極彩色伝

72.風追い

 イルを食事の後の湯浴みに行かせたラウは、そのまま部屋に残り衣類の整理をし始めていた。夜とはいえ彼女のいない部屋はそれだけで一段光が萎えたようにおぼろげに思え、無意識に月光射す窓へと向ける。開け放たれた窓から迷い込んできた風が、戯れるように柔らかく頬を撫でた。河を越え国境を越え吹くこの風は、何故だかいつも初夏の香りがした。

「くだらん感傷に気は済んだか」

 ぱさりと、何かが落ちる音。振り返ると、そこには窓をかたどる月光に照らされた、黒い髪の束が落ちていた。赤い紐で束ねられたそれは、艶やかに光る黒髪を映えさせ、引き立てている。
 伏し目がちにそれを見つめていたラウはやがて緩慢な動作でそれの傍に跪き、両手でそれをすくいあげる。同時に、乾いた靴音が、部屋の中に木霊した。ラウはばっつりと切り取られたようなその黒髪の断面を苦々しく見つめ、呟いた。

「……何もここまで、無体でなくとも」

「感謝しろ。憎まれ役になってやったのだから」

 どこまでも、見下ろし皮肉るような男の言葉には慈悲も思慮も見当たらない。彼女の髪を断ったことさえ、大したことには感じていないのかもしれない。彼女はあんなに泣いて、あんなに怒っていたのに。
 それとも、こう思う自分が彼女に甘く、自分にさえ甘い証拠なのだろうか。彼女に会ってからこちら、感情の振り分けが酷く曖昧で不透明になった事は、確かに思える。

「持っていけ。死國への手向けとならなくばいいが」

「……この身に余るご配慮、感謝いたします」

 気がつくともう風は止んでいたようだった。それだけの事がこの部屋を閑散としたものに変えたように思え、また心細い心持にさせられる。
 ――彼女の傍を離れるのは、彼女の事が心配なのだと思っていたけれど。何より、自身が心細いからなのかもしれない。ぎゅっと、黒髪を胸に抱くと、もう聞きなれた嘲笑が頭上に木霊した。

「逃げてもかまわん。その代わり、もう二度と目に触れる事もあたわぬと思えよ」

 それは侮りの言葉にも聞こえ、しかし仄かな誘惑にも感じた。それをできる立場にないと知っていて告げるこの男の真意が知れない。前々から思っていたことだが――この男こそ、何よりも不穏を纏っている。だからこそあの少女に近づけたくなかった。

「――閣下。貴方様は、」

 ラウは、見た。紅い、紅い光。月も紅く、月光も紅く。この禍々しさは、如何様にも例えられない。

「……貴方様は一体、何をなさろうと、」

「止めておけ」

 嗤う。紅の重なる夜光の中で、闇に溶ける紺の瞳が。まるで、飲み込むように、嗤う。

「意味無き問いは邪魔なだけだ。もとより、貴様如きに読まれるのであればとうに隠居している」

 嗤うだけだ。この男はいつだって、嗤うだけ。どこまで何を見通しているのか図ることができない。だからこそラウがある意味で絶対的な何かを感じさせられ、従ったのもまた事実であり。どこまで信じたらよいものか、ラウは未だ計りかねていた。そしてその心中を読んだように、ダルガは目を潜め彼女を見据えた。

「案ずとも誓いは守ってやろう。この俺が違えると思ってくれるなよ」

「信用……してよろしいのですね」

「ああ、勿論」

 ――ああ、なんて信用ならない。そうは思っても、元よりこの他にはもう、頼るものなど――いない。この何よりも胡散臭い男に頼ってこそ、彼女に絶対的な後ろ盾を与えられる。そう、思ったからこそ。

「――解りました」

 もう迷いすら持っている暇は無い。全ては廻り始めた。後はもう身を投じ、歯車となる他は無い。

「私は此れより、貴方様の駒となりましょう。ですがあの子は、」

 心も、置いていこう。彼女への想いは、これ限りとして、風に飛ばそう。

「あの子は、大事に。この言葉を、偽り無きものと。――よろしくお願い申し上げます」

 碧い碧い夜空に浮かび、紅い月が見下して。吹く風自由を謳い、どこまでも駆け抜ける。河を越え国境を越え世界を駆け巡り、また誰が魂に囁きかける。自由であり隔たりを持たずなにものにも縛られる事なき風が、夜を見上げる彼らの元へと。
 走る。走る。いずこより求めてきたものを捜して。風の意思のままに、走る。



「――……」

 目に映る全てが紅く。感じるは無温度であり舌根を通るは味気なく、また触れるもの全て無機質に曖昧に。ただただ落ち逝く砂時計を見つめるばかり。見つめるばかり。もう求めるものなど無い。もう失くすものなど無い。動き始めた歯車は、後はもう廻り続け終焉へと運ばれるだけ。

「貴様の目的は筒抜けだ。この上口を閉ざす事に何の意味がある」

「筒抜けならば開かずともかまわない」

 暗く閉ざされた部屋の中、紅い月光にさらされて、少年は目を閉じたまま。沈黙。それさえ守っていれば、狂う事など何も無い。何もかもが予定調和の均一な暗闇で、ただ待ち続ける。誰に何を言われようとも、変わらない。変われない。一度動き出した歯車は、更なる螺旋を描くため。廻り続ける。来る日の為に。

