極彩色伝

77.Pandora.T

 とにかく、とにかくだ。手早く薬を貰って、できれば軽食も貰えたら貰って、速やかにアセムのところへ戻ろう。アセムが心配なのもある。けれどそれ以上に色にとってこの男と行動を共にすることは、とんでもない苦行に思えた。一列になって歩いているだけだというのに、空気が重いったらない。大体、付き添うにしたってなんでよりにもよってこの人なのだろう。嫌いというわけではないけれど、やっぱりまだ得体が知れなくて少し怖い。
 おいでなさいって、こっちが付き添いかよ。
 色は誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぼそりと愚痴を呟いた。

「ならば行かれるとよろしい」

 彼は突然振り返り、道を譲った。

「う……え?」

「さあ」

 さあ、って。この男、地獄耳か。思わず躊躇したけれど、身を引いた男はもう色が先を歩くまで動かないつもりのようだった。いつまでも睨みあっているわけにも行かず、躊躇した色は歩き出した。けれど二歩三歩と進んで、すぐに足を止めて振り返る。

「……薬、誰が、持ってるの?」

 結局自分の愚痴通り、色は付き添いのように男の後についていく他なかった。





 連れてこられた場所は館から出てすぐの、後ろの林を駐屯地としているテントの張られた場所だった。テントと言っても、殆んど吹きさらしだ。多少の雨避け程度にしかならなそうだった。けれどそこには遠征に携わる兵や諸々の関係者が入り乱れているらしく、表の町よりも活気だっていて、そんな場所のことも知らなかった色はそれを目の当たりにして目を丸くした。
 事前に言われていた、フードを被っていろという男の示唆で悪目立ちする事はなかったけれど、それでも風貌の違う子供が大人に混じっていることで、色は多くの視線に晒されつつ男の後を追った。通り抜ける中ちろちろ好奇の眼差しで見られたけれど、別に嫌な目線ではなかったからいい。けれどこんなに楽しそうなところがあるなんて知らなかった。と、色は少し損した気分になった。

 男の後についてテントの奥へ進むと、ちゃんと布張りをされたところに行き当たった。そこの入り口を潜ってみると、ずっと奥まで簡易式のような木の寝台が並び、幾つかそこに横たわっている人も見えた。足に包帯を巻いていたり、上半身が包帯に覆われていたり、見た感じには外傷が見えない人も横たわっている。これは、河での戦いで傷ついた人達なのだろうか。傍を通りながら幾人かを眼で止めて、色は考えた。
 色はあの時船から落ちて、けれど奇跡的に何の怪我もなくラミストの元に帰ることができた。けれどやはりそんなものは本当に、奇跡でしかない。普通ならありえない奇跡にあやかって、色は彼らのようにはならずに済んだ。もちろん彼らは色のような奇跡にあやかることが出来ず、ああなっている。今だって身体中に巻かれた包帯を血に染めている人がいて、一人で起き上がる事が出来ない人がいて、身体の一部を失った人がいる。家に帰れず、慣れ親しんだ自分の寝床で心地よく眠る事が出来ず、会いたい人に思いを馳せても会う事が出来ないでいる。ここにいる人たちがその現われだ。
 気付きもしなかった。というより、考えもしなかった。自分は一体何を考えていたのだろう。乗り越えたつもりで、それは目先の小石に捉われていただけの話だったのではないだろうか。
 色は、何も失っていない。けれど、少なくとも今この場にいる彼らは、何かを失って今ここに在る人たちばかりだ。どうして眼に映らなかったのだろう。どうして、映さなかったのだろう。

 それらの光景を眼に焼き付けられ辿り着いた先はテントの最奥の隅にいる、一人の初老の男だった。男が言うには、彼は遠征に随従する医療班の最高責任者なのだそうだ。彼の許しがなくば兵卒乃至関係者以外への薬物の使用及び持ち出し、医療道具による治療行為は出来ないという。

「どうして?」

「どうしても何も。必要ないと判断申し上げる」

 男の髪は、白髪なのか地毛なのかわからない灰色をしていて、くたびれた表情を半分覆い片方の目までも隠している。けれどもう片方にはめ込まれた、片眼鏡の奥に潜む蒼い瞳がはっきりと、何を馬鹿なことをと、訴えていた。そのまま次の言葉を言いあぐねる色を無かったことにするように目を逸らし、小椅子に座りなおす。カラン。と、放り投げられた匙が燻った銀色の器の上に放り投げられた。男はそれまで診ていた青年に行け、というように顎で示すと、足元に置いてあった桶に手を浸し洗い始める。腰に巻きつけた前掛けも、彼の纏う服も、染みだらけだった。きっとその多くは、ここに訪れる者と、横たわる彼らのもの。

