極彩色伝

生きる音/彼女の涙雨

 道中、気付いてしまった。ふと見た茂みのその奥で、濃緑の綺麗な羽を、紅い痛みがじっとりと染めていた。他の動物にでもやられたのか、即死もできない中途半端な傷をこさえ金切り声のような泣き声を上げている。褐色の瞳をぐりぐりと巡らせて抗う姿が、より一層の痛みを色に感じさせた。

「……どうしよう」

 色は一瞬、迷った。拾うべきか、見て見ぬ振りをするべきか。半ば条件反射のように助けたい気持ちが沸いてきたけれど、よく考えてみれば自分にそんな余裕があるだろうか。ラミストの“お荷物”である自分が、更なる荷を背負ってもいいのだろうか。
 それでも、痛そうな姿を見るだけで悲しくなって、色の表情も感化されて歪んだ。痛い痛いと泣いてるようで、助けて助けてと心細さに押しつぶされそうで、結局は助けてあげたいと思ったが最後見てみぬ振りもできなくて、暴れる生き物に手を差し伸べた。
 ばたばたと暴れるそれは明らかに怯えていると、目を閉じていてもわかる。既視感にも似た感情を、ふと思い出した。

「……おいおい、止めておけ」

 背後で、呆れきった声。紅い髪に長身の男、色の主君であり恩人でもあるラミストの叔父にあたるダルガは、自分の興味の範疇に無いものにはとことん消極的なのは、未だ短いふれあいの中でも色には十分解りきったことだった。
 しかし、知れた相手がダルガだった事は幸いかもしれない。
 色は何も”聞こえなかった”ので、鳥を落とさぬよう傷に響かぬよう慎重すぎるほど丁寧に抱え上げて、それを懐にしまいこんだ。その小さな鼓動を押しつぶさないよう、羽織っていた薄布で包めてから。
 それからきょろきょろと辺りを見回し自分とダルガしかいない事を確認すると、神妙な顔を作り、ダルガをゆっくりと見上げた。

「ナイショね」

「……んん?」

「ヒミツ。これ、だぁーっれにも、言わないでね」

 ダルガが黙ってさえいれば、自分がしっかりと気をつけてさえいれば、きっとこの傷ついた小鳥を助けてやれる。ラミストにも知らせなければ、知らない重荷は事実にはならないはずだ。
 色はそう信じて疑わず、呆れを通り越して馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに肩をすくめたダルガを見もせずに、そろりそろりとその茂みから抜け出していった。




「イル、食事くらい落ち着いて取りなさい」

「もひふいへるもん」

「食べながら喋らない」

「……んぐ」

 アナトはお母さん以上に小煩い。皿は持つなだの姿勢を良くだの足をぶらぶらさせるなだのきょろきょろするなだのと、事あるごとに口を出してくるものだから、おちおち味わってもいられない。
 今日は特別早く食べ終わりたいというのに、急いで食べようとするとがっつくなと諭してきたりもするから、いい加減焦ってきた。心配で、心配で、端から落ち着く事なんてできやしない。あの小さな、傷ついた生き物が今この時人知れず、その小さな胸を上下させ一生懸命に呼吸しているかと思うだけで、側にいてやりたくて仕方がなくなる。
 どうか、どうか、自分が行くまで何ごともありませんように!

「もぎほうはまっ」

「食べながら喋るなと何度言えば……」

「ふおいっ」

 アナトが新たな小言を言い終わる前にさっさと退散してしまおう。個人的な苦手意識も手伝って、その場にいた全員が呆気にとられるほどの勢いで、色は脱兎の如く立ち去って行った。もちろん、只一人苦笑しながら彼女の後ろ姿を眺める男に色が気付くことはなかった。




 扉の外から微かに漏れる、小さな小さな鳴き声。息を切らしかけ整えながら自室へと歩く色の耳に、それはか細く心細そうな、哀れになる程切ない泣き声が、確かに聞こえた。
 色は辺りを何度も見回したかと思うと扉をじっと見つめ、音を立てたら爆発してしまうかのような慎重さで、扉の隙間を覗き込みながら両手で押し開けていく。途端にぴたりと、その鳴き声が止んだ。

