極彩色伝

79.Pandora.V

 あいつは、不思議な奴だ。飄々ととらえどころが無いと思えば、おかしな真似ばかりする。できもしないことに挑んでみたり、無茶なことばかり口にする。常識ではありえない態度を取って、それを平然として疑問も持っていないようだ。髪も眼も黒く、その割に肌は透き通りそうな象牙色。風変わりな容貌を持ち、脆弱な身体を意図も簡単に動かしている。まるで、この世の理から外れたところに生きているようだ。それこそ、全く異質。扱われ方さえ、尋常でない。
 あの時も、そうだ。自分がどんなに罵っても、血反吐を吐いても、睨み付けても、何をしても眉一つ動かさなかった赤髪の男は、あの天使を庇う時だけは気遣わしげな目を見せた。それは自分が抱かれている感情を差し引いたとしても、それだけあの天使自身が、そう思わせているということだ。比較されたようで、直視することも煩わしかったが。
 ――どいつもこいつも。

「虫けらみたいに見やがって……」

 誰も居ない、薄暗い個室の中で一人呟いた。誰も居ないから。あの生意気な天使だって、いつのまにかどこかへ行ってしまった。この部屋の中には、アセム一人。無機質な天井ばかり見つめていると息が詰まりそうで、肘をついて起き上がり壁にもたれかかった。
 静か過ぎる。けれどいつもこうだった。誰も自分には近付かない。寄り付かない。時の流れさえわからなくなるほど一人で、気が狂いそうなほど何も無い部屋の中で、一日中過ごしていた。きっとあの中にい続けていれば、こんな感情を知ることもなかっただろう。知らずに、生と死の狭間で無為な一生を送っていたことだろう。どちらを選ぶべきだったかなんて、今でも解らない。けれど、どのみち受け入れるものが同じならば、やはりいずれにせよこちらを選んでいたことだろう。そうだ。もとより決まっていたことなのだから、今更覆したりしない。覆されることもありえない。
 それでも。それなのに。
 ――あの天使の存在が厭わしい。
 何もかも自分と正反対のあの小娘の存在が、胸のうちを波立たせる。笑って、泣いて、訳のわからないことを喚いて、好き勝手ばかり。それに――臆面もなく、触れてくる。きっと気が触れているに違いない。そうでなければなんだというのだろう。考えている事がさっぱり読めない。眼が、真っ直ぐに自分を見てくる。今まで受けた眼差しのどれでもない、不可解な眼差しを真っ直ぐに向けてくる。あの黒い眼に見られると、どうしようもない感情を掻き立てられ、収まりがつかないほど感情が波立ってしまう。疎ましいのか、厭わしいのか、腹立たしいのか、憎いのか。ただ、どうにも我慢ならない感情が湧き上がって暴走しかける。
 ――今更。今更、何も怖れるものは何も無いと解っているのに。それなのにどうしても避けたくて、避けきれず、己を見失ってしまう。心をかき乱される。早く、早くその時がやってくればいいのに。それだけを願う。これ以上あんなものと触れ合っていたらそれこそ、こちらの気が触れてしまいそうだ。眼に浮かぶのは、あのへらへらと笑う顔ばかり。どうしてだろう。なんなのだろう。嘲笑以外の微笑など知らない。それ以外の微笑みの正体が、わからない。

「――へえ、案外いい部屋貰ってんじゃん。白血の癖に」

 思考に踏み入るように、軽薄な声が飛び込んできた。すぐにそれを察知したアセムは、その闖入者に目を細め、警戒するように睨みつけた。扉の隙間からこの部屋を見物するかのように覗いている。あの天使でも紅い髪の男でもなく、かといって尋問してきたあの男でもない。知らない男だ。
 声音といい格好といい、軽薄さが全身から滲み出ている。どうせまた、下劣な好奇心で覗いているのだろう。普通は自分を恐れ、嫌悪し、近寄ろうとも思わないはずだ。それでもこうして亜種だというだけで、勇者気取りか何か知らないが怖いもの見たさで覗く輩もいる。もう慣れた。どんな眼で晒されようと、これ以上堕ちようもないのだから。アセムはふっと自嘲の笑みを漏らすと、怯むこともなく男を見据えた。

