女国

15.悲しいって?

 えー、水城ちゃんに帯をきつーーーーく締められて内臓口から飛び出しそうになったハプニングはあったものの、無事着替えを終えた俺は鷹闇に連れられ昨日のようにあの大広間―――天紅堂(『天子様が政務を執り行われるこの宮で一番広い講堂ですっ』水城ちゃん談)に行き、重労働を強いられた。っていってもぶっちゃけ荷物もちだな、なんかの巻物とか冊子とか大量に。めちゃくちゃでかい書庫に言っては天紅堂と行き交いして運んだりしまったり持ち出したりと結構忙しかった。これが俺に任された仕事らしい。…しょぼいけど文句は言えない、雇われの身だしね。
 そんでもってまた大きな鐘が鳴ると昼飯の時間になり、あの広い庭が望める部屋で惷鳴と俺と鷹闇と3人きりになっていた。聞くとこれからはこれが常となるらしい。つまり、俺と惷鳴がまともに話せるのはこの僅かな時間しかないと、こういうわけだ。それならばと俺は、すぐさま話を切り出した。

「ギブアンドテイクといこうじゃないか」
 木漏れ日を注いでくる外からは草のにおいの混じった爽やかな風が流れ込んでくる。天気がとても良くて、絶好の昼寝日和だ。惷鳴ものほほんな天気に和んでいるのかぽけーっとした表情で(…うん、まぁ会ったときからこの調子だけど)ぱちぱちと目を瞬かせ、子リスのように首を捻ると結い上げた髪を留めるかんざしがしゃらりと煌いて揺れた。そしてぽそりと、小さく問い返してきた。
「ボブ安堵レイク?」
 誰!?ってか耳おかしくね!? どうやったらそんな風に聞こえるんだよ、狙ってるとしか思えねーよ。
 微妙にあんどしか合ってないしなんかもう一連の流れが某会社のCM文句みたいだ。…こいつと交換できるものはボケと突込みしかないのではないかと心底俺は不安になってきた。思わず洩れそうになるため息を飲み込み、再度ゆっくりと口を開いた。
「ギブ・アンド・テイク、だ。交換条件といこうじゃないかと、こう俺は提案しているんだ」
「「交換条件?」」
 惷鳴と鷹闇は、口をそろえて反芻してきた。惷鳴は純粋に聞き返しているんだろうが、どうせ鷹闇は真っ向から疑ってかかってるんだろう、怪しいと。眉根をこれでもかというほど寄せて疑惑の目で俺を睨んでくる。まぁいい、こいつはシカトだ、シカト。どうせ何言ったって俺をいんちき商人でも見るかのような目で見ることは確実なのだ。気にするだけ無駄だ。
「惷鳴、お前は俺に男を教えてもらいたいんだろ?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ俺もお前に聞きたいことがあるから、意見交換しよう。お前が質問して俺がそれに答え、俺が質問したらお前もきちんと答えること。…どうだ?」
 そ、この国で暮らすとなったらまず情報収集だ。どこもかしこもおかしいし、何もかもが胡散臭い。こんな中で何も知らずに飄々と生きて行く事など困難だろう。だったら知って知って知り尽くして、俺の住みよい環境をこの手で勝ち取るのだ。
 そのかわりこいつにも色々と教えてやることにしようと、俺は考えたんだ。男のことだけでなく、いろいろだ。何も知らないのは俺だけじゃない。惷鳴もだ。だったら知りうる事を全て教えてやって、鍛えて、強くしてやりたい。こいつにいろんなものを教えてやって、ちゃんとした心を形成できるように手伝おうと思う。
 俺に何が出来る、何がわかるんだって感じだけど、俺に出来る事はあるはずだ。だってここはおかしい。こいつも、おかしい。でもそれが日常としてこいつの周りにすえられている。本当は何がおかしくて何がまともだなんて定義するのもおこがましい事だと思うが、せめて、感情を持ってもいいと思う。こいつにだって笑ったり泣いたり怒ったり、感情を持つ権利はあるはずだ。
 それにほら、こいつのぽけっとしたアホ面が変化するのを想像すると、ちょっと楽しみな気がする。光源氏計画も、なかなか乙なものだろう?
「…いいだろう。私に答えられることならば、出来うる限り答える」
 案の定、惷鳴は素直に承諾してくれた。あとは問題の鷹闇さんですが…不思議なことに何も言わなかった。これはこれでちょっと恐ろしいぞ。ちろりと目線を送ると我関せずといった表情で、顔に見合わず平和な庭園風景を眺めている。はは、すげぇ不気味。
「トキオ、では私から質問するぞ」
 ぎゅう、と俺の膝の裾を掴んで惷鳴が見上げてきた。なんだかな、別に女って感じは微塵も感じられないけど、これはこれで妹か弟って感じで可愛いと思う。俺って別にそこまでいい奴じゃないのに、泣いたのはきっとこの無垢さに良心を刺激されたからなんだろう、おかしいけど変だけど、憎めない奴だ。
「どうぞ、なんでも聞いてくださいよ」
 頭を撫でると惷鳴はきょとんとして、ぽかんと口を開いた。それからそろりと頭に手をやり、また俺を見上げると俺の手を掴んで自分の頭にぽてりと置いた。意味不だな〜…こいつ。
「何やってんのお前?」
「もう一度」
「は?」
「もう一度やってくれ、その、頭を」
 一瞬何のことかわからなかったが、なんと無しに頭を撫でてみた。するとみるみると頬が高潮してゆく。心なしか目も輝いているように見える。どうやらお気に召したようだ、顔は無表情だがやけに嬉しそうな雰囲気がきらきらと漂っている。
