くなさの

9.久那と眠り姫の夢

『思い出しても何一ついいことなんてなかったろ?』
 そんな事、ないよ奏貴。久那はね、知ってるの。浅野さんは沢山の事を久那に教えてくれたの。でもそんな浅野さんを悪者に仕立てたのは、久那。自分が可哀想で可哀想で、浅野さんの事なんかちっとも考えなかったの。
 浅野さん、ごめんね。何回、傷ついた? どれだけ、傷ついたのかな?
 久那は、知ってたのにね。浅野さんが久那の名前を呼ぶとき、とっても優しい響きをしていたって。浅野さん、ごめんね。久那の名前を、何回呼んでくれた? その度にどれくらい、傷ついたの?
 久那は知らずに、泣いていたんだ。勝手に、泣いていたんだよ。
 本当に泣きたかったのは一体、誰だったんだろうね?


「馬鹿かお前は」
 お決まりの台詞を呟いて、浅野さんはせっせと久那の足を洗う。夢見心地で浅野さんにお姫様抱っこされたと思ったら、ついた途端にお風呂場につれてこられて、久那は浴槽の淵に座らせられた。そして浅野さんは跪いて久那の足を洗い出した。口調とやっている事がまるでちぐはぐだ。
 ちゃぷちゃぷあわあわ、丁寧に洗いながら、時々『何だこの足は、傷だらけじゃないか』とか、『よわっちいくせして慣れない事するからだ』とか、ぶつくさ呟いている。
 浅野さん、誰に文句を言っているの。その傷はね、久那のせいじゃないよ。いつの間にか出来てたの。別に久那が作りたくて作ったわけじゃないんだよ。だから久那は知らない。でもそう言うと、上目遣いでじろりと睨まれた。迫力が増して、なんだか怖い。
 でもね、よく見るとなんだか凄愴とした顔なんだよ。目は久那なんかよりよっぽど疲れ切ってるし、お髭もいつから剃ってないのかな、伸びっ放し。こんなんで会社に行ったら、怒られるんじゃないのかなあ。浅野さんが、とんでもなく浅野さんらしからぬ状態。一体どうしてこんなになっちゃったんだろう。解るようで、解らない。不思議な気持ちが、久那の中で渦巻いている。
「浅野、さん」
「なんだ」
「もう、いいよ。浅野さん、疲れてるでしょ」
 久那としては、気を使ったつもりなんだけど。浅野さんはふと顔を上げて、切なそうに微笑んだ。なんだか、こうしていたいんだって言われてる、気がして。久那はずっと、浅野さんの気が済むまで、好きなようにさせてあげた。

 浅野さんは久那の足を丁寧に洗って、それからお風呂に入れって久那をそこに一人にした。だったら最初からそうすればいいんじゃないかなって思ったけど、浅野さんは出るときもちょっと名残惜しそうだった。変なの。浅野さん、久那の身体も洗いたかったのかな。そんな事してたら疲れるのにね。
 お湯に浸かりながらそんな事をぼんやりと考えて、浅野さんがお風呂の戸を叩くまでずっとそこに浸かっていた。

 湯当たり、した、みたい。ゆでだこみたいに腕が真っ赤になっていたことだけ覚えてる。気がつくとパジャマで、久那は元久那の部屋で目を覚ました。
 ああ、ここ、まだこのままだったんだ。意外だね。浅野さんの事だから、清々したって、すぐに久那の部屋なんか模様替えしてるものだと、思ってたのに。久那の部屋、まだ残ってたの?
 ベッドの脇のクマの人形をお供に、久那専用のウサギスリッパを履いて、部屋を出た。サーって、シャワーの音。浅野さん、シャワーを浴びているのかな。リビングには誰も居ない。代わりにテーブルの上にちっちゃい鍋とお椀があって、その上には小さなメモがおかれていた。
『食べなさい。』
 綺麗な文字で、そう書かれている。蓋をあけると、おいしそうな卵粥が湯気を上げた。
 ああ、なんだか、浅野さんのご飯は久しぶり。お腹、すいてなくて、ちょっと胃が気持ち悪かったけど食べてみた。喉にじんわり広がる、優しい卵の味。最近の久那にしては珍しく、ご飯一杯分、食べられた。不思議だね。あの匂いは、しなかったよ。なんでだろうね。