「僕が珍しいか。あまり見ていると眼が潰れるぞ」

 大抵の者はこれほどのちんけな脅しですぐに去る。人とはなんと愚かなのだろう。見えるものにだけ怯えるその姿は、浅ましさが丸見えだ。何度も思う。本当に呪えればと。彼らの思うとおり呪い殺す事ができれば、こんなに愉快なことは無い。何もかも呪われてしまえばいい。もがき苦しめばいい。その顔が苦痛と恐怖に苛まれるなら、その為だったら、命だって何だって差し出す。一生恐れ戦いていろ。己の妄想の産物に。
 アセムは一人ほくそ笑み、男を嘲った。きっと逃げるだろうと思っていたから。しかしその予想は外れた。彼はそのまま、アセムの笑みを反射するように薄ら笑いを浮かべて中へと突き進んできた。

「随分と物々しい口を利きやがるね。躾がなってねえのかな」

 躊躇いもなく口を利き、真っ直ぐにアセムのところへ進んでくる。警戒に身構えようとした途端、それよりも先に男の手が伸びてきた。しゃらん、と装飾が鳴る。

「……つまんねえ。てんでよわっちいの」

 眼と鼻の先に、男の顔がある。アセムは何も言い返すことが出来ず、悶えた。言葉通り、言い返せなかった。男の片手で口をふさがれ、手は頭の上で一掴みにされている。脅すように、男の膝が腹部に圧し掛かり、その重圧にアセムは思わず呻いた。それでもその力はますます重さを増し、陰に潜む男の嘲笑は濃くなっていく。
 ――いつもの事だと油断した。この男は、紛れもない下衆だ。向けられる眼差しに、いつかの海賊を思い出した。

「ほら、潰してみなよ眼でも心臓でも。……出来ないんだろう? 小物が大口叩くとこんな風に、損しちゃうよ?」

 秘め事を漏らすかのように、囁かれる。吐きつけられる侮蔑に顔を背けたくとも、顔を押さえられていてそれすら叶わない。けれどアセムの胸中は、至って平静としていた。
 これも慣れている。こういう輩は、芯から相手を蔑まないと気が済まない性質なのだということも知っている。それを相手に思い知らしめる為に、どんな事もやってのけるということも。脅し、威圧し、恫喝する。馬鹿のやることだ。抗えば抗うだけ喜び、ますます図に乗ってくる。口が自由ならばその反吐が出そうな薄ら笑いに唾を吐いてやる事ができるのに。冷えた心で、自分を見下ろす男を睨み返した。

「……その眼。腹ん中に悪蛇飼ってる奴の目だよ。餓鬼の癖に大層なこって」

 膝に力が込められる。苦痛に顔をしかめると、口元を覆っていた手がするりと離れた。その代わりに髪へと移り、容赦ない力で鷲掴みにされる。顔は笑っている癖に憎いものでも見るかのような顔だ。全身から惜しげもない悪意が発されている。嫌な男だ。

「痛いか? お前の血、紅いんだってな。髪も肌もこんなに白いのに。この腹掻っ捌いたら、何色の血が出るんだろう?」

「……さあ、な。試、してみろ、よ」

 押しつぶされそうな程重圧を加えられながらも言い返すと、男はますます愉しそうに笑みを深めた。腹の中に蛇を飼っているのはお互い様だろう。でかいものがとぐろを巻いているのが丸見えだ。

「それも興味あるんだけど。お姫さんにさあ、怒られるみたいだから止めとく。……なんたってこんな奴にまでお慈悲を振りまくかね。お優しい方の御心は読めないね、どうにも」

 慈悲。
 姫という言葉にはすぐに見当がつかなかった。それなのにその言葉で、真っ先に思い浮かんだ。
 あの、天使。

「……慈、悲だと? ……ふざけるなよ。これのどこが慈悲だ」

 何が慈悲だ。優しい?何が。優しさとは何だ。もといた部屋よりいい部屋を与えることか。他人を庇うつもりで自尊心を満たすことか。優しいふりして偽善を振りまくことか。へらへら愛想笑いを浮かべて真実を誤魔化すことか。
 それが何だ。何だって言う。もしもそれが慈悲だというなら、優しさだというのなら、そんなものは要らない。必要ない。全て自己満足でしかないだろう。それで自身の徳が上がるだけだろう。こっちは何一つだって、与えられてはいない。得てはいない。あんな風に笑われたところで、何一つとして、アセムが得るものなどない。
 どいつもこいつも。どいつもこいつもくだらない。何故生きているんだろう。自分の吐いた反吐の上で笑うことに何の意味がある。一人残らず汚らわしい。そう、汚らわしい。

「あの天使の慈悲が欲しいのかお前は。なら請えばいい。畜生のように尻尾でも振って媚び諂えばいい。喜んでその慈悲とやらを振りまいてくれるだろうさ。馴れ合って縺れ合って共に地獄の淵まで転んでいけばいい」

