66.後ろにあったもの
「ちょっと、こっち……」
「なんだ」
「こっち、来て」
混乱。頭の中が、大混乱。なのに、妙に冷静になっている自分もいるのがわかる。ダルガの背中をぐいぐい押して部屋の外に出ると、肩越しに見えたダルガの目がくすっと笑うのが見えた。ダルガの言葉をアセムが聞くことを色が良しとしないことに気付いたのだろう。
見透かすような態度にむっと来て思いっきり背を押してみるが、全く効果はなくダルガは悠長に壁に背を預け腕を組んだ。
「まあ人払いはしたのだからここでも話せるな。聞くか?」
聞からいでか。白い異形と銀の王子?人をおちょくるのにもほどがある。むっとなって見上げる彼女に、ダルガはどこか苦笑のような曖昧な笑みを洩らした。
「どちらに怒っている。異形と嘲弄した事か、それとも銀の王子と茶化した事か」
どっちもだ。どっちも、だが。その質問の意図がわからない。例えばこれがダルガのよこした挑戦だとして、手の内を見せるのは得策ではない。というか本音を言ってしまえば、答えたくないのだ。どっちが、とか、そういう問題だろうか。どうして今、選択を許されない色にそんな質問をするのだろう。今色に与えられた行動圏は、ダルガにしか決められないのに。
「……そんなの、関係ないじゃん」
「大いにあるさ。どちらを選ぶか、決めてもらわねば」
驚いて顔を上げた彼女を予想していたかのように、ダルガはじっと色を見つめていた。どうして、この人はこんなにも揺ぎ無い眼を自分に向けるのだろう。心がこんなにも容易く揺るがされる。
眼を逸らせばそれは敗北のようにとられてしまうかもしれない。しかし自分の奥をこれ以上覗かれたくない。何でもわかっているような眼をするダルガに、指摘されたくないのだ。それすらも逃げである事をわかっているから。色はこのとき、ダルガという男に、言い知れぬ思いを抱いた。
「悩む必要がないところを、わざわざ選択肢を与えてやったというのに。つくづく苦悩が多い天使なことだ」
「……それが普通じゃないの? 悩むよ、そんな風に言われたら。悩む必要だって、あるよ」
少なくとも自分には。例えばダルガが言うとおりどちらか一方を指定してくるならば、その時点で悩む事はなかったかもしれない。でも際限がない。そのあと、また後から後から悩みが生まれるのではないのか。そういうものではないのか。悩みがひとつ消えたとしても、自分で解決しなかった重みは結局後から己に降りかかるのだろう。知らぬ振りをしてもそれが重みとなる。どのみち平気でいることなど、できない。苦悩が多いというならばその通りかもしれないが、悩まないその心は一体なんだというのだ。そこで悩まなければいけないところで悩まないその心は、一体なんなのだ。
「ダルガはあたしに何がさせたいんだよ。どうしてはっきり言わないの?」
「お前が選べぬだけだろう。俺に委ねるというならばそれもまた良し。……お前の望む未来ではないがな」
選べないからと言って、委ねたくは無い。その末路はダルガの言うとおり望む未来ではなくなり、また、卑怯な道に走ることでもあるのだから。何かに委ねて自分を見失う事は、生きる事に怠惰である気がしてならない。人に対して、無責任だ。だから、委ねたくない。だから、悩んでしまう。
それを、ダルガは知っていて。色がそう思うことを、知っていて。選ばせるのだろう。それは色がダルガに望んだことだから。だからダルガは、色に選ばせるのだろう。もう何も言えないと、色はダルガから眼を逸らしてしまった。
「三日以内だ。その間に、あの小僧から聞き出せ」
蕭然とした声で、彼はそう言った。選べと、言っているような気がした。
「………………何を、聞き出すの」
言い返す力がないのは、何故だろう。目も、見れない。声でさえ、負けてしまいそう。地面が、ゆらゆら揺れてる。足元がおぼつかないような、気分。後ずさる色の頭上に、たった一言告げられた。
「『何を隠している』、かだ」
どうして、なんで、ひどい。走って、走って、走って、わき目も振らずに走って。夢中で走って、とにかく走った。どこに行きたいとかどうしたいとか、何も無く。ただなんとなくあそこにいたらどうにかなってしまいそうで、走った。
息ももう切れ切れで、呼吸を赦さない程に心臓が締め付けられている。身体の中から泡になっていくような、酸化していくような感覚。もうだめだと思った瞬間、足が途端にぐらついた。
「わ、むぶっ」
どしゃんと顔から突っ込んで、じたばたともがくと手にざらついた感触がくっ付く。僅かに口の中に入った砂を吐きながら起き上がると、河岸が目の前に見えていた。たぷんとぷんと黒く揺蕩う波が延々と繋がり、白い河岸に泡を残す。向こうから吹いてくる風がそのまま来るのか、髪を遊ぶほどに吹いていて。いつのまに、こんなに走ったのか。
緩慢な動きで辺りを見回していた色は、ふと一点に眼を止めた。顔や髪についた砂を振り払って、どっこらしょと立ち上がる。砂の起伏に足を飲まれつつ、色は見つめる先へとよたよたとしたおぼつかない足取りで近付いていった。
「綺麗な、ガラスだ……」
