極彩色伝

80.Pandora.W

 ぱた、ぱた、と音がする。きっと雨が降り出した。
 ああ、あの王子様は大丈夫だろうか。綺麗な銀髪が、冷たい雨に濡れていないだろうか。寒さに凍えて泣いてはいないだろうか。血塗れた剣に戸惑ってはいないだろうか。
 この身に本当の翼があれば、すぐにでも飛んでいって、拭ってしまえるのに。雨も涙も流れる血さえ、全てをこの手で拭ってしまうのに。少しくらい汚れたって構わない。
 助けてくれた、あなたの為に。

「何の余興かな、これは。なあシュウザ」
「……さあ?」
 いつもよりも力強く抱き込んでくれている、気がする。だから、つい、縋るように服を掴んでしまった。
 ああ、なんて、自分の心はこんなに浅ましいのだろう。この人だって、知らぬ間に何度傷つけたことか。傷つけられたと罵って、何度傷つけてしまったことか。それなのに助けてくれる。こんな時ばかり、ひどく優しくなる。
 慰めるような穏やかな手つきで、何度も髪を梳かれては、撫でられる。あの人のように、優しい手のひら。甘えたくなる、弱いこころ。
「まったく、お前らの野蛮さには目も当てられない。そら、天使が塞ぎこんでしまった」
 人さし指の背で、からかうように頬をくすぐられた。その途端に辺りに笑いが満ちて、お前のせいだ、いやお前のせいだと揶揄交じりに言い合っている。
 色の心情なんて全く以って関係なく、逸楽した空気が蔓延していた。共に愉しむ振りをして、ダルガの指先だけが慰めるように触れてきて、色を振り向かせようと試行錯誤している。
 優しいけれど、どうにもならない。身体の中が哀しい哀しい気持ちでいっぱいだ。どうしたらいいのかわからない。考えなければならないことさえ、ぐちゃぐちゃになって支離滅裂だ。これではいけない。うやむやにしては、いけない。逃げてはいけない、はず。
「閣下、我々はどうしたら良いのですかァ」
「ふん? ……そうさな」
 周りは最早、色を慰める為の余興に興じているつもりなのかもしれない。誰が慰めるか。どうしたらいいか。口々に言い合って、冗談交じりに議論して、色に声をかけてくる。
 こんな風に想われることさえ、今は苦痛でしかない。慰めなんて。そんなの、貰える立場じゃない。出来ることならどこへなりとも放り出して欲しい。こんな自分。
「まあ待て。まずな、お前達喧しすぎるよ。天使といえど乙女には違いない。そうそう口々に騒ぎ立てるのではなく、優しく、導いてやらねば」
 芝居がかった台詞を並べている。けれどそのダルガの気品ぶった物言いに、周囲も感心したかのように声を上げ、また段々と飲み込まれていく。それに相応しい場を作るように、先ほどの喧しさが嘘のように、静まっていった。
「さて、この声も届くほどには静まったようだ。では天使を慰める手ほどきだが……焦っては事を仕損じる。まずは、頑ななるその御心を宥めて差し上げよう」
 芝居はまだ続いているのか。吟遊詩人のような滑らかな滑り出しで囁いてくる。頬をからかっていた指先は離れていき、代わりにゆったりと背中を抱きこまれた。赤子をあやすように、背中を撫でられる。
 本当に、宥めようとしているのか。けれど無理強いされているような気配もしない。ただ、ただ、本当に宥めようとしているように。
 それでもなんだか怖くて、色はことさら強く、ダルガの服にしがみ付いた。
「乙女は繊細だ。壊れ物のように扱ってやらねば、本当に壊れかねない。どんな時も、細心の注意を払え」
 撫でる手のひらは、色の髪へと移っていった。常に変わらず一定の速度で、穏やかに髪の合間を滑ってゆく。段々と、波立っていた心が凪いでいく。ダルガの指先が触れるごとに、暴れていた哀しみが静まる。
「こちらに振り向かせるには、いささかコツがいる。まあ、香を蒸すも花を与えるも一つの手だが生憎ここには――むさい男しかいない」
 どっと笑いが起こる。色だけは、さすがに笑う気力もない。まだまだこの狂言は続くのか、手繰り寄せるように顎を撫でられ、上を向かされた。