「……お、お邪魔……する、よ?」

 自分の部屋だと言うのに、それでも無遠慮にはいることに気が引けて、頼りない声でするりと滑り込む。背中でぱたんと扉が閉じた瞬間、見つめる先のその奥で、それがもぞりと動いた気がした。
 怯えているのか泣いているのか、それとも怒っているのか。そのいずれとも色には解らなかったが、ただその存在が鳴き動いていた事に「まだ生きている」とほっとした自分にひっそりと罪悪感を抱く。まだ生きている。生かす為に拾ったのは、自分ではなかっただろうか?

 だいだい色のランプに照らされた部屋の一角にある四角いテーブルに置かれ、いつもは果物が積まれてあった籠が一つ。その中で白いブランケットに包まれて、濃緑のつやつやとした毛並みがうすぼやけた灯かりに照らされている。
 色はその、両手に包み込めるほどの大きさの塊をそっと覗き込み、ほっと息をついた。食事の時の想像通り、その小さな身体を上下させ、息を吸ったり吐いたりと繰り返している。想像よりも小さく繰り返すリズムが愛らしくて、不安に染まっていた表情に自然と笑みも零れてくる。この健気に生きる生き物が、愛しくなってきた。
(果物、食べるかなあ)
 取れたての果物とドライフルーツと、数種の穀物。どれを食べるか解らなくて、とりあえず持てるだけ貰ってきたものをテーブルにそっとのせた。その中でぶどうに良く似た形の果物を一粒取ると、葡萄とは違うその桃色の皮を丁寧に剥ぎ取り、先程よりも身を縮ませた生き物の口元とおぼわしいところに持っていく。
 生き物は、食べるどころか顔の向きを変えて拒否する。それでも色は、そこで引かずに、種類を変えて何回も試した。しつこいかもしれない。嫌がっているのだから、そっとしておけばいいのかもしれない。それでも、食べなければいけないと、色には解っていた。今日、何か一つだけでも、食べなくてはいけない。ほんの少しであっても、力をつけなくてはいけない。そうしなくては、きっとこの生き物は。

「食べてよ……」

 情けない声で懇願してみても、一向に食べる気配は見えない。段々、焦ってきた。食べなければ助かるものも助からないのに、どうしてこんな弱った身体でここまで拒むのだろう。

「いたっ」

 とうとう、引っかかれて、果物を落としてしまった。それでも手から離れたものすら、生き物は食べたがらない。どうしようもない頑なさに苛立ちよりも、悲しみが募る。
 このままじゃ、だめなのに。やるせなさで泣きそうだ。

「馬鹿じゃないの……なんで、食べないの」

「施しを受けてまで生きてはいたくないのだろう」

 突然返ってきた言葉にビクリと肩が揺れ、弾みで涙が引っ込んだ。その声には聞き覚えがあって、しかしその言葉の意味が解らなくて後ろを振り返る。
 ダルガは退屈そうな眼差しで、大量に余っている果物を一粒、色の口に放り込んだ。ダルガのような大人からしてみれば色の行為は子供の同情心と変わらず、容易く手折れるものなのだと、彼はそう思っていると色には解っていた。

