くなさの

4.久那と怖いもの

 久那は考えた。お父さんもお母さんも、浅野さんの言う事をちゃんと聞くんだよ、って言った。だから久那は浅野さんの言う事を全部聞いた、と思う。だってね、結婚をしたら、奏那やお屋敷のメイドさん達に心配されることもなくなるのかなってちらっと思ったから、久那は浅野さんのいう事を聞いたんだよ。心配されないのもちょっと寂しい気がするけど、久那も少しはそういう事を、考えたんだよ。別に奏貴が言うみたいに、なんにも考えてないって訳じゃなかったんだ。ほとんど考えてなかったけど。
 でも久那が考えてやった事は全部裏目だったみたい。久那のすることなすことに浅野さんは怒って苛々するし、奏那は前よりももっとずっと不安そうな目で久那を見るようになった。奏貴まで、怒るよりも、ちょっとそんな目で久那を見るときもある。
 おかしいな。奏貴は、結婚は恋人同士がするもんだって言ったよ。でも久那と浅野さんは恋人同士じゃないんだって。じゃあこれって、何のための結婚なの。誰の為の結婚なの。久那は馬鹿だから、それがわからないのかな。美味しいものが食べられればそれでいいやと思って結婚したのに、どうしてうまくいかないのかな。久那がもう少し頭が良ければ、解ったのかな。
 考えても考えてもその答えだけは、久那の頭の中に浮かんできてはくれなかった。


「ん、よし」
 ドラマで見るようなお姑さんみたいに、つうっと窓の淵をなぞって、その指を見つめながら浅野さんは満足げに頷いた。言われなくても解る。きっと久那は、浅野さんのキュウダイテンを貰ったんだ。それを期待して見上げると、浅野さんは眼鏡の奥の意地悪そうな眼差しをにやっと細めて、仕方ないなと言わんばかりに笑った。
「及第点だ」
 やったあ。久那の心の中にファンファーレが鳴り響く。やっと、やっとだね。やっとタルトが食べられるね。ずっとずっと待ってたんだよ。久那、その為にうんと頑張ったんだよ。
 待ち遠しくって、浅野さんが用意するよりも早くテーブルの前の久那の特等席について、今か今かと待ち構えた。やっと久那の苦労が報われるんだね。この為に久那、一生懸命頑張って、我慢したんだよ。わくわくしてソファの上で正座をする。そんな久那が可笑しいのか、浅野さんは鼻で笑いながら久那の前に今日のおやつをコトリと置いた。
「……けえき」
 拍子抜け。まさにその言葉を、久那は体現していた。
 目の前には、それはそれは美味しそうな艶々イチゴの乗ったショートケーキ。久那、ショートケーキ大好き。でも頭の中ではもう一つの言葉がわんわん鳴り響いてる。
 あれえ? タルトは?
「どうした。嫌なら食べなくていいぞ」
 意地悪な声で、浅野さんが言った。久那はぽかんとしながら、そんな浅野さんを見上げた。
 だって、あれ、タルトは? タルト、じゃないの?
「……たると」
 口から勝手にその単語が出てきてしまった。でも口を塞いでももう遅い。多分浅野さんにも聞こえただろう。ショートケーキまでも取り上げられてしまう。最大級の危機感に襲われて、久那は今までにない反射神経でショートケーキを庇った。おやつが無いと久那、死んじゃう。
 でも、浅野さんはショートケーキを取り上げたりしなかった。恐る恐る見上げると、なんだかきょとんとしながら久那を見ている。あれ?
「なんだ。久那はショートケーキが好きだと聞いていたんだけどな」
 見当違い、と言わんばかりに浅野さんは首を傾げた。誰に聞いたんだろう。確かに久那は、ショートケーキが大好きだ。でも。
「ショートケーキ、好き。でも浅野さんのタルトも同じくらい好き、だよ」
 あんまり怒らせないように慎重に言ってみた。でも何にも反応がないなって思って恐る恐る見上げたらやっぱり、案の定だ。浅野さんが、怒った。今までで一番、大激怒だ。信じられないものを見るかのような冷たい目つきで久那を暫くじっと見つめると、言葉もないくらい怒っているのか、勢いよく久那に背を向けてリビングから出て行ってしまった。
 また、怒られてしまった。ショートケーキは取り上げられなかったけど、久那、どうしよう。だって、浅野さんが怒ると必ずその後久那がとても困るような何かが起きるんだもん。久那、このおやつの時間だけはとられたくないよ。フォークを持つ手が、ちょっと震えた。
 それから、心配で心配で心配で、浅野さん特製のショートケーキを、じっくり味わう事ができなかった。


 久那の直感は、外れたような、当たっていたような、不思議な結果をもたらした。
 浅野さんは、久那の困るような事は何もしなかった。けど、久那がキュウダイテンを貰って、浅野さんを怒らせたその夜、浅野さんは夜中に家を出て行った。久那はなんだかそれがとても怖くて、ベッドから出られなかった。とてもとても怖くて、身体の震えが止まらなかった。

 浅野さんは明け方に帰ってきた。久那はあんまり眠れなくてずっと夢と現実の間でぐらぐらしていたんだけど、浅野さんが帰ってきてそれももうできなくなった。
 がちゃんと、チェーンの音がして。廊下を歩く、足音がして。リビングに入って、冷蔵庫を開ける音。コトリと、何かを台所に置いた。リビングから、出た。久那は身体を丸くした。冬眠する熊みたいに。浅野さんは自分の部屋に戻って、それから音がしなくなった。久那は自分が起きる五時までずっと、熊の形のままでいた。

