極彩色伝

75.忠犬は天使の夢を見るか

 固くてぼろい、古い木の椅子。その上にちょこんと座り、足を交差して体育すわりをした。冷たくて、じっと座っていると堅すぎるせいかお尻が徐々にじんじんしてきて、何度も座り方を変えては格子の向こうを睨んでいた。直接見るのが怖くて、直接見られるのが怖くて、与えられた毛布とも呼べないほど薄っぺらい布に包まり、身を隠してこっそりと睨んでいた。
 見慣れない民族衣装を身に纏い、始終テントの中を練り歩いては男に媚びた目を向け、しなだれかかる女の人たち。何がそんなに偉いのか、下卑た笑い声でそこかしこを闊歩して、売られるものに野次を飛ばし唾を吐きかける男の人たち。布かどうかも判別出来ないぼろきれを纏い、たった一本の縄で足をくくられ何人何束と売られ買われる、揃いも揃ってぼろぼろに痩せ細った人々。
 隣では動物の鳴き声がひっきりなしに嘶いていて、何処からかの格子と鎖の擦れる金属音が耳に張り付く。綺麗な装飾に身を包んだ老人が薄ら寒い笑みでこちらを眺め、その隣では同じ笑みを浮かべる老人が媚び諂って何かを捲くし立てている。
 こんなに狭いテントの中に、この世の地獄の淵が見える。阿鼻叫喚か歓喜雀躍か。矛盾が矛盾と映らずに、それが現実と謳歌している。一日中、錆びて穢い檻の中。泣くことすら既に諦め、一日に何度も、数え切れないほど何回も、心の中で訴えた。

 神様。ここには鬼がいます。
 ここには悪魔がいます。
 ここには地獄の餓鬼がひしめいています。
 でもここには人間が見当たりません。
 どうしてここには、人間がいないのですか。
 どうしてあたしは、ここにいるのですか。
 神様。あたしは人間では無いのですか。
 神様、助けてください。
 神様、助けてください。
 神様、助けて。
 あたしは人間です。
 どうかここから、あたしを出して。



 人は追い詰められると、こんなにも簡単に人間の皮を剥いで捨ててしまえるの。
 今だから思えることも、また同じ目に合えばどうなるかわからない。檻の外で泣き叫び、動物のように引き摺られていく子供を見ても、それが自分の姿でないから、ただほっと胸を撫で下ろしていた。どう見ても自分と同じ境遇の子供を見ながら、自分と違うと割り切っていた。あんなにも残酷な自分がいるなんて、檻に入らなければ一生知る事はなかったのに。
 平和な世界の中でどんなに善人ぶっていたとしても、悪いことを一つもしたことが無かったとしても、平和でない世界の中では塵一つにさえ価しない。結局地獄の釜の中でしか本当の自分を見る事はできず、毒の杯を飲み干さなければ全てを吐き出すこともできない。底のない沼の淵には、鬼や、悪魔や、みすぼらしい餓鬼の姿が、自分を映して嗤っている。
 見たもの全てが自分の鏡。残酷な世界は、残酷な心の現われ。世界で一番醜くて、世界で一番汚い心の持ち主は誰だったか。神様に一番遠いのは、誰だったか。
 彼に救われなければ、思い知ることもなかった。

 ラミスト様。
 ラミスト様。
 ラミスト様。
 あたしを助けてくれた人。
 あたしの天使様。





「酷いことしないで!」

 再び意識を失ったアセムを両手に抱きながら、色は背後のダルガを詰る。力なく横たわるアセムの頬は紅く腫れ、口角は血で滲んでいた。こんな子供に加減もない暴力を与えて平気な顔をしていられる心根がわからない。だから暴力なんて、大嫌いだ。世界で一番嫌いだ。痛くて怖くて理不尽でしかない。そんなものを見るたびに、振りかざされるたびに、その理不尽に悔しさと怒りを覚える。それを行使しても平然と笑っていられるダルガをどんな目で見ていいかすら、わからなくなってしまう。
 彼の目には一体自分がどう映っているのだろう。アセムを叩いたその手のひらは、少しも痛んではいないのだろうか。