 自分は要らない。そんなものは要らない。あんなものと馴れ合うくらいなら蛇に腹を食い破られた方が余程マシだ。自分はこんな男とは、あの天使とは、あんな奴らとは違う。どいつもこいつも莫迦ばかり。いずれ来るその時に己の浅はかさを悔い、恥じて死ねばいい。

「僕は、お前達とは違う。お前達のような屑とは違う。あんなまがい物の慈悲など、死んだって媚はしな、」

「黙れよ、化け物が」

 口を塞がれた。けれどアセムはそのせいで黙ったのではない。見下ろすその眼差しが、もう慣れたと思っていたそれが、何百回何千回何万回とも知れず受けてきたものと寸分違わず向けられていたから。もう慣れた。慣れたと思っていた。それなのに何度それを受けても、嫌というほど味わっても、この身のすくむ絶望感は収まらない。穴の開いた水壷のように絶え間なく、暗い底へと垂れ流される。
 ――ああ、蛇が、またそれを啜るのだろう。この絶望を糧にして、憎しみを腹に抱く。これが生きることの苦痛。死という底なし沼への恐怖。半身が既にそこに、浸っている。

「誰もお前の話なんか聞いちゃいない。勘違いするなよ。思い上がるな」

 そう。誰も聞きはしない。この苦痛の呻きなんて誰にも届かない。いつだって自分ばかりだ。こんなところにいるのは。

「……ほんと、なんでお前みたいなのがいるかね。普通なら赤子の時に既に殺されるはずだのに」

 薄ら笑いが影を潜めだす。嘲笑は興味へ、興味は疑問へ。疑問は疑念へ。瞳の奥に見えるそれらが移り変わっていく様子を見届けながら、アセムは押さえ込まれる口の中で歯を食いしばった。加えられる力がぐんと強まる。本格的に、脅しにかかっている。

「考えてみたらおかしなもんだよ、お前みたいな奴がここまでのうのうと生きていられるなんてさ。親が殺さずとも隠しきれるわけもない。一生を追われ逃げ切ることなどできない筈だ。……一体どういうからくりで、ここまで育っちゃったのかなあ?」

 探る言葉が肌を伝う。アセムは歯を食いしばるだけでなく、身を強張らせ、目を閉じた。何を悟らせるわけにもいかない。これしか抗うすべが無いのが口惜しいけれど、他に何も見当たらない。どんなことをされても屈しない。暴かれない。絶対に。
 静まった世界の中で、ただ一瞬の隙も逃さないような獰猛な気配だけを感じる。首に牙を突きつけられている。そんな気分だ。くつり、と嗤う気配がして、上に乗る男が身じろぎした。髪が重なり合い、首元に生暖かい吐息を感じる。怖気が走った。

「お前は秘め事の匂いがするね。やっぱり何か腹に抱えている。……だろ?」

 また口元を押さえる手が離れ、這うように下へと滑り落ちてゆく。首の筋を辿り鎖骨へと。鎖骨から、胸の上、臍、わき腹。噛み付くところを探すかのような手つきに、怖気を我慢できない。おぞましい。
 ――僕に触れるな。
 堅く目を閉じた時何故か、ありえないはずのものが浮かんだ。断ち切るためか反射的に瞼を開けた途端、それを怯えと捉えたのか目の前の男は愉悦の笑みを口元に讃えた。

「……ふふ。お前はまだ餓鬼だから知らないだろうけどね。口を割らせる方法なんざ、いくらでもあるよ」

 酷薄な笑みが口角を吊り上げる。犬歯が覗き、その合間を赤い舌がなぞった。ほの暗い瞳の奥に潜むものを知り、心臓が戦慄く。

「……貴様、」

「お姫さんにもバレないやり方を教えてやろうか。そのうちきっとお前も喋りたくなるだろうね」

 ――やめろ。
 肋の筋を楽しんでいた指先が、すその縁から蛇のように素肌の上を伝った。

「――やめっ、」

「止めておけ、ネイエフ」

 第三者の、声。鶴の一声のようにその場にある全てのものが静止した。微動だにすることも、瞬くことすら許されず、ただただ己のうちで早鐘の如く打ちつける鼓動を感じる。

「面倒を起こすな、馬鹿者が。誰が尻拭いをすると思っている」

 部屋に隙間射す光源が大きくなる。人一人通れるか通れないかというほどの隙間しか開いていなかった扉が、その第三者によって開け放たれたからだ。やや低いが、女の声だ。
 凍りついたように硬直するアセムよりも先に動いたのは、男のほうだった。その眉根が疎ましそうに寄ると、先ほどまで獰猛に冴えていた目つきが興を殺がれた様に緩む。男は小さく舌打ちをすると、扉の方へ気怠げに首だけ向けた。

