわざ隣に座る意味がわからない。しかも太ってて息が荒くてそれを見ながらひとり笑いして。正直席を立って逃げ出したかったけれど自分の偏見かなとか差別になってしまうのかもしれないとか相手に失礼かもしれないとか考えて、どうする事もできなかった。
 特に何をされたわけでもない。でもなんだかぞわぞわと気持ちが悪くて、ずっと中岡のことを考えていた。
 どうせ中岡には伝わらないし解らないし解ろうとも思わないのだろうけれど。知っている、そんな事。知っているのにどうしてこんな気持ちになっていくのだろう。しとしとと降る雨は止まない。
「それで今日は特別嫌なことがいっぱいだったの」
「ふうん」
 中岡は、今聞いているのだろうか。聞いているか聞いていないか、南夕には解らない。でも同じように中岡にもきっとわからない。南夕が今どんな気持ちなのか。そう思うと、南夕は悲痛な表情を浮かべて中岡からすっと離れる。中岡のほうには顔を向けずただじっと雨に打たれる窓を見つめて呟く。
「だからなんだか中岡さんに逢いたくなって早く帰って待ってた」
「うん」
 待ってた、のに。自分は中岡のことを考えて、待ってたのに。とても嫌な日だったから、逢いたかったのに。なのに中岡はこっちを向かない。いつも通りの当たり前が、南夕に強烈な力で痛みを覚えさせる。
 どうしていつも平気だったのだろう。こんなに哀しい事ってあんまりないかもしれないのに。どんどん、心は沈んでいった。
「でもこっちを見ない。中岡さんはいつもどおりね」
「ん」
「中岡さんはいつもどおりでも私はいつもより嫌なことが多かったの」
「ん…………」
 どうしてこんなに哀しいのかわからない。こんなの、駄々をこねる子供と同じだけど。でも思ってしまう。

『どうして私がこんなに悲しいのに、こっちを向いてくれないの?』

「私、今日いつもより余計に寂しいんです」
「…………」
 答えて。こっちを向いて。でも、返事は無い。窓に映る中岡の目は、南夕に向いてなどいない。
 もう、嫌だ。なんだかもう本当に全部が全部、嫌だった。話を聞かない中岡も、期待し続ける自分も。どうして自分はこんなに子供なのだろうと思う。話を聞いてくれないから拗ねるなんて、本当に幼稚だ。大体期待したってしょうがないのに、無理矢理期待を寄せたりして、また気付けばいつのまにか、南夕は中岡に沢山のことを求めている。
 そんなの嫌なのに。そんな事したらきっとすぐに、この人は自分を嫌ってしまう。面倒だと疎むに違いない。どうしてだろう、こんなに心は澱んで悲しくて仕方ない。泣きそうになる涙腺をなんとか引き締めて、南夕はすっと立ち上がった。
「…………も……帰る」
 このままだと泣いてしまいそうだ。寂しくて悲しくて泣いてしまいそうだ。こんなときは家に帰って一人で泣いて沢山寝て忘れるに限る。そう思って、傍らにある鞄を手に取ろうとした時だった。
「ちょっと待った」
 腕を掴まれる。びっくりしたけれど、南夕は中岡のほうに顔を向けない。顔を見たら泣いて我侭をいいそうだ。じっと窓を睨みつけて、歯を食いしばって堪えた。
「なに」
 少し冷たい言い方だったかもしれない。やつあたりをするな、と自分に言い聞かせるけれど制御がきかなくなってくる。
 早く離して欲しい。でも、中岡の手は南夕の手を離さない。今更引き止めたってもう遅いと罵りたくなり、そんな子供じみた意地を張ろうとする自分が恥ずかしくなってくる。でも今は駄目だ。感情の制御がきかない。傍にいたくない。じっと見られていることが辛くって、南夕は顔を背け続ける。
「なんで行くの」
「……帰りたいんです。離して」
 中岡に嫌な言い方をしたくない。解らない女だと呆れられたくないし、子供に見られたくない。でもうまく甘えられないし、喧嘩できるほどの度胸なんて無い。
「南夕さん」
 怒られるのだろうか。それとも手を離されるのだろうか。どちらも怖い。どうしようもなくて手を振りほどこうとした途端いきなり腰を引かれ、腕を回される。立ち尽くす南夕を足の間に挟んで、中岡の手は南夕の腰を抱きすくめる。縛り付けるように、ぎゅ、と抱き締められる。
「側に居てくれないと、結構寂しいよ」
 それは妙に甘えるような、言い方。結構なんてそんな言い方は失礼だ。南夕の方は寂しくて寂しくて仕方ないというのに!
 腹立たしくて許せなくてでも突き放せない。ぽろっと、我慢していた涙が零れてしまった。
「中岡さんのばかっ!」
 嫌いになりたい。でもなれない。そんな自分が悔しくて、そうさせる中岡が憎らしい。
 顔を抑えて泣きじゃくる南夕をなし崩しに自身の膝の上に据わらせて、中岡は南夕を腕の中に閉じ込めた。宥めるように髪を梳くその動作が切ない。どうせ自分が機嫌を損ねたことに気付いて引き止めているだけの癖に。そう思うけど、怒れない。ずるい。この人は、ずるい。
「今日はとことん運が悪いみたいだね」
「…………中岡さんが悪い」
「そうだね」
 涙でぼろぼろの目で見上げると、悪びれもなく笑う中岡と目が合う。何でそんなに楽しそうなんだろう。そんなの俺のせいじゃないとか、違うだろとか言えばいいのにこんな時だけ大人しく肯定して。起こる気力も失せてしまうではないか。
「ずるい!」
「うん、ごめん」
「嘘吐き! 意地悪! ほんとはなんとも思ってないくせに!」
 ああ、本当に子供だ。こうなりたくなかったから帰ろうとしたのに。悔しくて最後の抵抗のように手を突っぱねて離れようとすると、その両手を取られた。
 しとしとと降る雨の音が部屋に静かな波紋を広げる中で楽しそうに眼を細め、中岡は南夕の顔を覗きこみいつもはしない嬉しそうな笑みを浮かべる。どぎまぎする彼女を楽しむように、中岡は雨音と相成るが如く密やかに囁きかけた。
「南夕さんも、悪いんだよ」
「なんで……っ」
 むっときて言い返す南夕の頬が、指の背で撫でられる。髪に絡みつく指の感触がくすぐったくて眼を閉じた刹那に、翳めるように口付けられた。そのままかぶさるようにして深まる。
 はぐらかされるのかもしれない、と思うと思考を奪うためかもっと深く深く求められてしまう。とうとう、雨音が動悸とシンクロする頃にはいつのまにか南夕の背がソファに沈み込んでいた。
「中岡さ……」
「南夕のそういう顔、時々すごく見たくなるからさ」
 どんな顔をしているのだろう。変な顔なのだろうかと焦りを覚えると、眦に残る涙を指で拭われる。再び重なる口付けの前に、雨音よりも低音の声が耳をくすぐった。
「泣き顔がたまらないんだよ」
 雨はしとしと心を濡らす。降り注ぐ彼女の想いを、彼はくすぐるように玩ぶ。

fin. 2010/4/10微修正。

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