薄緑色の、角が丸くなった硝子の欠片。磨り硝子のように不透明で、でも混じりけのない色だった。砂の合間に隠れたそれを拾い夕日の中心に当てると、まるでステンドグラスのように透明に色が交じり合う。
いつだったか、集めていた気がする。こんな綺麗な、モノ。あれはいつの間にかなくしてしまったけれど、懐かしくなってもっとないかと辺りを見回した。
砂上はよく見えないと、河岸の波打ち際まで寄ってみる。あった。白くて、でも虹色に煌く、小指ほどの大きさの小さな貝の欠片。また波に持っていかれないように急いで拾って、また波から逃げた。それから、蒼い小石や、白樺のような流木、薄紫色の花びら。拾ったものを両手に抱えて、少し離れたところに立つ巨岩まで走っていった。
「なんか、海に来たみたいだ……」
自分の戦利品を岩の平らなところに並べて、うっとりと呟く。潮の匂いはしないけれど、波の音は海のように穏やかで心の中に静かに溶け込んだ。
ぼんやりと、最初に拾った硝子の欠片を眺める。そのうちに色はゆっくりと、その硝子に手を伸ばしてみた。
「ラミスト様の、ところに行きたい」
かつんと、戦利品を並べた列より少し上に置く。薄暗いせいか、さっきのように輝いては見えなかった。
「アセムを、助けたい」
小さな貝を一つ取り、硝子の横に並べる。次は、細くて白いこの流木。
「神様との、約束守りたい」
ことりと、置く。薄紫の、枯れかけた花びらをつまむ。
「家に、帰りたい」
置いた瞬間、風に攫われた。それを追わずに、色は最後に残った小石を無造作に掴む。
「……どうしたらいいかわかんないっ!」
やけっぱちで、叫んでぶつける。硝子も、貝も、小石も、皆弾けとんだ。でもそんなのみんなもうどうでもよくて。岩肌に突っ伏して、歯を食いしばった。
「わかんないよ、もう……いっぺんにできるわけないじゃん……っ、ばかじゃないのっ」
もう、何がなんだかわからなくて、腹立たしかった。いつだってうまくいかないくせに、勢い任せでとんでもない事をいってしまう。結局それが自分を追い詰めるのに、全部を選ぼうとしてしまう。弱いくせに、どうして望みばかり唱えてしまうのだろう。選べない、いつだって。
ラミストか、アセムか?どうしてダルガが選ばせようとしたのか、ようやくわかった。例えばどうにかしたとしてアセムから何かを聞きだせたら、ラミストの元にいけると、何かの役に立つと暗示している。でもそれは逆に、聞き出したらアセムがそのあとどうなってしまうかも暗示している。聞き出さなければアセムは助かるかもしれない、けれど、ラミストに何かが起こってしまうのかもしれない。
どっちを見殺しにするか、だ。どちらかを見殺しにすれば、どちらかが助かるのだ。そんな酷な判断、できるわけがない。否、したくない。
ぐらぐらと視界が歪む。いやだいやだいやだと、心が泣き喚いた。ラミストのところに行って謝らなければならないのだ。それから、仲直りして、ラミストの助けになるようなことをして、信頼されたい。ラミストの重荷じゃなくて、本当の天使として隣に居たい。
でもアセムを見殺しにするなんてしたくない。自分と同じほどの歳の子が、あんなに人に見られることにびくびくして。縛られて、人を睨みつけて、一人っきりであんな部屋の中に居る。その上見殺しにするなんて、なんて怖いことだろうか。あそこから出してあげたいと、一度ならずとも色は思ったのだ。
そんな彼を、見殺しにする?いままで自分を守ってくれたラミストを裏切る?目の前で死んだ人よりも自分の心を優先させた、あの時のように?
「…………っぅ、……い、痛……」
腹部を押さえて、砂に膝を突いた。胸から嘔吐感が込み上げ、腹部のどこかが引きつっているような痛みを訴える。痛い。痛くて、気持ち悪い。あの人ほどの痛みだろうか。いいや、違う。死ぬほどの痛みなんて、色にはわからない。色がそれを、体感しない限り。
「……痛い、よ…………痛い……」
動く事もままならず、そのまま歯を食いしばって耐えた。涙が滲み出てくる。頬を伝った瞬間に、そういえばと思い出した。
あの時も、泣いていた気がする。血が暖かかった。まだ、身体も温度を持っていた。同じくらいに熱い涙が頬を伝っていて、喉も焼けるように熱かった。苦しくて、怖くて、助かりたい一心で。泣いて泣いて泣いて、世界がぐにゃりと歪んでいた。とにかく泣いていた。逃げるために、色は泣いていた。
死なないで、助かって。血を止めて、助けなきゃいけない。助けられなくて、血は止まらなくて。目の前で、死なないで。
ラウを目にしたとき、すぐに縋った。泣いて、泣き喚いて。それから、色々あって結局ラミストの元に生きて帰って。忘れたわけじゃない。ただ、逃げていた。前を向く振りをして逃げていた。前向きなつもりで、一度も後を向こうとしなかった。たった一人の兵士の死。自分を案じて、死んだというのに。色は眼を逸らした。
『あたしのせいじゃない』
色が殺したわけではない。だけど、彼の死から眼を逸らした。見殺しにしたも同然。ならば、また見殺しにするのだろうか。また、色は逃げるのだろうか。
ラミストを、アセムを。見殺しにして。こんなちんけな腹痛と、引き換えに。