69.LIKE OR DISLIKE
目の前に据えられたものを、瞬時に割り切る事は、難しい。どこかで、何か、矛盾を抱えながらそれを受け止めて。悩んで、迷って、苦しむ。時に、自分すらも見失う、程に。それは思うよりもずっと困難で、辛い事だから、気がつけば排他的な道を選んでしまう事も少なくない。
噛み合わない事が、もどかしくて。上手くいかないことに、苛立って。疲れて、疲れて、悩みすぎて、心はもう疲れきって、廃れきって。もう仕方が無い、これでいくしかない。そう諦めて、それでもその為に、痛みを背負っていく。
そうしてぼろぼろになった心は、以前の自分とは、全く別物のように見えて。擦り切れてぼろぼろになった自分の羽は、目を逸らしたくなるほどに汚れきって。いっそ真っ黒に染めてしまおうかと、思うほど。
でも、それは本当は、そうではなくて。自分の背中を見てみても、ほんの少ししか見えていないだけで。ほんのちょっとの、形しかわからないだけで。本当は、それは汚れじゃなくて。
傷ついて、傷ついて、それでもがんばろうとした、証だ。その羽に守られたものには見える。汚れではない。血が流れても、傷に傷が重なろうとも、どれだけ疲弊しようとも耐えた、証だ。
だから、恥じないで。その羽を、恥じないで。沢山の傷を負ったその羽を、恥じないで。何よりも愛しいものだと、誰かはわかってくれているから。自分では無い誰かが、ちゃんと、わかってくれているから。無理に、誇りに思わなくてもいいから。その羽を、恥じないで。
「どこへ行っていた」
「……」
もう日も落ちた街中。家々の灯りでぽつぽつと照らされ、夜の闇に紛れる事は無く、暖かい光で満たされていた。河岸からぽてぽてと歩いていた色を、方々探し回っていた兵士の一人が見つけて、館へと連れ戻された。あまりに必死で急かすものだからその兵士が去る前に、謝ると、彼は笑った。
『ご無事で何よりです』
そう言って、笑った。
「……河、に」
「何をしに」
「……?」
エントランスで待っていたダルガは、呆けたように帰ってきた色を見て、深いため息をついた。さっきまであんなに意地悪な顔をしていたのに、今は打って変わって、無表情だ。怒っている、というわけではなさそうだけど。じっと、目を逸らさずに見下ろしてくる。なんだか見覚えのある光景に、デジャヴのような感覚を覚えた。
「ええと、あのね……お土産が……あ、ああっ!」
な、無い。ごそごそと身体のあちこちをまさぐり、思い出す。そういえばいっぺんにぶちまけて、それきりだった。せっかく集めたのに。ダルガにも一つ何かあげようと思ったのに。がっくりと項垂れるその頭に、ぼすりと大きな手のひらが乗る。
「不用意に一人で行動するな。何度言ったら解る、破天荒娘が」
呆れた声。温かい手のひら。ああ、わかった。これはデジャヴとは違う。
「とうっ」
「ん? なんだ」
がばちょと腰に抱きつき、顔を埋める。いきなりの突撃でも難なく受け止めてくれたことに、色の頬はにひゃりと緩む。デジャヴじゃない。
これは、心配されてるんだ。ルーダスの無表情のなかにも、何かを感じたように。無が無だけではないことを、ダルガの中にも感じた。ラミストが色の頭を撫でてくれるように、ダルガにもその暖かさを感じた。心配してくれた。あの兵士も、きっと、心配してくれていた。それだけのことが、くすぐったくなるくらい、嬉しい。暖かい。
「どうした、イル」
腰に回した腕を外され、ひょいと持ち上げられる。ダルガの見透かすような瞳が、今はなんだか心地よかった。見透かす、のではないのかもしれない。見落とさないように、してくれているのかも、しれない。
「何かあったのか」
「……おう。いっぱい、あったよ」
沢山、それはそれは、沢山あった。じっと見つめる碧い瞳に、教えてやんないよ、と舌を出す。出し惜しみというより、少し気恥ずかしいから。代わりに手を伸ばして、しがみつく。肩に頭を預け、嬉しさの余韻に浸ろう。
「今日は、いい気分だ……うん」
うん、いい気分だ。誰かの心配が心地いい事に、ようやく気付いた。今までは心配させていることが心苦しかったけれど、本当は違う。心配と迷惑は、違うって事に、気付けた。心配されることの暖かさに、気付けた。今日は嬉しい発見が、沢山だ。
「イル」
「……んー?」
「お前、本当になにかあったな?」
珍しく怪訝な、表情。解せないというように、色を見ている。時々、ラミストもアナトも、色が会ったこの国の人は、こうゆう目を向けることがある。
そんな不思議そうな目で見られても、彼らが思うようなものを、色は持っていないのに。別に何一つ変わってはいないし、進行も後退もしていない。そのまんまだ。だから逆に不思議だ。こうゆう目は、不思議だ。
その眼差しに触れようとするかのように、色の指先が、その瞼に触れる。それから、赤い前髪にさらりと、触れた。
「何も、変わってないよ。ここにいるよ。あたしはあたしで、ここにちゃんといるから、心配いらないよ」
