こっち向いて? 〜中岡さんシリーズ〜

甘いもの

 たった一つ、思うだけ。甘く降り注ぐそれを、ありがとうと、受け止めた。

「でね、この間来週は買い物に行きましょうって言って、うんって言ってくれたから嬉しかったのにッ!」
 かちゃりと音を立ててティーカップを置いて、南夕は拗ねた表情で口を尖らせた。俯いてそこにできたあかがね色の波紋をただただ見つめている為、目の前にいる彼の険しい表情など目には入っていない。
 知らず知らずのうちに不用意な発言をしてしまう彼女をまた可愛いと思ってしまう自分に呆れつつ、青年はため息と共にぼそりと洩らした。
「……それをすっぽかされたから、今俺と暇つぶししてるって訳ですか」
「……ごめん、なさい」
 呆れたような彼の声音にようやく南夕は気がついて、ちらりと上目遣いにその思わしくない機嫌を確認してから、小さく首をすくめた。少し決まりが悪くなって外を望めば忙しなく車と人が行き交いし、ビルに張り付くスクリーンに見えるCMは目まぐるしく移り変わるのが見える。きっと外はとても寒いのだろう、中の暖かさは妙に現実味がなく、むしろ外の温度のほうがよほどよく感じる気がする。
 そうしてじっと灰色の空を眺めているとまた手前でかちゃりと陶器の小さな音がして南夕を現実に戻し、そこに目を向ければ褪めた表情の氷波が南夕を見据えていた。それを見て南夕は、また一瞬にして自分の状況を思い出す。
 そうだ、そう。今南夕はカフェで氷波と話している。なぜかって、中岡が約束をすっぽかした為、半ば泣きつく形でここで待ち合わせをして氷波に会ってもらったから。切ないやら悲しいやら悔しいやらの思いが、みるみると一緒くたになって南夕の中でごちゃ混ぜになってゆき、南夕はぐにゃりと表情をゆがませた。
「なによぅひーちゃん……そんな目で私を見て。ど、どうせ約束をすっぽかされた暇人ですよっ」
「……そんな事言ってないだろ?」
 困ったように眉根を寄せる氷波の表情を見て、南夕はますます気分が落ち込んでいった。確かに急に呼び出してしまったし、呼び出したら呼び出したで愚痴をこぼす一方。これでは呆れられても無理はないと、自己嫌悪にまで陥ってしまった。
 そしてそんな南夕の様子を見ながら氷波はというとぶすっと不機嫌を隠さずにコーヒーをすする。もちろん南夕に対して不満があるのではない。全ては中岡に対する怒りゆえだ。
 聞くところによると南夕との約束を蹴ってまでスケジュールに仕事を入れて駄目になったらしい。別に南夕と仕事どっちが大事だの馬鹿馬鹿しい論議に走るつもりもないが、いかんせんフォローがなっていない。それで平気な顔をして南夕の彼氏を名乗っているのだから目も当てられない。
 全くもってあの馬鹿男はとどこぞにいる彼の御仁に罵倒してやりたくなった。まぁそれで氷波に白羽の矢が立ちこうしてデートにありついているわけなので、怒りの反面馬鹿も役に立つなどと内心ほくそ笑んでもいたわけだけれども。この際なのでできうる限り揺るがしておこうと、落ち込む南夕に対して肘を突き、先ほどとは打って変わってにこやかに微笑みかけた。
「ほら、南夕。ケーキ、食べないの?」
「え?……あ、うん……食べる」
 言われて南夕は目の前に置かれたケーキに目を移す。未だ手をつけてられていないそのスイーツは、まるで色とりどりの宝石のように鮮やかなフルーツが所狭しと敷き詰められ、それ自体が作品のようだ。それに金色の装飾のついたフォークをぷすりと突き刺し、切り取る。
 口に入れたら甘いだろう、そんな当たり前の想像を頭によぎらせて口に放りこむと不思議なことに、甘いには甘いが味気なかった。味を探ろうともぐもぐと口を動かしていると、氷波がそれをじっと見つめる。飲み込んでから南夕はくいっと首をかしげた。
「ひーちゃんは、食べないの?」
「ん? 南夕が食べてるの見てお腹いっぱいだよ」
「なーにそれ」
 そういってまた可笑しそうにほころぶ南夕を前にして、氷波は砂糖無しのコーヒーに口をつける。南夕は知らない。氷波が南夕の作ったお菓子以外食べないことを。というか、食べられないという事実を。
 彼の惜しみない努力を知るのは彼と彼の家族のみに秘められた秘密だ。漂ってくる甘い匂いをコーヒーでかき消して、氷波はつと口を開いた。
「南夕さ……疲れない? あの人といて」