「あの、」

「……まだいたのか。無いものは無い、お引取り願おう」

 無いものは無い、なんて事は、無い筈。だってここはそういう場所なのだから。そうは思っても、言葉が見つからない。どうにかして、薬を貰いたい。貰いたい、のに、うまい言葉が見つからない。どうしてだろう。
 そうして片眼鏡の彼はまた色を無視するように横をすり抜け、傍に仕えていた助手らしい青年を連れて歩き出した。色は振り返るも声が出ず、逡巡し、そして男を仰ぎ見た。男は色の視線に気付いたけれど、動くことは無い。ただ言うにいえない言葉を呑むこむ色を見下ろし、眺めるように目を細めるだけだった。
 ――ああ、なんて、愚かなんだろう。どこまでいっても抜けきらない、このおこがましさ。最初に彼はちゃんと自分は付き添いだと言ったはずなのに、何かを期待して自分の意を押し付けようとするなんて。色がこんな姿勢だから、相手に侮られる。馬鹿にされる。自分が恥ずかしくなり、半ば逃げるように片眼鏡の男の後を追った。
 ――ここで自分が自分ひとりの力でなんとかしなければ、戦うと言った言葉さえ嘘になる。今は一人。誰にも甘えちゃいけない。

「あのっ、どうしても必要なんです。少しでいいので、分けてください!」

「嫌だよ、馬鹿ったれ。とっととどこへなりとも行ってくんな」

 それが男の本性なのか辛うじて付け加えられていた謙譲語も消えうせ、憚りもなく至極迷惑そうにあしらわれてしまった。しかも歩幅が広くてついていけず、色は小走りになりながら言い募る。どうやら彼はこれから寝台の患者への診療に廻るのか、助手の青年に道具を持たせ一番近い寝台の方へと歩いている。

「でも欲しいんです!」

「だからなんだよ。お前さんにゃあ、どっこも傷一つ見えやせんがね。おら、邪魔だってのに」

「だ、だっ」

 だから自分じゃなくて!と言い募ろうとして、問答無用で背を向けられ、聞く耳を持たない姿勢で邪険にされてしまう。色は寝台の反対側へ廻り、どうにか話を聞いてもらおうとした。邪魔に思われても、おめおめ引き返せない。

「だから、使うのはあたしじゃないって、」

「どの道同じことさね。ガキなんぞ傷をこさえてこそ強くなるってもんだ、唾でもつけてりゃ十分だろうよ」

 そんなのってない。あんなに変色した身体を放っておいたら皮膚が壊死するかもしれない。塗り薬くらいは必要だ。なんでこの老人はこんなに偏屈なのか。色は、薬くらいいいじゃないか、けち!と、思わず睨む。それでも老人は無視を決め込んで、腕をまくり自身の準備を始める。助手の青年も困惑したようにこちらをちらちらと見ては来るけども、決して眼を合わせようとはしてこなかった。
 聞く耳持たない、頑固親父。怪我人を見るのが医者の役目じゃないのか。むすっとふくれ面をつくると、ふいに笑い声が上がった。

「じいさん、聞いてやんなよ。こんな可愛い嬢ちゃんにむくれッ面は似合わねぇって」

 可愛い?!
 言われなれない賛辞の言葉に過敏に反応した色は、その声のほうへと眼を向けた。誰かと思えば、今目の前に横たわるその患者。頭も片目も、掛布より上から見える身体も包帯まみれの男だ。きょとんと目を瞬く色に顔だけ向けて、男は怪我のことなど知らんと言わんばかりの屈託の無い笑みでにっと目を細めた。

「あんたどこの娘さん? こんなところにいるなんてそれだけで珍しいなあ」

「……あの、」

「……おや? もしかして、」

 じいいっと、凝視される。見つめられすぎて、穴が開きそうなほどだ。どうしよう、と色の眉が八の字に下がった途端、男は喜色満面の笑みを浮かべて声を上げた。

「あんたまさか噂の天使様か? なあ!」

「いや、あの、」

「本当に眼が黒いときた! 髪は? 見てみたいなあ!」

 怪我人の癖になんて元気なんだ。見せてくれと言われたって、色も困る。いいのかなあ、と自分に忠告した男を見上げる。已然ただ眺めるだけの眼差しを向ける彼はうんともすんとも言わず、けれど難色を示すわけでもなかった。
 ――ダメだったら、ダメっていうよね。
 自信がなくて少しおどおどしつつ、被っていたフードを下げてみる。一瞬、周りが空気を飲んだように静かになる。なんだなんだと後ろを見ると、隣りの寝台の男もその隣の患者も、その辺一帯の者が揃ってこちらを向いていた。いつのまにこんな注目を集めていたのか。異様なほどの視線の集中に耐え切れずまた包帯の男のほうへ目を戻すと、彼もまた魅入るようにこちらを見つめていた。怪我人の男はみるみるうちに眩そうに目を細め、それは羨望への眼差しに変わっていく。
 色は、たったこれだけでそんな眼を向けられることに、戸惑わずにはいられなかった。