怖くない。時に、この男に恐れを抱いたときもあったけれど、少なくとも今は怖くない。もう色は知っている。この国の人は、優しい。優しい、から、だから解る。
ダルガがどんな風に色に振舞おうとも、それは見える。ちらちらと、瞬くように。彼の優しさもまた、見える。怯えることなど何も無い。自分を心配してくれたこの人に怯える理由なんてどこにも、ない。
「ありがと、ね……」
彼がすることを今理解できなくとも、いつか理解できるかもしれない。きっと、理由があるはずだから。それに色が納得するかどうかはわからないけれど、それでも、彼は彼なりの理由で動いているだけに過ぎなくて。色も色なりの理由で動いているから。
だから、進もう。憶測で誰かを疑うよりは、信じて進もう。その先が良くも悪くも、きっと、それでも続いていくから。人の想いも、未来も、どうしたって止まることは無いのだから。立ち止まらずに、一緒に。一緒に、進んでみよう。
「空恐ろしい娘だ」
苦笑交じりに、彼は呟いた。伏せてしまった瞳は見えないけれど、どこか観念したような響きを持っていて。前髪を手で玩びながら首をかしげた色の手を、大きな手が、すっぽりと包み込んだ。
「たった数時間の間に、どのようにして風向きを変えた。未知なる娘だ」
「……んーと……怖い、って……こと?」
「まさか。ありえん」
ふんと小馬鹿にするような笑うものだから、一瞬むっときたけれど。けれど、その反面。やっぱり、嬉しい。もう一度にひゃりと笑い、くっとその紅い髪を引っ張った。
「なら、いいや。……あたしもダルガのこと、怖くないよ」
「それは心外だな」
「あはは」
怖くないよ。何度も言ってあげたい。ダルガも、ラウも、ミリエラも、アナトも。――ラミストも。
何かを抱えているように、時々、恐れるような、目を見せるときがあるけれど。でも怖くない。怖くないよと、言ってあげたい。隣で、手を握って。怖くないよ。一緒に、いるから。一緒だから、怖くないよ。怖くても、それでも、一緒だよ。
「……愚かさゆえ、か」
とん、と身体を下ろされる。とことん似ているのだなあと、思う。通じているものがある。彼と、ルーダスと。でもそれは蔑みの言葉では無いから、不思議と心地が良い。批難でもなく、否定でもなく。ただ色をそう思い、受けて入れてくれているのが、解る。色はぷいっと回れ右をし、一人ですたすたと歩き始めた。
「馬鹿でいいもん」
馬鹿でいい。馬鹿にだって馬鹿なりの考えや、思いがあるし。馬鹿であるから、わかることもあるし。馬鹿な自分を今は、恥ずかしいとは思わないし。だから、馬鹿でいい。
「馬鹿でいい。馬鹿だけど、それでも」
馬鹿だけど、馬鹿なりに、思う。馬鹿なことを、思う。
「それでも、今日は、大好きだ。この国のひとみーんな、大好きな、気分だ」
いい気分。今日は、いい気分。自分の中は、まだあまりに小規模な世界で、甘ったるく飾られているけれど。浅はかだったり、無知だったり、馬鹿みたいに一直線に見すぎているけれど。でもそういう部分もあるから、そう見えるのだし。それが間違いではないと、色は思う。そうゆう部分は確かに、あるから。だから大好きと、思える。
触れ合う人々の思いが一つ一つ、暖かくて、嬉しい。これからまた、いろいろなものを見て、世界の見え方も変わっていくことだろう。
それでも、忘れないでいたい。こんなに大好きだと思えたこの気持ちをちゃんと、忘れず、覚えていたい。きっとまた苦しんだり、悩んだりするから。そしてきっとまたこの記憶が、救いとなってくれるから。立ち上がる力となって、くれるから。そう、信じてる。
「……大好き、か?」
「ん? うん!大好きだ」
後で声がして、色はいい返事を返した。そしてその刹那、ざしゃりと、なんともいえない、音が聞こえた。
「……え?」
「これでもか?」
ぱら、ぱらり。妙な感覚に、さーっと、血が逆流するような、冷たい感覚が走る。首筋が、スースーする、気がする。そっと、いやこわごわ、首の付け根に手を持っていき。一瞬後に、絶叫が木霊した。
「あああああああああっ?」
無い。無い、無い。無い。けがない。け、け、毛がないっ。首の後ろより下に、毛が、ない。振り向いて見た、彼の手元には。真っ黒な髪の束が、握られていた。
「何すんのおおおおっ? な、ちょ、あたしの髪、髪っ、髪様ああああっ」
切られた。ばっさり、前触れもなく。いや、こっそりと、不意打ちで、ごっそりと大胆に。わなわなと驚愕する色を、いつもの企みめいた怪しい笑みで見下ろすダルガ。とんでもないことを、しでかしてくれた。
「大好きか?」
「……だっ、だ……っ?」
せっかく伸ばしていた黒髪が。頭の中は、真っ白に爆発したよう。短くなった黒髪が、虚しく揺れた。
「……っ大嫌いだああああ!」
回れ右、全力逃走。自己新記録で、階段を駆け上がって逃げた。ニヤニヤ笑う不審な男、ダルガを残して。