「さて、身一つで何が出来るか。ならば方法は一つ……魔法の睦言を、囁けばいい」
 本当に、まるで、魔法のように。髪の隙間を潜り抜け、優しい指先が色の耳の淵を撫でた。それに沿うように髪を避け、そっと耳にかける。それでも、何も聞こえない。異様なほど、場が静まっている。一心に集中する視線の先がどこに向いているのか、見なくたって色にはわかった。
 でも、だって、今はどうしようもない。このまま魔法のように消えてしまえたら、どんなに楽だろう。頭に巡るのはもしもやり直せたら、過去に戻れたら、今の自分をなかったことに出来たら、そんな虚しい仮定ばかり。罪の意識から逃げたくて逃げたくて逃げたくて、それでも申し訳ない気持ちが逃げることも許さない。
 謝れたらどんなにいいだろう。けれどきっと彼らはラウのように失望して、色を『嘘吐き』と罵るだろう。それに、もう、引き返せない程に多くのものを奪ってしまった。今更なかったことになんて出来ないし、嘘でしたと吐露することも許されない。
 沢山奪った。悪魔のように、気まぐれな一言で。彼らの多くは失ったものに深い悲しみを覚え、つきない涙と血を流した。非道なことだ。本当に。奪ったものの重さは計り知れない。それら全てがのしかかる。彼らの笑顔の奥に潜む哀しみに、胸が震える。
「笑え。我らの天つ河に住まう精霊よ。お前の微笑こそが、皆に恩恵を与えよう」
 宣言通り囁かれた、無理な睦言。どうしようもないと堅く眼を閉じた時、誰にも聞こえない声で囁かれた。
「――イル。もう、泣くな。あんまり泣くと、お前の瞳が可哀想だ」
 頼み込むように、優しく囁かれた。その言葉だけが、色の耳に届いた。
 ――どうして笑っていられるのか、と思った。彼らはどうして笑えるのか。失った悲しみはなくならない。消えていない。目の前に転がっている。それなのにどうして笑うのか。そんな気持ちが解らない。そう思った。
 けれど、すぐに思い直した。笑えるのではなくて、笑うしかないからだ。失ったものを嘆き悲しんだところで帰ってはこない。だからこそ笑うしかない。彼らは笑うしかない。明日はわが身。だからこそ、彼らはこんなに楽しそうに、笑っている。
 色は泥沼の中で懸命に笑う彼らを見下ろして、安全な場所で嘆いているだけ。なんだかそれってとても、残酷で卑怯だ。結局自分が可愛いだけ。守られている保障があればいくらでも悲しむ余裕があるし、好きなだけ自己燐敏していられる。悪魔みたいなことをして、そんな自分に嘆くなんて、どうしたって笑えない。同情できない。
 この人たちが笑うならば、色だって。色だって、同じくらい笑わなければ。内に秘めた想いなんて、いくらでも秘め続けていればいい。どんなに哀しくても悔しくても許せなくても、彼らが笑う限り笑い返さなければ。あのラミストだって、色の前で微笑み続けていてくれたのだから。だったら色も、この世の終わりが来たって、ずっと笑っていなければ。
 ずっと掴んでいた握りこぶしをゆっくり解いて、顔を上げた。
 さあ、笑え。ずっと微笑み続けてくれた、あの人のように。
「……くすぐったいよ、ダルガ」
 はにかむように、微笑みかけた。ぎこちなくは無いだろうか。どうか本物の笑顔に見えますように。心から、楽しそうに。哀しさなんて、どこにも見えないように。
 それを促した張本人の彼は、笑い返すでもなく至極真摯に色を見つめる。そうしろと、言ったくせに。予想していただろうに。何故そんなに、解せないとばかりに見るのだろう。馬鹿だと、目が言っている。それでもすぐに、それに見合った完璧な微笑を色に向けてくれた。
「ああ……ほら、この通り、魔法が効いた」
 そう、みんな、笑って。笑って。どんどん笑って。
 そうしたらラミスト様。いつか、泣いてくれる? 嘘の微笑なんか捨ててしまって、泣いてしまえる? 本当の気持ちを、見せてくれる?