「え? どういう意味?」
「だってさ、振り回されっぱなしだろ。普通はもっと恋人には優しくしたり甘かったり、少しは尽くす精神ってのが見えるもんじゃないの?」
 射抜くような視線に、言葉に、ケーキに向った南夕のフォークが止まる。欠けたケーキは形を損なっても、美しい。
「普通……そうなのかな」
 だんだんと、南夕の目からは色が消える。何故か目の前に置いたケーキも色あせてしまったように見えて、手をつける気が失せてしまった。
 そうして氷波はというと外に吹く風を追うように視線を流して、じっと曇天を見つめた。
「普通はそうだよ。約束したらこうやってデートしたり買い物に付き合ったり、一緒に行動してくれるものだよ」
 そこはかとなく目の前の自分を模範とばかりな言い方で押さえておいて、普通はと、釘を刺す。もっと目の前にその普通の幸せをあげられる男がいるのだと、気付かせたくて。
 落ち込む南夕に心は痛むが、元はといえばあの男が悪い。氷波の意地の悪い言い方を差し置いてもあの男が悪い、と、思うことにした。
「南夕、最近あの人に合わせすぎに見える。何もそんなに無理しなくてもいいんじゃないかな」
「……そ、うなのかな……」
 みるみる落ち込んでゆく南夕。氷波の言葉が次々と頭の中を駆け巡り、店の中のざわめきすら耳に入らなくなっていた。
 無理。無理を、しているのだろうか。心がざわざわと揺るがされていき、南夕は無意識に胸に手を当ててきゅっと握る。
「普通じゃないと、変……かな。無理してるって、駄目かな」
「変といえば変だし、駄目といえば駄目だろうね。だってどっちもおかしい。恋人同士なのに」
 おかしい。淡々と告げる氷波の言葉の中で南夕の心に引っかかったもの。胸を押さえた手をゆっくりと外して、南夕はぼんやりと氷波を見つめた。
「そう、おかしいのよね」
「……うん、俺はそうだと思うけど」
「そうね、そう。おかしいのに……ふふ、おかしいのに」
 氷波の表情が困惑に染まる。何故だろうか、急に、落ち込んでいた南夕は光を取り戻したように綻んでしまった。とても嬉しそうに、微笑んでいた。そうして南夕は怪訝な表情の氷波をよそに手を合わせてまたくすりと笑う。
「おかしいのに、中岡さんそれでもいいって言ってくれるんだわ」
「……なに? 南夕、何を言ってるの?」
 南夕の嬉しそうな様子の原因がその言葉で中岡らしいと判断した氷波は、眉をひそめる。南夕は元気を取り戻したようにまたフォークを掴んで、ゆっくりとケーキに切込みを入れた。
「中岡さんね、ひーちゃんにもいっつも言ってるけど人に合わせない人なの」
「知ってるよ。だからこうやって南夕がとばっちりを……」
 言い途中で、遮るように南夕がふるふると首を横に振る。それは本当に嬉しそうで、幸せそうで、まるですっぽかされた人間とは思えない表情だ。
南夕はそのまま、切り取った一口分のケーキを味わってから紅茶で流し込み、幸せそうにほうっと一息はいた。
「ううん、むしろとばっちりを受けているのは中岡さんのほう」
「何言ってるの? そんなかばう事ないよ」
「ううん、かばってるんじゃないの。やっぱり中岡さんが、とばっちりを受けてるの」
 にこにこと訳のわからないことを言い出す南夕に、氷波の困惑は深まるばかりだ。まさかそれほどまでに中岡に入れ込んでいるのだろうかと嫉妬がわきあがったとき、南夕が愛おしそうに何かを見るような眼差しで、遠くを見つめた。
「人に合わせない人だから、合わせられたり強制されたりって大嫌いなの。
そういうのを極端に嫌がって、避ける人なのよ」
「……だから?」
 氷波の眼差しは氷のように鋭く冷たくなり、逆に南夕の瞳は蕩ける様に細まった。
「なのに私がああしてこうしてって言っても、嫌いにならない。避けないでいてくれる。そういう私を、拒まないでいてくれるの」
 中岡にとって避けたいことでも、南夕が言うとそれすら受け入れて、許してくれる。それが何よりも、南夕にとって嬉しいことなのだと気がついた。すっぽかされたり約束を破られたり、そんな事は笑って許してあげられるような小事だったのだ。余程中岡のほうが南夕に対して寛大なのだと、とても嬉しくなる思いだった。
 胸のつっかえが取れて、そうしてその上嬉しくなって。ご機嫌な心に比例するように南夕はぱくぱくとケーキを消化していき、美味しく味わっていった。
