女国

24.結情

 なぁ惷鳴、俺さ、お前を前にすると本当に俺じゃなくなるんだよ。前の俺と来たらそれはもう無責任で薄情で、自他共に認める事なかれ主義の完全自己中。俺がよければそれでいい、面倒なものはすぐにポイ捨て。こんな俺をいいというやつもいれば批難するやつもいて、それすらもどうでもよく思っていたわけだけど。
 だけどお前と来たらほら、俺以上の自己中だろ?皇帝だかなんだか知らないけどなんでも人にやってもらって何か頼むときも必ず命令だし、それを断られるかもしれないなんて微塵も思っちゃいない。自分のやる事なすこと全てまかり通ると本気で思っていて、俺なんてまだまだ甘いほうだったな、なんて変な関心までしたくらいだ。だけど不思議と憎めなくて、むしろ世話やいてやりたくなる。この俺が、ガキ相手に。信じられないくらいの事実なのに、感謝もしないこのクソガキ。俺を振り回しといて淡々と日々を生きる、このクソガキ。
 だからなぁ、今この一瞬だけでもお前をかき乱せるんだったら、流した血くらいくれてやると、誇らしい思いになったぜ。

 寒風に撫でられて、冷えていく俺の体。だけどそれは表面上で、まるで反比例するかのように内から滾る熱いものがある。熱くて熱くて、自分じゃどうにもならないくらいに。唯一つそれを具現化したようにどくどくと右手を伝う熱い赤。一筋の流れをつくりそこは肘で止まってからぽつり、ぽつりと一つずつ順番に、畳を濡らす。赤い筋が、熱い。これほどまでに血を流したのは初めてで、思いのほか暖かいことに気がついた。
 これが、そう、俺の思いであり怒りでありまたもう一つのもの。ようやく気付いたそれはぽつりぽつりと俺に降りかかり、じんわりと染み込む。畳が俺の血を吸い込んでいくようにまた俺の内にも、湧いて出てきたそれがじんわりと広がり、馴染んで、溶けていった。
 いまだかつて見た事がないようなものを見るような目でおれを見る惷鳴の表情は見もので、何故か俺にはそれを確認する余裕があった。怒りで頭のたがが外れているせいだろうか? 抑えきれない何かが暴走している半面で、やけに冷静な俺がいる。こんなときにどうでもいい事が、頭にぽんぽん浮かんで来るんだよ。これ鷹闇がちょっと力入れたら俺の手そのままばっさりいくんだろうなとか、こんな見たとこ真新しい畳汚してあとで水城ちゃんにどつかれたり明宝さんに冷めた目でみられないかな、とか。切実っちゃあ切実だけど今はどうでもいいことだ。とにかく惷鳴に突き刺さればいい、俺の思いが。
 例えばそれがこんな痛い光景でも甘くない台詞であっても、あいつにそれを植え付けられるならばそれでいい。だってさ惷鳴。いつもは直球しか投げられなかったはずのお前が、なんでこんなときに限って変化球だよ。おかしいだろう、そんなのどこで覚えたんだ?『忘れろ』って、ホントにずっりぃ変化球を。まさか鷹闇に言われた台詞をお前の口から聞くことになろうなんて、さすがの俺も思わなかったよ。お前がそんな甘ったれだったとは知らなかったからな。そんなお前の逃げに付き合ってかき乱されっぱなしでいるほど、俺はそんなに気の広い奴ではない。都合のいい男に成り下がるつもりもないし、かといって放っておくなんて野暮な事はしねぇよ。
 この多田時生様がここまでしてやっているというのに、もしもまた変化球くりだそうなんて考えたらどうしてくれよう。そん時は正面きって、正真正銘の喧嘩とやらを教えてやろう。人と人とのぶつかり方を、あいつの心にしっかりと刻んでやろう。そう思ってじっと惷鳴ばかりを見据えていて油断した。
「二度はないと言った」
 ぼそりと重低音で呟かれたその言葉に瞬間ぞっとして手を引くと、すっとそれが滑らかな動作で引かれる。ちゃきりとそれを構えなおした奴の動作は澱みなく自然で、きっと俺が手を引かなければすっぱりと右手は持っていかれただろう。
 そういえば、そうだ。惷鳴の注意を向ける事はできたけれど、こっからが問題だ。最大の障害、鷹闇。この冷徹女男をどうしてくれよう。もう殺る気満々で俺を見据え、美しいほどに綺麗な構えで俺に刃を向ける。切られたらきっと、この冷風にさらされた刀は凍るように冷たく感じることだろう。とめどない血の流れと奴の眼差しが俺に現実味を与え、頭に上った血を抜いていく。ここまでかっこつけたのに万事休すかと、半ば諦めかけたそのときだった。