「酷いこととは、なんだ?」

 薄ら笑いで小首を傾げられる。本当に解らないのか。内心ぞっと感じてしまうほど、薄っぺらい微笑だった。

「ダル、ガ」

「さて……その餓鬼か、それともお前か。どちらにせよお前が守っているものは他愛もなきものさ」

 穏やかな笑みと口調で、ゆったりとにじり寄ってくる。どうしてかダルガの眼差しにはその穏やかさと相反する苛立ちが見え、色は答えるべき言葉を見失った。笑みを讃えながらも抑えきれていない、自分に向けられたその苛立ちの理由がわからない。
 戸惑っている間にも、ダルガは身を屈め色の顔を覗きこむように見上げてきた。その眼差しがまた、やけに挑発的。目つきは鋭利に、冷え冷えと嘶く。

「余裕なものだな。愚かも極めると興醒めするだけだ。立場を弁えていないにも程がある」

「……何さ」

 馬鹿と言いたいのか。言われ慣れているけれど、今の言い方は妙にムカッと来るものがある。失敬すぎると思いつつ、やっぱり怖くて言い返せない。ええい、土壇場になると臆病になる癖は治りようがないものか。
 せめてもの反抗でむっと口を尖らせて睨み返すと、ダルガはますます白けた眼差しになった。

「お前な、よもや俺が言ったことを真に受けているのでは無いのか」

「だ、だから、なにが」

「確かに俺はお前を守らせろと言ったが、保障などどこにもありはしない。俺は、気まぐれだからな」

 そういえば、そんな事を言われた気もする、と色は思い返す。これはもしかして暗に、『調子に乗ってると守ってやらないぞ』と言われているのだろうか。
 確かにあの時言われた事は嬉しかったけれど、色は別に真に受けたつもりもない。もう守られてばかりは嫌だと散々思い知って、守れる人になりたいと誓ったのだから。
 ダルガは、自分の言葉に従順にならない色に腹が立ったのだろうか。普段思い返せば不敬極まりない言動を色が繰り返していても平然と流していたダルガだったけれど、やっぱり彼もお偉い王族様には違いないのかもしれない。自分の言うことを聞かない輩は気に食わないのだろうか。なんだそんな事かと色はこっそりため息をつき、ダルガを見上げた。

「あたしだって馬鹿じゃないんだから、危険なことなんてしないよ。最低限、気をつけようとは思ってる」

 今のところはこの館の中に居れば人も多いしそれほどの危険は無い。アセムだって今は色が興奮させるようなことを言ってしまっただけで、そこまで危険でもないだろう。ダルガが無理して色を守ることなど何もない。苛立ってまで傍にいる必要もない。気まぐれならば、色がどう言っても変わりないのだろう。命は惜しいし捨てたつもりもないけれど、こっちの面倒な御仁を怒らせる徒労を繰り返しても仕方がない。
 色は、どうぞ放って置いてくださいと、そっけなく顔を背けた。けれどちらりと盗み見てみると、何故か逆に、寸でのところで引っかかっていたダルガの薄ら笑いが消えうせた。彼にしては珍しく無表情に色を見下ろし、手荒な手つきで色の頤を持ち上げ無理矢理視線を合わせる。

「だから馬鹿だと言っている」

 どこでやぶへびをつついてしまったのか、余計怒らせたらしい。いつになく凄まれ、怯えた色はすくみ上がる。肉食獣のような鋭い眼差しが、噛みつかんばかりに色を睨む。喉仏に牙をつきつけられる小動物のような気分だ。けれど引き気味の色をダルガの手は離してくれない。

「頭の足りないお前にもよく解るように教えてやる。今お前を取り巻いている現状など所詮薄氷に過ぎん。その日和見な脳みそは即捨てた方がいい。都合のいい奇跡など、所詮刹那の夢幻でしかない」

 解るようにと言った割に、何のことを言っているのかさっぱりだ。そんな歪曲した言い方では何一つわからない。
 答えようがなくて口をすぼめると、戒めるように顎を使む指先に力が篭る。痛くて顔をしかめると、鼻笑いで一蹴された。どうしてそんなに容赦なく笑うのだろう。まるで加減を見失っている。それも、意図なのか。