 氷波は南夕の言葉に暫く唖然となってその様を凝視していたが、途端に肩をすくめて深いため息をつく。途端に機嫌を回復させた南夕を尻目に、すっと右手を差し出した。
「……どうしたの? ケーキ欲しいの?」
「いや。そういえば俺メアド変えたから、打ち込んでやるよ。携帯貸して」
 有無を言わさずな口調に南夕は慌てて傍らの鞄に手を伸ばし携帯を取り出すと、氷波に渡した。氷波は受け取るなりぱかりと開いてよどみない速さで何かを打ち込むと、またすぐにそれを閉じて、南夕の手前にすっと差し出す。一言もしゃべらない氷波に南夕が何かを言う前に席を立って、氷波はジャケットを羽織った。
「ひ、ひーちゃん?」
「じゃあね南夕。デート、またの誘いを楽しみにしてるから。俺ならいつでも空いてるからね」
 そんな風にその場にいない男への皮肉を込めた捨て台詞を吐くとそのまま呆然とした南夕を置いて、さっさと立ち去ってしまう。いつでも別れるときは唐突だなぁと、南夕はぼんやりそれを見送っていた。
 しかし、また暇になってしまった。少し寂しい気持ちをため息と共に吐き出して、紅茶に口をつけた。こくり、こくりとゆっくり飲み干し、瞳を閉じる。やはり一人でいても味気ないし、少し買い物をしてから家に帰って中岡の帰りを待っていようと思い始める。
 そんな予定を立てた、そのとき。がたりと、椅子が引かれる音がした。
「なぁにひーちゃん忘れも……の……」
 顔を上げてみればそこにいたのはスーツに身を包んだ中岡の姿で。今しがた氷波が座っていた席に、何故か息を切らしながら座っていて。目を丸くする南夕の目の前でコートを脱ぐと傍らの椅子にかけて、そうしてようやく落ち着いたように深く息を吐いた。南夕は目前のありえない光景に、目を見開くばかりである。
「な、中岡さ」
「仕事だけど空いてないとは言っていない」
 珍しく不機嫌な表情できっぱりと中岡が遮る。南夕はびくりと肩を揺らして、自信なさ気におずおずと中岡を見つめた。
「だ、だって朝……仕事だからって……」
「仕事だから午前は無理だけど午後からなら空けられるって、言おうとしたら君が勝手に打ち切ったんだろ」
 容赦ない切り替えしに、南夕はうっと詰まってしまった。
 そういえばと、思い出してみる。仕事と聞いた途端またいつものすっぽかしかと頭に来て、早々と話を打ち切って家を出てしまった。つくづく早とちりな女だと、南夕は恥ずかしくて赤面してしまう。しょんぼりと俯いて、そうして目の前の険しい表情の男に向って、か細い声で呟いた。
「ご、ごめんなさ」
「悪かった」
 え? と、南夕が顔を上げると、中岡は眉間に手を押さえてため息をついていた。よくわからなくてなおもおどおどと見つめる南夕に、中岡は苦笑して微笑みかけた。
「俺はいつも君に言葉が足りないね。今度はちゃんと、君が誤解しないように努めるから」
「え……あ、と…そんなこと、ない、です。いいの、き、来てくれたし」
 どもりにどもって、南夕は俯いたままいっぱいいっぱいになりながら答えた。なんだか、そう、来てくれただけでも嬉しかったのに、そんな風に言ってくれて。ほんのちょっぴり、泣きそうになって。嬉しいのか切ないのか、ごちゃ混ぜの気持ちで。
 そんな南夕を知ってか知らずか、来たばかりなのに中岡が席を立つ。不安げに見上げる南夕に微笑みかけて、コートを羽織った。
「もう無効かな? デート、してくれない?」
「う……は、ぃっ……すっ、します……っ」
 ぽろっと、どうにかせき止めていたはずの涙が溢れてしまった。公衆の面前で恥ずかしいやらでも止められないやらで、目を押さえながら席を立つ。そうして中岡と手を繋いで、その場を後にした。たった一つだけ、小さな会話を残して。

「何がしたい? 今日はなんでも、付き合うよ」
「……じゃあ。」
「じゃあ?」
「えっと……甘いものが……欲しい、です」
「……了解」

 甘いものが欲しい。紅茶よりも、ケーキよりも、砂糖菓子よりも。もっと甘くて、とろけそうなくらいに。甘く絡まる、暖かいもの。
 冷えた寒空の下、甘くて暖かいものがぽつんと一つ、唇に伝わった。

fin. 2010/4/10微修正。

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