「やめろ、鷹闇」
 いつのまにか鷹闇の横まで惷鳴は近付いていて、構える鷹闇を手で制していた。それが手前に立つような位置にいたので、さすがに主君に刀を向けることなどできなかったのだろうか、しぶしぶといった様子で刀を納めた。
しかしその手は離れず今だそこにかかったままだ。
 そうしてふと気付くと、その場にいた全員が俺たちを見つめ立ち尽くしている。これからどうなるのかと、そんな風な思案に明け暮れているに違いない。それでも俺にだってわからない。このままこいつらは去っていくのか、無礼をした俺は殺されていくのか、それとも。
 手前にいる惷鳴は微かに俯いていて、表情は読み取れない。そうしてその後ろの野郎は俺を切り捨てる機会を虎視眈々と伺うように睨みつけ、微動だにしない。俺はまるで選定者のごとくそれを眺めるしかない。惷鳴が決めるときまで。それがもしも俺が思うものと違うのならばそのときは、そのときは。そう、思ったとき。惷鳴は顔を上げてまっすぐと俺を見据えると、その形のいい唇を開いた。
「出て行け」
 針で小さな穴を開けるように、つきんと刺さった、たった一言。ああ、そうか、きたな、そのとき。不可思議な失念を吐き出すように、小さく息を吐いた。残ったのは丸くうねった白い吐息だけ。
 何故だろうか、不思議なことに俺の足は完璧なロボットのようにすっと前に踏み出しす。固まった俺の心とは反対に、よどみなく足が動いた。ようやく色づいた思いが急速に灰色になっていく。白も黒もない、半端な色のまま固まって。惷鳴の横をすっと通り過ぎて、そうして。
 再び足が止まった。小さな、暖かい、いつか感じたかすかなぬくもり。ゆっくりと目線を下に、降ろしてみる。そうすれば目に映るのはまるで交じり合うように重なる、惷鳴の小さな手。俺の赤に染められて、力のこもる小さな手。痛みは感じない、ただ一つだけ。俺の中のどこかが一瞬だけぎゅっと、締め付けられた気がしただけ。
「トキオではない。…皆だ。皆出て行け」
 一瞬で部屋中に困惑の雰囲気に包まれ、鷹闇すらも目を丸くして惷鳴を見下ろしている。二・三度状況を確認するように瞬きしたかと思うと眉根を寄せて、言いにくそうに口を開いた。
「……惷鳴様」
「鷹闇、お前もだ」
 もの言いたげな鷹闇を制してその場に響く、厳格な声。最高位の権力を以てして唱えられた言葉は、止まっていたその場の者たち全てを揺るがす。立ち尽くす俺とそんな俺の右手を握り締める惷鳴を残して、ぱらぱらとその場の人間達が困惑を抑えて部屋を出て行く。最後には、鷹闇も。
 奴が出て行ったところでぱたりと障子が閉まり、部屋の中は深閑に包まれる。背中を撫でる冷気とは裏腹に手のひらはだんだんと暖められ。でももう気まずさなんて、緩やかな風に吹き飛ばされてしまった。もうなんの心配もないし、全てがうまくいくという根拠のない確信が、生まれる。
 だってさ、俺が一番心配した事は一掃されたから。そう、お前に出て行けといわれて飛び跳ねた俺の心臓は、もう吃驚するくらい穏やかなんだよ。お前が俺を拒絶したときが終わりのときだと思った俺の心は、キレイサッパリ片付けられたわけだ。それで生まれた恐怖も、な。
「何か言いたい事は?」
 自然と笑みが洩れて、惷鳴のほんとにちっさいつむじを見つめて呟いた。そうして惷鳴は俺を見上げると首をかしげ、一言だけ、言ったんだ。
「わからない」
 困惑に眉をひそめる表情は、それだけで俺を満足させて。その頭に手を置いて軽く撫でてやり、ふわりと引き寄せた。軽い身体、抱き締めると本当に華奢で。
 だけど俺にはわかってる。お前の中に溢れるものが。お前がどんなに抑えようとも逃げようとも、俺には全て見えている。伝わる手の平から、しっかりと感じる。
 なぁ惷鳴、それの名前知ってるか?それな、それ。感情って、言うんだ。
 痛みと共に疼きだす、触発された俺の感情。熱い血の鼓動と共に知ったのは、俺が惷鳴に『情』を持ち始めていると、言う事。

   

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