「ほんとに黒目黒髪ときたよ……おまけに肌も白い。綺麗なもんだ、混じりけ一つ見あたりゃしねえのな」

「……えと、」

「お会いできて光栄です、天使様。俺はルカンって言います」

 惜しげもなくかけられる賛辞の言葉が面映い。その盲目なまでの好奇の眼差しを受けているのがなんとなく恥ずかしくなり、自分の顔が赤くなっていくのを感じた。なんなのだろう。こんな事、今までなかった。

「い、いる、です……ルカン、さん」

 ちらりと、盗み見ながら呼んでみた。その瞬間の、包帯から覗く彼の眼差しときたら。とても嬉しそうに穏やかに緩み、暖かい眼差しで色を見つめ返してくれた。たった一度、名前を呼んだだけだというのに。なんだか、どうしてか、それを見たら、思わず胸が詰まってしまった。どうして彼は、たったそれだけの事に、そんな嬉しそうな顔をするのだろう。

「嬉しいなあ。俺みたいな下っ端が、こうして拝顔できるどころか、お声を直接聞けることになるなんて」

 その嬉しさが声からも表情からも滲み出ているように、伝わってくる。何故だかやるせなくて、その眼差しから逃げるようにして伏せた色の目線の先には、掛布の下でもぞもぞと動くものがあった。男の手だろうか。怪我をしているとうまく動かせないのかと思い、色はその掛布に手を差し込み、腕が出せるように手伝った。
 その時にやっと、気付いた。色の手の中にあるその腕は、肘から先がなかった。その、あるはずのものが足りない先端は包帯でぐるぐる巻きにされて、色の手の中にあった。

 それを見て、やっと。
 やっと、その重さを思い知った。

 自分が思いつきと勢いだけで口走った言葉で、どれだけの人が。どれだけの人が、どれだけ多くのものを失ったか。色が、奪ったか。目に見えるものだけじゃない。目に見えないものも。今自分を見て嬉しそうに笑うこの男から、色が何を奪ったか。
 ようやく、思い知った。思い知って、詰まった思いが溢れかえって、涙が零れた。泣いていい立場では無いのに。泣くことさえ許される立場では無いのに。零れる涙が、ぼろぼろの包帯に包まれた男の腕に、一つ二つと、染み込んだ。

「ありゃ……泣いてしまわれた」

「……っ、ごめん、なさ、」

 謝る資格だってない。それなのに、何一つ真実を知らないこの男に向ける言葉が、たった一つしか見当たらない。それでも言えない。大切なものを失ったその肘までしかない腕を抱きこんで、必死に嗚咽をかみ殺した。

「そんなに泣きなさんな。何を謝ることがありましょうや。ほら、可愛らしいお眼が腫れてしまうよ」

 彼は困ったように微笑み、肘までしかないその腕で色の涙を拭おうとする。それがますます色を哀しくさせて、やるせなくさせて、漏らす声さえ奪っていく。目じりにできた笑い皺に、人となりが滲み出る。きっとその包帯の下の笑顔だって、とても素敵なはずなのに。どんな傷を負わされたのか、隠れて見えない。

「おーおー。ったく、煩えったらねえな。娯楽がねえもんだから口ばかり達者になりやがって、こんなちびっころまで引っ掛けようたぁ。役立たずはただ飯食って糞して寝てろ。治るもんもなおりゃしねえ」

「ひっでぇ。そりゃねえよじいさん」

 呆れきった老人の声が色の嗚咽を遮り、ルカンが情けない声を上げた。ぐじゃぐじゃの目で辛うじて顔を上げると、寝台の向こう側で、老人は先程よりもずっと疎ましそうな眼をして色を睨み付けていた。苛立ち混じりの眼差しが、邪魔だと訴えかけてくる。その眼差しの意味が解る気がして、色はもう何一つ言えなくなってしまった。
 自分はここにいるべきではない。いる資格も無い。やっと、思い知った。