 そして俺から離れると今度は鷹闇のほうにより、その手を取ると頭にぽてりと乗せた。黙ったままじっと見上げ、鷹闇は目を丸くして惷鳴の奇行に戸惑っている。ぶはは、頭に手を載せる惷鳴の格好がなんかアホ臭くてうける。笑いをかみ殺している俺の横で惷鳴は鷹闇に目で訴え続け、鷹闇も恐る恐る撫でてみた。そしてやっぱり頬が高潮して、惷鳴の周りのオーラがきらきらと輝く。アホだこいつ。しかししばらく鷹闇にぎこちなく頭を撫でられてから、惷鳴がポツリと呟いた。
「手のひらは、温かいな。…私は暖かいものが好きなのかもしれない」
 ぴたりと鷹闇の手が止まって、惷鳴をいたわるようにじっと見つめた。ああ、だから惷鳴は、あの時俺の腕の中であんな事を言ったんだろうか。そんな風に思っていると、惷鳴は急に俺の方に振り返って見上げてきた。
「トキオ。何故トキオはあの時悲しかったのだ?悲しいとは、どんな気持ちなのだ?」
「………どんな気持ちって…」
 悲しいが、どんな気持ちかなんて、どう答えたらいいんだろう。意外と思いつかないな。なんとかして答えようと考えるがどうにもこうにも思いつかない。表現する術が見つからない。
 しかし天の助けだろうか、鐘の音が響き、俺も惷鳴もそれぞれの仕事に戻った。とりあえず今日は質問の答えは保留だ。
 しかし仕事をしながら俺は、微妙に早まったと少し後悔していた。質問なんてなんでも答えられるもんじゃない。だってさ、俺は本当はあいつの質問に答えようと思えば答えられた。だけど、不可能だった。
 悲しいって気持ちを知らない奴に、どう伝えるか。俺には感情がない奴は悲しいとか、悲しいって気持ちすら知らない奴は悲しいとか、そんな答えしか思い浮かばなかったんだ。それを言ったら惷鳴は文字通りそんな風に言われて悲しい気持ちを知るのかもしれない。最もな答えだしな。だけどそれはあいつが傷つくってことでもあるわけだ。非常に難しい。あいつを傷つけずに感情を教えてやるというのは想像以上に困難だということを、俺はこの時初めて思い知った。
 そんな事を悶々と考え続け、気がつくと夜になっていた。風呂から上がって部屋に戻ると、惷鳴が俺の部屋にいて、丸く抜かれたような大窓の傍に腰掛け淵に肘をかけながら外の景色を眺めていた。少し欠けた下弦の月が惷鳴の長く滴る黒髪をどこまでも照らして、その姿はまるで深窓の姫君のようだ。
「何たそがれてんだよ、人の部屋で」
 少しからかい口調で言いながら近づいて行くと、惷鳴は振り返らずに月を見つめたままぽそりと呟いた。
「『悲しい』が、知りたくてな。まだ答えてもらってない」
 …そうきたか。俺は一瞬躊躇したけど、惷鳴の横にどっかり腰を下ろして頭を撫でてやった。惷鳴は相変わらずこっちを見ないけど、まるで子猫のように気持ち良さそうに目を細める。
「………悲しいって気持ちは、色々あるんだよ」
「なんだそれは。色々とは、どれだけあるのだ?」
「さぁ、数えた奴なんて聞いたことないからな」
 ふっと笑って答えると、惷鳴はやっとこっちを向いた。月を見ていたときと同じようにぼんやりとした目で、俺を見つめる。
「それほど沢山あるのか? ではトキオの言っていた『悲しい』はどんな悲しいだったのだ」
「うーん…沢山あるか、少ないかはわからないな。俺が感じたのは………んー…そのうち解るさ」
 不可解だと言わんばかりに惷鳴は眉根を寄せて、首をかしげる。俺にもわからないさ、どうお前に伝えていいものなのか。髪を人房掴んで流すと、さらさらと手から零れ落ちていった。細くて、長くて、綺麗な髪だと、思った。
「俺の知りうる限りではな、切なくなるんだよ、胸が。気分が落ち込んで、やるせなくなる」
「何故だ?それならば私は悲しくなったことなどないぞ」
「それはお前が、悲しいって思うことに遭遇してないからだ。もしくは気づいてないだけ、とかな」
「ではトキオは昨日悲しいと思うことがあったのか?」
 …あったさ。思い出して、また妙な心境になってきた。結構ショッキングな夜だったからなぁ…。すると惷鳴は、俺の頬に手を当てて目を覗き込んできた。
「また、悲しいのか?」
「なんでそう思う?」
「昨夜と同じ顔だ」
「ああ、いや、もうそんなに悲しくはない。大丈夫だ」
 俺は惷鳴から目を逸らして、頬に当たる冷たい手も握り返した。本当に色々あるな、悲しいって。こいつがこうやって俺のことを知ろうとして、触れてくる手の冷たさが物悲しく感じたよ。どうにか暖めてやろうと両手で包み込むと、頭をこてんと、預けてきた。
「知りたい…『悲しい』が。………それともやはり私には、理解する事などできないのだろうか…」
 目を伏せて寂しそうに呟く惷鳴は、そう、少しだけ、そう見えた。ごめんな。わかるだろうか、わからないだろうか、俺には先のことなど予測できない。
 だけど惷鳴。きっとお前の手が温まる頃には、もしかしたら、ありうるかもしれないよ。あの月が満月になる頃には、少しだけ変わりはじめているのかも知れない。大丈夫さ、きっと。

   

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