「……うるせえよ。指図するな糞売女」

「まだ手は出すなとの仰せだ。破るならば不忠者ととられても文句は言えまい。私はお前なぞ庇う気は毛頭無いぞ」

 吐きかけられた侮辱すら耳に入れるつもりもないのか、部屋に入ってきたその女は男とアセムを一度だけ一瞥すると、また興味もないのかすぐにそらした。ついでの用事とばかりに、寝台の横に備え付けてあるテーブルの上のものを片付けだす。
 場違いなその闖入者の空気に一時飲まれたが、しかし男はまた殊更気怠そうに大きなため息をつき、屈めていた身体を起こした。けれどまだアセムの緊縛は解かれていない。男は一度はその眼差しを引っ込めたものの、またすぐに無感情な眼差しでアセムを見下ろした。その口角がくっと、悪辣な笑みを讃えた。
 ――突然、力任せに顎を掴まれる。ぎりぎりと容赦なく力が加えられ、それに逆らえず口が開いてしまう。腕が解放された途端、顎を掴まれたままもう片方の手で狙ったようにその隙間に指をねじ込まれた。

「が……っ」

「おっと、噛むなよ。大人しくしな、いい子だから」

 探るようにほじくられる。歯列を辿り奥歯へ届いた途端、思い切り押し付けられる。軋む顎。指に加えられる圧力。程なくして、口内でごきゅりと、生々しい音が聞こえた。

「ぅ、……っ!」

 つっこまれた指が引いていき、抑えつけられていた顎も解放される。喉を伝う、生ぬるい鉄分の味。奥歯を、もぎ取られた。男は血に濡れる指先でもぎ取ったアセムの奥歯を、愉しそうにアセムの目前へちらつかせた。

「可哀想に、お前みたいな痩せぎすがあのお方に吹っ飛ばされたんじゃあ無事で済むわけもないよなあ? ま、奥歯一つですんだんだからもうけもんだと思っときな」

 あの馬鹿力の男に頬を張られてから歯がぐらついていたのは、知っている。それを気付かれていたとは知らなかった。歯噛みしたくも、口内を動かせば血が広がる。あのえも言えない味は、慣れているとはいえ好ましくない。
 虫唾が走る。この男は本当にどうしようもない下衆だ。冷めた怒りを腹の底に積もらせ、アセムは男を睨んだ。睨むことしかできない。できなくたって、眼に焼き付ける事はできる。憎んでやる。この男を、憎み続けてやる。怨嗟の思いは絶対に捨てない。憎み通してやる。押さえつけられたままでも渾身の憎悪を込めて睨み付けると、男はますます笑みを深めながらアセムを解放し、寝台から降りた。

「……ほんと、いい目をするよ。ぞくぞくしちまう。助かったと思うなよ? またいつでもその機会はやってくる。お前が口を割るまで思う存分遊んでやるよ」

 ――まで?割っても、の間違いだろう。
 男は振り向くこともなく、そのまま去り際に、まだ後始末をしている女の背中へ向けて悪態代わりに舌を突き出すと、しゃらしゃらと装飾を鳴らしながら部屋を出て行った。女もまた、その後にすぐ部屋を後にする。無論、アセムには目もくれることなく。

 暫くその様を最後まで見届け、漸くアセムは身体を起こした。見れば腕には掴まれたあとがくっきりと残っている。
 ――忌々しい。本当に、忌々しい。愚かにも踏みにじってやったと喜ぶ痴れ者も、踏みにじられることに慣れた己も。その度にぐるぐると、腹の中で蛇がとぐろを増すばかり。
 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。生きることの、なんと心地の悪さか。良かったときなど一度としてない。自分ばかり。自分だけ。いつもいつも、自分だけが、こうして反吐を飲み込んでいる。薄い闇の中、薄ら寒い憎しみが滴り落ちる。自分ばかり。自分だけ。これまでずっと、そうだった。
 けれどもうすぐ。もうすぐだ。あの栄光の皇子とその袂に預かる天使を、引き摺り落としてやれる。今度は、あいつらの番だ。
 薄ら笑いが、独りでに浮かんだ。部屋の中でただ一人。蛇が怨嗟を巻き続け、腹の中でそれを飼い、今か今かと憎しみを食む少年。いずれ来るその時を己の栄光と信じて、ただひたすらに、自嘲とも愉悦ともとれない笑みを浮かべていた。

  

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