 そのためだったら何度でも笑うよ。いつまででも笑ってるよ。ラミスト様。ほんとに、ごめんね。ごめんね。本当の笑顔は、どこにしまったのかな。
 色はまだそのありかを、知らない。


 へらへら、にこにこ、笑って、笑って、笑って。沢山笑って、気がつけば日暮れに差し掛かっていた。陽気な彼らと別れを告げて、人形のようにダルガに抱えられながら、ゆらゆらとした心地の中で色は漸く目を閉じた。
 笑いたくない時に笑うと言う事は、とても難しい。いや残酷だ。いや寂しい。いや、胸が痛い。どこか、ここからではとても届かない遠くを見つめているような果てしない心地の中で、心に一枚一枚薄い膜を重ねていくような行為だ。ひどく、頼りない。底の見えない沼の中でもがく様に、苦しい。
 こんな心地のまま、彼は笑っていたのだろうか。いつでも、何があっても大丈夫だと安心させてくれるような笑顔を、こんな絶望的な心地の中で作り上げてきたのだろうか。息詰る世界の中で浮かべる笑顔は、どんな心地がしただろう。
 夕闇を瞼の裏に感じながら、色は考えた。笑い続けるたびに、何かを置き去りにしていくような気がした。ラミストは、色に微笑む代わりに、何を置き去りにしてきたのだろう。それは簡単なことではないと、色は知った。
「イル?」
 その足を止めたのか、心地のいい揺れが治まった時に、いつになく穏やかに、名を呼ばれた。気遣われているのだろうか? そんな事が少しおかしくて笑いそうになった、けれど。不思議と笑みは産まれず、ふっと吐息だけが喉を掠める。
 ああ、今日はとても、疲れた。笑う元気も、もう、ない。
「なに……?」
 のろのろと顔を上げると、濃紺の瞳と視線が重なる。なんとも言えない瞳が、こちらを見ている。笑い返す元気は、無い。
 頭には、ラミストの面影。笑っている。どうしていつまでも笑っているのだろう。だってそれ以外の顔を、あまり、見た事が無いから。
 ――ああ。残酷だなぁ。
「どうする」
 ふいにかけられた言葉の意味が、一瞬、解らなかった。けれど解るような気もした。どうしてかはわからないけれど、その言葉の裏に、仄かな失望を感じる。諦めとも似ている。これはもう仕方ないと、妥協されているようだ。
 どうしてだろう。色には解らない。何か、至らないところがあったのだろうか。あれほど、色を上から眺めて笑っていた人なのに、今はなにも感じない。それどころか今は、同情というか、哀れみに近い、何か。
 一体、なに? それでも、頭の隅で、誰かが囁く。
 ――『そろそろ』?
「……おろして」
 それには答えず、色はダルガから身を離そうとするように胸に手をあて距離を取った。そのまま、ダルガも抗うことなくすんなりと、その場に下ろしてくれた。お守りのように、色は薬の入った袋を胸にぎゅっと抱きこんだまま、俯いた。
 ――どうしたらいいだろう。
「――解し難い」
 ダルガではない、その人の声が降りかかる。特になにも考えずに、反射的に色は顔を上げた。見れば、その人はずっとそこにいたのか、色が思うよりもずっと近くで色を見下ろしていた。
 ――シュウザ。ずっと、色を試すように見つめていた人。今はダルガのように、仄かな失望と、それから困惑。共に、浮かび始める嫌忌の眼差し。これは、見たことがある。ごく最近の既視感。
 ぼんやりと、色は思い出した。あの時のラウと同じ表情を浮かべて、彼は色を見下ろしている。
 ああ、また。まただ。また見放された。自分という存在が。ああ、神様。人が落ち込んでるっていうこのタイミングで、最低の追い込みときましたか。こうかはばつぐんだ、って感じ。
「これは加護などではない。庇護と呼ぶが相応しい」
 シュウザが言った。その通りだ。ダルガはその場の空気などいざ知らずといった風情で、くつくつ哂い返した。喜劇を見ているように。
「上手いことを言う」
「何を……。戯れとお思いか」
 最もな事を言う。当事者の色でさえ、今更、と思うほど。ずっと守られている。心が腐りきるほどに。シュウザはその当たり前の事実を、当たり前のことのように、簡単に言い放った。
 逆光の光に目が眩んでいるか、もしくは見えてさえすれそ知らぬふりをする者でなければ、当然の行いだった。その当然の行いをする者が、今の今まで居なかった事が、ありえなかった。知っていたのに、解っていなかった。みんなが優しいから。
 ――それだけ?