「いいか」

 瞳の奥で混沌と渦巻いている、煮え立った苛立ちと焦燥。色を射抜くように、向けている。

「立場を弁えろ。お前など、本来何の価値もありはしないのだから」

 ――ああ。
 ああ、そう。
 今の言葉で漸く、はっきりと理解する。
 ダルガが怒っていたのはこの事だったんだ。 思えばダルガはラミストと、アナトと、色が持つ真実を知っている人だ。真実は色は天使でなく、ましてやこの国の人間でもなく、誰かが求めたわけでもない、ただ偶然でラミストの温情により助けられた存在でしかない。この国に住まう王族のダルガやラミストとなど、本来肩を比べることなどできるはずがない、ましてや存在として比べることすらできない。この国から見れば色は、ありえないとさえ言い切れる。
 その事をダルガは言いたかったのだろう。立場を弁えていないとは、それを指していたのだろう。言われてみれば確かにその通りで、色は何の価値もなく、ただ誰かに二束三文で売られるくらいの運命で、ちょっとした奇跡で助かったに過ぎない。調子に乗るなということ。本当に、滑稽すぎて、腹立たしく思ったことだろう。
 理解すると急に心の中が凪だように静まった。ほんの少しの哀しさと、ほんの少しの切なさが、たった一滴から伝わる波紋のように広がってゆく。心には、鈍い痛みが生まれる。

「――うん」

 取り敢えず、なんとなしに頷いた。頷きながら、心の色がじわじわ変化していく気がした。静かに澱んでいく。
 それなのに見上げて見えたダルガの顔は、色が頷いた瞬間ほんの少しだけ、気にくわなそうに目を細めた。

「本当に解っているのか。保障などない。俺だけではない、ラミストさえもだ」

「……うん」

 言われなくても解っている。ラミストに捨てられることを何度想像したか知れない。あの人がいつ自分を抱えきれなくなって放り出すか、沢山想像した。最初から自分が立っているのが薄氷の上だと、色にも解っていた。奇跡にその後の保証などない。人の心にだけは、神様の奇跡も届かないのだから。
 もしその時が訪れたとしても、色は享受するしかない。受け入れるしか、他に道は無い。それなのに考えれば考えるほど、とめどなく胸は痛み、奥の奥からじわじわと、蝕まれる。辛い。怖い。痛い。

「そうだね。いつかあたしは捨てられる。今すぐにでもどこかに放り出されるかもしれない。そう思い行動しろって事だよね」

 自分の言葉が鞭となり、いたるところを無差別に当たりつける。じわじわと、心の表面があざのように死んでゆく。ラミストを思えば思うほど、息も枯れ果てそうだ。
 目の前に彼がいなくてよかった。みっともなく泣いて、縋り付いてしまっただろう。本当は捨てられたくないし、守られていたいし、傍にいて欲しい。絶対の保障があればいいのに、なんて考えている。こんな身寄りもないよく知りもしない他人だらけの、自分がいた世界と全く違う世界に一人放り出されたら、それだけでおかしくなってしまうかもしれない。
 でも本来保障を受ける義理などどこにもない。それなら、一度助けられた色に義理がある限り。義理がある限り、その間だけ、彼の傍に居る。それしかない。

「解ってるもん。でもダルガの言うことは聞かない」

「なに?」

 哀しい。捨てられたらと、想像するだけで哀しい。哀しくて、溺れそうだ。でも、泳ぎ続けなければ。

「……捨てられるその時までは、あたしはラミスト様の天使だ。どんな保障もいらない。ダルガの気まぐれだって関係ない」

 別れ方は人それぞれ。それでも、別れはどんな人にも等しく訪れる。だからいつか訪れるそのときまで。

「捨てられるその時までは、あたしはラミスト様の天使としてがんばるの。……絶対、頑張り続けるの。頑張ってやるの」

 自分に言い聞かせるように呟いて、けれどそれ以上辛い事を言われるのが怖くて、色は俯いた。
 ――ダルガの馬鹿。気にしてることズバッと言いやがって。
 目に溜まったうるうるが決壊する前に、乱暴に服の袖でぐしぐしと拭った。泣くもんかと思った。泣いたらまた馬鹿にされる。また笑って哀しくなるようなことを言われるに決まっている。
 胸に詰まったものをぐっと堪えて、色は顔を上げた。今度また何か言われたら暴れてこの部屋から追い出してやる。そう決意して。
 けれど――予想は外れも外れ、大外れだった。
 ダルガは笑うでもなく怒るでもなく、理解しがたいものを見るかのような目で色を凝視していた。それまでじっと押さえていた色の頤を力抜けるように離し、思案するように目を細める。それまでの嘲笑や苛立ちが嘘のように失せていて、その碧い瞳は段々と苦々しいものに変化していった。もどかしそうに、首を振った。