「ふん。シュウザ、さっさとそのちびっころを連れて行かねぇか。ちょこまかうろつくと思いきやいきなり泣きじゃくりだしやがって、邪魔臭くてかなわん」

 老人は色の後ろの男をきつく睨み、顎でしゃくった。ずっと色の後ろで寡黙に佇んでいた男は、老人の剣呑な眼差しを受けても平然として、眉一つ動かさず首を横に振った。

「閣下より邪魔はするなと仰せつかっている」

「邪魔ァ? ……ちっ、赤髪の小僧っこが舐めた口を利きやがる。どいつもこいつも偉くなったもんだね、全く」

「……じいさんだけだよ、あの方にそんな口が利ける人は」

「うるせえ」

 ルカンが呆れ混じりに呟いてみても、老人には通じない。ただその場の空気にそぐわない程意気消沈した色を見あぐねたように、老人はがしがしと乱暴に後ろ頭をかき、大げさに嘆息をついた。

「おい、あれ持ってこい」

「え、あ……は、はいっ」

 後ろの助手に命令すると、老人はよっこいしょ、という掛け声と共に重い腰を上げた。そのままゆったりと色のほうまで移動すると、どこにそんな力があるのか、色の背中の服を鷲掴みにして片手で軽々と持ち上げた。突如のことに驚きで涙も止まった色に目もくれず、老人はそのままテントの布張りの入り口へと歩き出す。またその後につくようにシュウザと呼ばれたあの男も歩き出し、何がなんだかわからないままにそのまま入り口へと運ばれてしまった。
 そこにたどり着くと、老人はどうしようもなく持ち運ばれるままだった色をぞんざいな扱いでシュウザに押し付けた。それをシュウザは当然のように受け取り、まるで色は荷物のように脇に手を差し込まれ宙ぶらりんのまま譲渡されてしまう。
 こんな扱い、普段の色ならばキーキー暴れて怒り狂うものを、この時ばかりはただなすがままされるがままでいた。頭の中の色々なことに整理がつかなくて、けれど心のどこかでは、ここから出られるとほっとしていた。老人は不機嫌極まりない表情でそんな色を見下ろし、助手から受け取った小包をぐっと色に押し付けた。

「これ持ってとっととどこへなりとも行っちまいな。……いいか、俺はな、俺ァ、見えないもんはとことん信じる。見えるもんは丸ごと疑う。そう決めてんのよ。解るか?」

 解らない。けれど少しだけ、解る気がする。その相反した気持ちで、始終偏屈な態度を貫き通した老人のその真っ直ぐな眼差しを受け止めて、色は頷くでもなく否定するでもなく、その眼差しをじっと見つめ返した。
 きっとこの人は、色のことを天使だなんて、これっぽっちも信じていない。色を『ちびっころ』と呼んだ、それ以上もそれ以下もなく、ただそれだけの存在として見ているのだろう。それは色をただの色としてみている事であって、けれど決して信じていないという証でもあった。お前を信じていないと、真正面からそういわれるのは、何か頼りない、心細さを覚える。それでも、同時にほっとしていた。老人の偽りの無い真っ直ぐな瞳は、その白髪交じりの灰色の髪と違い、何一つとして混じりけがなかった。
 けれど何も反応を示さない色を見て、老人は怪訝そうに片眉を上げた。

「解らねえってか。いいけどよ。でもなあ、おい、これだけは覚えておけよ」

 両手で小包を受け取った色に、更に突きつけるように、人差し指を小包に押し付ける。
 心のど真ん中に向けられている。そんな錯覚。

「ただでさえ備えておかなきゃならねえもんなんだよ、それは。今だってありすぎたって困らねえ、大手を振って大喜び万々歳ってな現状だよ。ええ、解るか? 慈悲深い天使様よ」

 ぎゅ、と押し付けられる。ぎゅ、と握り返した。
 はっきりと言い聞かせる老人の、正当な憤りのこもった、真っ直ぐすぎる眼差し。心がぎゅっと、縮こまった。

「敵船のお荷物に、しかもあんな白血種の化けもんにやるもんなんざ、本当は何一つありゃしねえのよ。やりたかねえんだよ、俺ァ。血溜まりの中を駆けずり回るあいつら診てきた、俺はよ」

 アセム。
 何故だか脳裏に、独りぼっちの少年の姿が浮かんだ。

「てめえはもう出入り禁止だ、ちびっころ。二度とくだらねえ用で来るんじゃねえぞ。怪我したって診たかねえよ」

 それだけ言うと、微塵の名残もなく老人は踵を返し天幕の中に戻っていった。
 染み着いた薬のにおいに混じる、苦い煙の匂いを纏っていた偏屈な老人。態度が悪ければ口も悪い。始終不機嫌な顔をして、深い皺を眉間に刻み込んでいた。
 けれど色は忘れない。長い間色んな人を診続けて、使い古した皮の分厚い手のひら。皺だらけのごつごつした指先で、ぶっきらぼうに、色の目じりの涙を拭った。
 その感触だけはきっと、ずっと、忘れない。

  

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