 考えようとしても、うまく考えられない。頭の中がもやもやして、うまく思考が繋げられない。
「天上の籠は余程広いと見える。そのまま高みの見物でもしておられるが良かったものを、何ゆえ下界に降り立たれたのか」
「詰まらん口を利くものだ。もっとましなことを言えんのか」
 色の代わりに返された返答に、カッと、火花が散ったように感じた。シュウザの瞳の奥に、憤怒の炎が揺らめいた。ダルガに対してではない。その焼けるような眼差しは、色へと真っ直ぐに注がれている。
「ならば申し上げましょう。我々とて、囁く為の唇を、聞くための耳を持っている」
「睦言には事欠かないな」
「茶化さないでいただきたい」
 何を言いたいのか。解らないながらも、ぼんやりと思う。ダルガが自分を庇うなんて、珍しいなあと。いつもは苛める側の癖に、人にその役を取られると気に食わないのだろうか。完全に苛めっ子の心理だ。
 それだって、どちらにしても、変わりは無い。どちらが言ったところで、言われることに変わりは無い。突きつけられる糾弾に、痛罵に、真実に、変わりは無い。今回の代弁者はシュウザ。それだけの事だ。
 さあ聞こう。止まればたちどころに崩れ落ちてしまいそうな気がするから。
「シュウザ……さんは、」
「シュウザで構いません」
「……シュウザは、あたしに言いたいことがあるんだね。それはシュウザにとって無視できないことなんだよね」
 何を言っているのかと、疑惑の眼差しを受ける。それでもこれは、大事なことだ。
 だって色は、今まで一度たりとも、こんな話しに耳を貸したことは無い。これが直訴なら、色は、覚悟をとして耳を貸さなければならない。責任も、生まれる。
 恐ろしいことだった。力を持たない色がその責任を負って、何が出来るだろう。それでも拒むという選択肢はもう、ない。自身の罪を知ってしまったから。
「シュウザは今日一日、ずっとあたしを見ていたね。傍で、ずっと。その間、何もしてこなかった。ダルガの命令に忠実ってだけでも、無いような気がするんだ。今になって声をかけてきたのは……」
 シュウザの目の色が変わった。ダルガも、同じく。色の言葉で、彼らの気配が変わる。
「あたしを見ていて何かを思ったんだね。一つの答えか、疑問か、どちらか。……無視できない何かを、思ったんだね」
 ただ、感じた事実を言っただけのつもりだった。それでもその飾らない言葉が、一石を投じた。
 シュウザの眼差しがゆっくりと、だが確実に、冷静さを取り戻していく。共に、また、つい先ほどまでの眼差しと同じ色を帯び始めた。この眼は何度も見た事がある。色は逃げずに、じっくりと、その眼差しを見つめ返した。
「解し難いと申し上げた。――が、今また確信を得た。意味深な物言いは、もはや虚勢でもあるまい」
 どくん、どくん、と心臓が身体を揺らす。震えていることを悟られないよう、色は薬を抱く振りをして腕に力を込めた。何故だかはわからないけれど、今は、怯えてはならない気がする。それを悟られてはならない。そんな気がする。
 じっとりと、重い空気が胸にのしかかる。数秒か、それとも数分か、幾分かの間の間、にらみ合いに近い状態を賭した後、シュウザが口を開いた。
「かような噂が御座います。天上人のお耳に入れるには、いささか無粋な巷説が、ひとつ。……ご存知でしょうか」
 ふるふると、無言で色は首を振った。
 ――噂。そんなもの、聞いた事など無い。それもそうだ。伝えるものさえ居なかった。どうして考えなかったのだろう。そんな事さえ、気にしていなかった。まるで耳を塞ぐように。
「お聴きになるか」
 また無言で、頷く。シュウザはじっと、色を見つめ返した。
「彼の方は天使にあらず。その実皇子の拾い物で、元は下賎な奴隷の身の上であると。まことしやかに、飛び交う戯言です」
 そうだろうと、その目が言っていた。
 聞いた瞬間浮かび上がったのはラミストの顔。何故だか、罪悪感で胸がいっぱいになった。
 どうかそんな風に微笑まないで。そんな事を言ったら、貴方は一体、どんな顔をするのだろう。

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