「お前はこちらの手の中だ。どうにでもできる立場にあることを知っているか」

「ならばどうにでもすればいい」

 最早聞きなれた贅言だ。脅しにもならない。何度も同じことを繰り返す不毛な男を前に少年は嘲りの笑みを浮かべ、それがまた短慮なこの男の苛立ちを煽る事となった。
 無骨な指が無造作に前髪を掴み、椅子に座っていた彼をそのまま持ち上げる。膝をついた彼に近付き、重訂な声で厳めしい声で脅嚇した

「死よりも重きものなど星の数ほどに用意してあるぞ」

 ――死よりも重きもの。確かに聞こえたその響きに、少年の紅き眼が咲き開く。滾るような憎悪をその目に宿して。

「なら与えるが良いさ星の数ほど。望んで受けてやるから全部試してみろよ、貴様が思いつく限り」

「何を……」

「貴様が恐れる事を俺に試すがいい。如何なる責め苦も血が尽きるほどに凄惨な死でも! やれよ早く、さあ。 やれ、やれよ! おいどうしたんだ俺に何を臆する事がある、やってみろよ臆病者の下種野郎が!!」

「……ッ!」

 刹那、鈍い音がそこに響き、少年の声が止む。壁に頭を強かに打ち付けられた青年は紅い月光に照らされた白髪を自らの血で染められ、意識は深い深い底へと落ちていた。手を離した男の指から、数本の白髪がぱらりぱらりと落ちてゆく。
 臆したのは彼の呪詛にではなく、その鬼気迫る憎悪とおどろおどろしい感情が垣間見えたからだ。そして男は少年を忌々しそうに見下し、侮蔑に顔を歪めた。

「化け物め……っ」

 そして少年はまた独りになる。何も感じず何も捉えず骸同然のその身を横たえ瞼を閉じ意識を閉じただひたすら闇の中で待ち続ける。聞こえてくる、歯車の軋む音。もうすぐそこまで近づいている終焉。
 だからこそ気付かない。まだ遠い。まだ遠い。何処より、しかしまだ遠い。気付かぬほどに些細で、気付かぬほどに寡少な音。闇の向こうに、黒の向こうに、響いてくる。軋む歯車に掻き消され、まだ遠い。此処まではまだ遠い、風の足音。




「――……腐臭がする」

 温い風の中で染み付くように漂う異臭。そこかしこに漂い一向に消える気配は無く、鼻を衝くそれに囲まれては何を見ても何を口にしても不快にしか捉える事は出来なかった。煌煌と輝く月は稀に見る紅さを以てしてますますそれを際立たせるようで、輝くような青年の麗顔にも苦々しい陰りが見えていた。それを伺う金髪の男の表情もいつに見ない思案の色があり、先行く青年の後に付き従うも留めようと試みた。

「ですから幕内にてお休み召されよと……」

「眠れない……もしかしたらもう、染み付いているのかもしれない」

 腰に据えられた柄を緩やかに握り、青年は苦々しくも笑む。吹く風弱く、所々に漂う霧は紅く翳っている。迷い路のようなそこを歩む足音も湿っていて、この夜闇の中では歩けども歩けども気が晴れることは無かった。
 せめて清らかな風があれば。この肺腑の奥まで腐りきったわが身を、どうにかしてくれたのかもしれない。

「どこを見ても何を感じても詰まらない。滅入りそうだ……」

「では僭越ながら私めの描いた新作でそのお心にささやかな癒しを……」

「断る」

 余計に滅入る事は必須だ。いかにも心外そうな部下を一瞥し、青年はゆっくりとため息を吐いた。緩慢な足取りは枯れ果てた過去の大樹の根元に止まり、そこに背を預け疲れたように項垂れる。
 この意思を腐乱させるような腐臭と数多入り混じる思念に囲まれ、己の内にある過去の栄光さえ掻き消えそうだ。むかつく吐気にも脳を撹乱させるような光景にも慣れたが、消えない腐臭だけが彼を悩ませる。纏うように、粘着質に、どこまでも漂い続けるから。

「あと二日……まだ先は遠い」

 項垂れる青年を見下し、ふいに男は眉を顰めた。銀糸に隠れた顔を見据え、きっぱりと断言する。

「あっという間です。何を気弱な……毒されましたか」

「……毒? 何の話だ」

「夢に」

 ――夢。目を閉じていた青年は、はっと目を開ける。赤茶けた土に立つ足を認め、また顔を上げる。揺れる銀糸から覗いた周りは先ほどとなんら変わりはなく、同じように異臭を放ち同じように禍々しく爛れ同じようにまた、死の香りを放っていた。
 そうだ、これが現実。青年は思い直す。過去の栄光などどこにもなく、目の前にあるものが現在続いている現実なのだと理解する。青年を見据える男の眼差しは鋭く、彼を逃すことなく逸らされなかった。

「眠っていらしたようですね。目は覚めましたか」

「――ああ」

 ああ、目は覚めた。そうだ、こんなにも疲弊していたのは、夢現に惑わされていたからなのかもしれない。意識すると、頭は冴える。同時に耐えがたかった腐臭にもとうとう慣れ、なんとも感じなくなった。温い風も止み、辺りには音の無い現実だけが転がっている。胡乱に目を伏せた彼は、ゆっくりと、額を押さえた。額を押さえ、込み上げる笑いを堪え肩を揺らした。

「――酷いな」

 嗤う。血に染められたような紅に染められ、銀の青年はくつくつと堪えきれずに嗤った。

「アナト、夢は毒では無いよ」

 風は無い。閉ざされた夜の中で、笑う声だけが独り歩き、し始めた。

  

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