「よくもまあそう簡単に思い入れることができるものだな。食わんのならば生きる意志が無いのだろう。時間の無駄だ、捨て置け」

「無駄じゃないよ」

「そうか? 死にゆくものに手を差し出すことがか」

 口の中に広がる甘さが、ごくりと咽を通り過ぎる。不意をついた言葉に色は言葉を失い、全てを見透かしたダルガの眼差しから逃げるように目を逸らす。図星を指されたと言っていいほどに、色の奥深くに突き刺さる言葉だった。
 ダルガには見えている。色が、この生き物は助からないかもしれないと、果物を与える頭の隅で考えていたこと。差し伸べた色の爪先から心の根っこまで、不安に満ちていること。こんな子供染みた行動の隅から隅まで、彼にはお見通しだ。
 ただそれでも恐れずにいられるのは、彼が、ラミストを含め他の誰にもこのことを口外しないと言うことを、色も知っているからだ。だからこそ自分の行動の全てを彼に第三者としてみていて欲しい気持ちになり、彼が問いかけるとどっちつかずだった心に答えが宿るような気がしてくる。
 ダルガの言葉は苦いけれど、まるで魔法の薬のように色の胸のつかえを取る。

「ダルガの言うとおり……かもしれないね」

 つかえの取れた胸の中には、色の中の理由だけが残る。あの時感じたこの既視感が、結局のところのそれに繋がる。

「でもラミスト様はね、あたしのこと捨てなかったよ」

 あの時出会ってからずっと、今現在まで、色は生きている。多分、ラミストに拾われたから、生きてこられた。あのままあそこにいたら色は今この世にいないだろう。この鳥を拾うこともなく、こうしてダルガと話すことも、絶対なかった。
 そう思えば思うほど、今生きていることの実感がとても、尊く思えてくる。大事なことだと、本気で思える。

「今まで迷惑しかかけてこなかったし、これからもかけるかもしれないのに、一度も捨てようとしなかったよ。あたし、あの人にすごく感謝してる。拾ってくれたラミスト様に、すっごーく、感謝してるんだ」

 独りぼっちだった時、物騒なことを考えた事もあった。これは夢で、一回死んでみれば、びっくりして飛び起きるかもしれないとか、このまま知らない人に売られて想像もできないことになるなら死んじゃった方がまだマシなんじゃないだろうかとか、そんな事を考えたこともあった。
 傷ついて、怖くて、生きている心地がしない。一人取り残され、死ぬほど怖い、独りぼっちの気持ち。それでも今はどういうわけか生きていて、それどころか助けたい命が目の前にある。生きていなければできないことが、この世には沢山あるのだ。
 妙に張り詰めた眼差しを向けていたダルガは、急に破顔して笑い出した。

「お前はこんなちっぽけなものに感謝されたくて拾ったのか」

 ダルガが笑って、色は内心少しだけほっとする。
 色の言葉はたまにダルガやアナトを怒らせるときがあって、ラミストやラウを悲しげにさせるときがある。どうしてかは解らないけれどそれは自分が不用意な言葉を選んでしまったからだとは気付いている。
 こういう時に色は、困らせていると思うときであり、どきっとする。嫌われやしないかとはらはらしてしまう。嫌われると捨てられるが同義語だと彼らに言ったら、一体どんな反応を示すだろう。色も所詮、ダルガの言うとおりちっぽけな生き物の一つだ。だから、放っておけなかった。同じだから、同じように、救われて欲しかった。それだけ。

「……なんだ」

 思わずじっと魅入ってしまったらしく、再び怪訝になったダルガから目を逸らし色は首を横に振った。縁起でもないことを考えてはいけない。今はただ、彼らに感謝あるのみ。

「感謝してるよ。みんなに。でも多分、ラミスト様は、感謝されたくてあたしを拾ったわけじゃない」

「……お前は」

「だからあたしも、そうゆうわけじゃないのさ。第一、この様子じゃ逆みたいだしねえ」

 拾われたとき、ラミストは優しくて、少しほっとした。けれど今に落ち着くまでに、色は色なりに思うことも多々あった。どこにつれていかれて、何をされて、どうなるんだろうと思った。怖くて眠れない日なんか、何度もあった。この生き物と同じだ。
 違うのは、色の小賢しさとこの生き物の頑固さ。色のその小賢しさが溶けるまで時間を要したように、この生き物にだって時間は必要だ。だからこそ今、力をつけなくてはならない。
 震える毛並みに手を伸ばすとまた引っかかれてしまったが、手を引かずにそっと撫でてみた。手触りが良くて、暖かくて、小さな鼓動が聞こえるようだった。