 朝。起き上がったら、頭の中とお腹の中に鉛が入っているような最低の気分。でも準備しなくちゃいけないから、久那は浅野さんを起こさないように少しだけ慎重になって部屋から出た。
 あ、れ。
 なんだか、変な匂い。甘ったるくて、染み付くような、お花の匂い。ほんのちょっとだけ、香水の匂いがするよ。浅野さんかな。浅野さん、香水なんてつけてたかな。
 ああ、でもそうだ、久那には関係ないよね。浅野さんが夜中に出て行っても、明け方に帰ってきても、久那にはどうでもいいことだった。でも多分今寝てる浅野さんを起こしたらきっと怒られるから、静かに準備しなきゃ。
 久那はいつもよりこっそりひっそり、準備を心がけた。

 いつもより三十分準備が遅れてしまった。その間に浅野さんはシャワーを浴びて、ご飯の用意をして、久那がリビングに入る頃にはいつものようにコーヒーを飲んで、新聞に目を通していた。
 浅野さん、眠くないのかな。本当にいつも通り。でもなんだか久那、あの時感じた香水の匂いが鼻に残っている気がして、胸がむかむかする。浅野さんのベーグルサンド、美味しいはずなのに、半分残しちゃった。浅野さんは何も言わなかった。久那がじっと見ていても何も言わなくて、久那の残したものもポイッと捨てちゃって、そのままだんまりで久那を学校まで送ってくれた。でも久那、気持ち悪かった。車の中にも、あの匂いがほんのり染み付いていたんだもん。いい匂いのはずなのにね。久那、気持ち悪くて、でもそれを浅野さんには言えなかった。


「おはよう久那!」
 奏貴は今日も元気いっぱいだ。奏那もその隣でにこにこしてる。
 ああ、なんだかとてもほっとする。奏貴と奏那の顔を見たらほんのちょっとだけ、胸のむかむかが収まってくれたような気がした。でも全部収まったわけじゃないから、久那思いっきり笑えなくて、中途半端に笑って席に着いた。なんだか立っているのも、億劫なんだよ。
「おはよう、奏貴、奏那」
「……久那?」
 奏那が怪訝そうに、顔を覗きこんでくる。ああ、また、その顔。さっきまでにこにこしてたのにね。どうしようって考えようとするのに、うまく考えられないよ。どうして?
「久那、どうしたの? 顔真っ青だよ?」
「……へーき。ちょっと、寝不足、気味。羊数えすぎたの」
 ほんとは数えていないけど、ちょっとしたジョークだよ、ジョーク。
 へらへら笑って手を振ると、深刻な顔した奏貴にその腕をがしっと掴まれた。痛いよ、奏貴。
「お前どうしたの? ほんとに顔色悪いって。風邪でも引いたか? 保健室、行くか?」
 ひいてないよ。久那平気だってば。
 奏貴が額に手を当てようとするから、いやいやと首を横に振った。うう、頭ぐるぐるする。胸もむかむかするのに、頭痛もちょっとしてきた。久那の身体は正直だなあ。ちょっと生活のリズムが崩れると、こんなにおかしくなるのか。ちょっとだけ、勉強になったよ。
「久那、平気。授業中に寝るから、奏貴誤魔化しといてね」
「はあ?」
「久那……」
 ぱたんと机に突っ伏して、寝る振りをした。本当は全然眠くなんてないの。机なんて堅いし、寝心地最悪。でも奏那の顔見てると辛いから、久那は逃げた。言い訳するのにもなんだか少しだけ、疲れちゃったんだ。

 その日のお昼は、サラダとフルーツだった。奏貴はそれだけかって驚いてたけど、久那はそれだけでも多い気がして、それでも少し安心した。サラダならまだ食べやすい。フルーツも甘くて、好き。浅野さん、いつもは肉を食えって怒るのにね。今日はどうしたんだろう。
 そんな事を考えながら、頑張ってサラダとフルーツを胃に詰め込んだ。午後は奏貴と奏那と一緒に居たせいか朝のむかむかも頭痛も薄らいで、久那はいつも通りの久那に戻れた気がした。でも、放課後になって浅野さんが迎えに来て、車に乗ったら、また朝の久那に逆戻りしてしまった。
 気持ち、悪い。
 浅野さんはどうしてそんなに、平然としているのかな。久那だけなのかな、この匂いが気持ち悪いのは。

 家に着いたら、すぐに部屋に閉じこもった。浅野さんが部屋に入ってきて、飯を食えって怒ったけど、久那はいやいやって拒否して熊の形を決め込んだ。
 浅野さん、早く出て行って。久那の部屋にあの匂いがついちゃったら、久那、どうすればいいの。あの匂いがすると久那、どうしようもなく心細くなるんだよ。久那の居場所がどこにもなくなっちゃうみたいで、怖いんだよ。
 久那、どこにいけばいいの。他にはどこにも、行く場所がないよね。お家にだって、帰れないのに。

 その日は久那は部屋に閉じこもっていたから、お皿洗いもお洗濯もお掃除もしなくて、久那はおやつを貰えなかった。一回トントンって部屋の扉を叩かれた気がするけど、お腹の中の鉛がずんと重たくなってて、久那はなにも返事が出来なかったの。
 そうしてまた夜中、浅野さんはどこかに行った。久那は気持ち悪くて、気分も最悪で、頭の中がもやもやして、なにも考えられなかった。
 久那の身体が、久那のものじゃないみたいに、おかしくなっていた。

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