「そうではない」

 瞳の奥の矛盾がちらり。ちらり。水底を、傷つけてはたゆたう。

「お前の与える一途の慈悲さえ一欠けらの供物にもなりはしないと、俺は言っているのだ。己の神より至上の信仰など、何人も持ち得ない」

 見放された子供のような表情を浮かべ、その無骨な指先が、壊れ物にふれるかのように頬を撫でる。優しい仕草が、ちくりと胸を刺す。
 どうしてか、わからない。色には、どうしてダルガがそんな顔をするのかわからない。ラミストと同じ色の仄暗い瞳の奥で、ちらりと光りたゆたう刃を抱え、傷をこさえては途方に暮れている。――――痛くてたまらない、って顔。

「お前はどこまで……己を省みずに、その華奢な手を差し伸べるつもりか。秤にかければ簡単なものだと、何故気付かない」

 何が痛くて、手を伸ばしてくるのだろう。色にはわからない。慰める言葉も浮かばない。どうしていいかわからない。けれど取り敢えず、よしよしと、小さい子にしてあげるように頭を撫でた。不安な時はこうするのが一番だ。不安なんて、払い落としてしまえばいい。何度でも、何度でも。

「ありがとう、ね。さっきも……いつも、助けてくれて」

 夢でやり損ったことを今度は実行することが出来て、色は漸く満足して、にっこり笑った。





 暫く撫で撫でしているうちに、なんだか楽しくなってきた。ダルガにしては珍しくセクハラも意地悪もなく大人しい為に、つやつや煌く紅い髪が撫で放題だ。普段手が届かない為に触れることも出来ないので、触り放題出血大サービスと言ってもいいほどの状態だった。
 見れば見るほど惹き込まれる、綺麗な深紅。透き通りそうなほどの鮮やかさに、獣のようにところどころ跳ねている癖っ気。大きな猛獣を撫でている有閑マダムの気分でここぞとばかりに毛並みを楽しむ。いつもこうであったら素敵なのに。
 そうして気が抜けてご満悦になっているその隙に、いきなり撫でていたその手を掠め取られた。

「ぬっ?」

 も、もしやまたよく解らない理由で怒り出すのだろうか。
 瞬時に警戒心を取り戻して手を引っ込めようとしたが、ダルガの手は色の手をしっかりと掴んで離してくれなかった。その代わり、妙に神妙な眼差しで、その碧い瞳に捉えられてしまう。

「おい」

「な、なな、なんだよぅ……」

「何故お前はそこまでラミストに固執するのか」

 突拍子もない質問に、色の目は点になってしまった。
 固執といわれても。というか何故に自分がこんないちゃもんをつけられている気分にさせられなければならない。

「そ、それはあたしがラミスト様の天使だからだと……」

 思うのですが、と尻すぼみに答える。妙に答えづらいのは、ダルガが妙に疑わしげに凝視してくるからに違いない。無駄に目つきが鋭いから心臓に悪い。
 手を掴まれているから、逃げようにも逃げられない。第一ここは逃げ場のない狭い個室だ。その出口はダルガの背にある。せめてもの抗いにしどろもどろと色が目を泳がせるも、ダルガはまだ不服そうに片眉を上げた。

「それだけか」

「へ?」

「本当にそれだけなのか」

 他に何があるって言うんだ。
 怪訝に思い今度は色が片眉を上げる。質問の意図がちっとも掴めず首を捻ると、ぎゅ、とことさら強く手を握られた。

「お前、まさか……」

 まさか、なんなのだろう。
 まさか、顔目当てか。
 まさか、皇子ポジション萌えか。
 まさか、美味しい餌係か。
 ううむ、当たらずとも遠からず。いやいや、餌は無い。動物と飼育員じゃあるまいし。しかしばれてしまったかと、誤魔化しにもならないひくついた愛想笑いを浮かべてみる。
 暫く無言の押し問答が続いた後、急に興味が逸れたようにダルガの方から目をそらす。ダルガはやれやれと言わんばかりのため息をこれ見よがしにつくと、あっさりと色の手を離し立ち上がった。すたすたと出口へ向い、扉の手前で振り向き様ににやりと笑った。いつもの調子を取り戻した、それはそれは悪どい微笑で。

「お前が我が物になる日が待ち遠しいことだ。手に入れた暁にはたっぷりと可愛がってやる。楽しみに待っているからな」

 ダルガ、それは若い娘を汚いやり口で手篭にする悪代官のポジションだ。
 と、言いたくなったがその前に当の本人は去ってしまい、色は爆弾発言を投げられたまま放置されてしまった。
 それにしても。ダルガの悪役がハマりすぎて、ちょっと引いてしまったかもしれない、色だった。

  

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