「今生き延びれば、これからなんでもできるようになる。やりたいことや、やらなきゃいけないことをやってから、その後の事はそれから考えればいいんだ。今死にそうだから死ぬっていうのは、もったいないよ」

「それも、ラミストの理屈か?」

「イル様のありがたい押し付けだよ」

「……面白い奴だなあ」

 今が、笑えるとき。泣けるとき、怒れるとき、喜べるときがくる。また空を飛べるときもきっと、来る。だからとりあえず、生きてみよう。今日だけでも、生きてみよう。
 指先に伝わる小さな鼓動にむかって、色は心の中で何度も語りかけていた。




「臥せっている?」

「……誰も入るなと、朝から」

 戸の外から話し声が聞こえる。外は雨なのだろう。偏頭痛と胸の痛みに悩まされ朝からずっと、しとしとと零れる音と毛布に包まれ怪我をした生き物のように、色はうずくまっていた。
 テーブルの上の籠の中身は空となり、羽が一枚残っているだけ。胸の中に抱えるものは既に冷たく固まって、ぴくりとも動くことはなかった。部屋の中には雨の音と、色の鼓動しか、聞こえない。

「腐るぞ。さっさと埋めてこい」

 諭すようなその声の主が誰か解ったけれど、色は毛布から顔も出さずにぶるぶると顔を振った。
 腐るのが嫌なのか、埋めるのが嫌なのか、それとも子供のように拗ねる自分を見られるのが嫌なのか、解らない。ただ、色は今朝、願っても生かせない命もあることを思い知った。理屈では知っていても、自分の手のひらで感じた事はなかった。生きていればできることがあるように、生きていても出来ないことがある。理不尽なようで、仕方のないことで、でもそれが悔しかった。

「おい……」

「ねえダルガ」

 もう子供じゃないから、生き物が死ぬ事だって知っている。早く埋めないとダルガの言うとおり、そのうち腐り始めることも知っている。たった一日の出会いだから、そんなに悲観することもないのかもしれない。
 でも。

「……ダルガ」

「なんだ」

「……あたしは、無駄なことをしたの?」

 命の押し売りだっただろうか。生きることを無理強いするより、そのまま寝かせた方がよかっただろうか。
 後悔するのはいつも後からだ。後悔が先にたてば、そんな超能力があれば、望むようにできたかもしれない。生きるって言う事は、未来の自分も背負わなければならない。この冷たい生き物は、色に生きろと訴えられて、何を思っただろう。どう思ったのだろう。
 もし今ダルガに無駄だと言われても、色にはそれを否定することができないだろう。
 ぱたぱたと窓を雨が打ちつける中、僅かな衣擦れの音で、ダルガが動いたのが解った。

「……ここに一つ、齧りかけがある」

 ぽとんと何かが落ちる音がして、こっそり毛布の隙間から覗いてみると目の前には干からびた果物の欠片があった。色が昨夜剥いて取り落としたままの果物だった。
 齧りかけ。茶色く変色しかけたその果物は少し、縮んでいた。
 ダルガを見上げると、毛布に隠れて顔は全部見えなかったが、微かに見えた口元が薄く笑っているように見えた。

「生きる意志はあったのだろうな」

 精一杯の一口のように、半端にくぼんだ小さな果実。

「……っ」

 願っても生かせない命がある。生きたくても、生きられなかった命もある。
 ほとほとと、シーツに次々染みができていく。むくりと上半身を上げ、死んだ鳥の骸を抱きながら、色は声もなく泣いた。

 結局、助けられなかった命。けれど齧りかけの果実は、ダルガの言った意味だけじゃなく、色へのありがとうに見えて仕方がなかった。
 暖かい。今生きていることも、涙も、頭を抱いてくれるダルガの手も。生きている事は、暖かい。
 か細い声で泣いた色は、まるで昨日の生き物のようで。この声が届くようにと、ないていた。

  

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