「久那」
 ご馳走様を言ったころ、いつのまにかリビングに入っていた浅野さんがドライヤーを持って近づいてきた。そのまま久那をソファーの下に座らせて、自分も久那を足の間に挟むみたいにソファーの上に座る。ああ、頭を乾かすんだ。
 そういえば、そうそう。浅野さんはお風呂上りにいつも、久那の髪を丁寧に乾かしてくれたの。久那、それが気持ちよくって、ついつい、ついつい、ね。とろんと、ね。
「こら、寝るな」
 だって、気持ちいいの。浅野さんの足に頭を預けると、仕方ないなって感じに、頭を撫でられる。こういう時浅野さんって、優しいんだあ。普段はすっごく、怖いのにね。
 ああ、久那、とっても気持ちいいや。
 ふわふわ、する。
「久那」
 脇に腕を差し込まれて、よいしょって持ち上げられる。久那はお人形さんになったみたいに、されるがまま。だって、楽なんだもん。浅野さんと居ると久那、とっても楽ちん。それってとっても、気持ちいい、の。
「あ、さの、さん……」
 にこーって笑うと、髪を梳かれる。指が優しい、な。
 浅野、さん。あさのさん。笑ってる、の?
 あさの、さん。
 ぎゅって、抱き締められた。
 暖かい。とっても、暖かい。久那、寝てもいい?
「久那……」
 ふに。
 って、不思議な感触。頭に、なあに?
 浅野さん。久那、眠たい、や。
 薄目で見上げた先に見えた浅野さんは、久那の見間違いじゃなきゃ、笑ってた。とっても優しい眼をして、久那を見て、笑っていたんだよ。


 浅野さん。嘘吐き。浅野さん。怒りんぼう。浅野さん。怖い人。浅野さん。久那の事がダイキライな人。浅野さん。よくわからない、人。
 怒りながら、優しくするのは、なんで? 久那は一体、どうしたらいいの?

 浅野さん。
 久那のこと、どう思って、いるの?

「久那……」
 ああ、もう、解るよ。
 何度も、何度も何度も何度も、呼んでくれたもんね。
 この声は浅野さん。
 久那は、浅野さんに名前を呼ばれるのが嫌いじゃない。浅野さんの手も、嫌いじゃなかったの。今みたいに、いつだって、優しく触れてくれたもんね。声も態度も乱暴な浅野さん。
 浅野さん、浅野さん、浅野さん。
 久那はここまで、浅野さんに会いにきたよ。
「久那、そろそろ起きろ。迎えが来るよ」
 瞼はうとうと、うまくいう事を聞かない。ここは久那の部屋。久那のベッドに、浅野さんが腰掛けて、久那を見下ろしている。
 寂しそうだね。どうしたの?
「浅野さん?」
「……返してやるよ。お前に全部」
 ほっぺたを撫でられる。まるで、愛しんでるって、錯覚しそう。なんだろうな。
 浅野さん? どうしていつも久那をそんな眼で見るの。
 どうして。
「あの……久那、久那は」
「悪かったな。俺が、悪かった。お前は何も悪くないんだよ、久那。……全部、悪い夢だった。夢だったんだよ」
 そう言って。ちょっと、屈んできた。
 静かな静かな部屋の中。間の抜けたチャイムが響く。
 そうして久那のおでこにね、ちょこんと一つ、浅野さんの口付け。
 これは、夢? 夢から覚めたら、何があるの?

 久那はその続きを見ることもできずに、眼を閉じてしまった。


 久那はいろんな人にこっ酷く叱られた。
 奏貴と奏那は凄い剣幕で久那に口を挟む隙を与えなかったし、叔父さんは泣いてるやら怒ってるやら解らない状態だったし、いつもはにこにこしてた杉村さんまでむっつり顔で無言の威圧を久那に与えてくれたほどだ。
 予想できないことでもなかったんだけど、みんなごめんね。だって言ったらきっと絶対反対するだろうなって、久那は思って。それでも説得できるまで待っていればよかったのかもしれない。でも久那はどうしても、待ちきれなくて。
 どうしても、どうしても。
 だからあんな長い道のりを歩けたの。足の裏の皮が向けちゃうくらい、歩いたの。どうしてもって、久那は自分を、止められなかったんだ。


 浅野さんは、迎えにと連絡した杉村さんに婚姻届けを渡したらしい。今までの事はすまないと、何か望むことがあれば何でもすると、浅野さんはそう言ったんだって。
 今久那の手の中にはちんけな紙切れ一枚。久那が書いた覚えもない欄に久那の名前。その横に浅野さんの綺麗な字。判子は押されているんだね。それなのに、出さなかったんだ。
 浅野さん。浅野さん?
 久那は目が覚めたらお家にいたけど、これが現実なの? でもね、やっぱり夢なんかじゃなかったんだよ。だってこんな紙切れ一つでも、久那に現実を教えてくれたんだから。
 浅野さん。久那はとっくに、悪い夢から覚めていたの。浅野さんが久那にたくさんの事を教えてくれた、最初のその日に、眼がさめていたんだよ。浅野さん。

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