極彩色伝

49.ある男の葛藤〜前編〜

 既に犯してしまった過ちは、後から補えるものなのだろうか。いや、補えないから過ちなのだ。
 ならば何故このように抗い、なおもその過ちに耐え切れずに避ける道を行く事か。それは過ちがあまりに大切なものの痕跡であり、ゆえに割り切る事ができなかったから。それをそれとして割り切る事ができず、手のひらから滑り落ちたそれをあまりに惜しく思ったから。





 イルは今頃思う存分ラウの料理を食べているのだろう、そんな事をぼんやりと考えながら、アナトは書類に目を通す。
 白い部屋の角には彼一人だけがそこの主として居座り、また黙々と仕事をこなしている。音はない。彼がいることすらもその空間の常であるように静かで黙しきり、他動的なものは何一つ感じられない。
 そうしてその唯一つの流動の中心では、繊細な装飾が施してあるだけであとは素朴な木の特性を生かすのみの艶やかなテーブルの上で、積みあがるほどに紙の束が軒を連ね、それらがまるで支えあうようにその状態を保っている。
 その傍で艶やかな曲線を誇る鳥をかたどった金のインク壷には、染められたように真っ黒な羽根が一枚そこに刺さっていて、どっぷりと吸い込むように黒いインクの中に一本足を突っ込んでいる。
 そうしてそれをまた引き出すようにアナトの細く長い指が引っ張り出し、染み一つない紙の上をまるで走るように滑らせる。機械的な動作にはあまり苦痛を感じず逆に無心にさせてくれるので、アナトは今回ばかりは溜まりに溜まった仕事に少しだけ、感謝した。
 余計なことを考えずにすむし、それに惑わされる事もない。時たまただほんの少しだけ引っかかるものを振り切るようにペンを走らせるだけで、後はいつものアナトでしかない。
 己のすべき事には迷いはなく、ただ真意にそって前進するのみの姿勢。それがアナトを擁立させているものであり、彼を彼らしいと言える最もな表現方法だった。それ以外の自分などありえなくむしろ悩んだり迷ったり意思が揺らいだりというのは気持ちが悪く、彼を不快にさせるだけの余分なものであった。
 最近その余分が多すぎるのではないかと、アナトは自らを責めるように自問自答する。どうにも余分はコントロールが効かず、それゆえにあまり気持ちのいいものとは言えない。むしろ言葉通り不快に感じて。
 失くそう失くそうと思ってはいても頭の端で、心の端で、つねにうっとおしくも引っかかる。今までのアナトというものの足を引っ張る厄介なものに、彼は感じていた。それは些細なものだと思っていたのに日に日に重みを増していくようで、またアナトを苛立たせていく。
 それは本当に彼が彼らしくあることを妨害し、かき乱すのだ。そうしてそれに至る核。彼はその核に気付いているというのに、避けて直視する事を拒んでいた。認めてしまうと彼が彼ではなくなるからなのだろうか、それとも今までの彼という存在を捨て辛かったからなのだろうか。
 どちらにしても、そんな風に避ける事すら既に彼ではなくなり始めている証拠であり、兆しであり。
 だから彼はこれ以上の進行を止めようと、引っ掛かりを気にしないように努める事にした。例えそれが多少は彼らしくなくても、いずこより生まれ出でた不可思議な彼であったとしても、奥を覗くよりはずっとましだった。だから甘んじて、利用した。核などに触れては取り返しがつかなくなってしまいそうだったからだ。それだけは最後の最後まで遠慮したい、結末だった。
 しかしもって彼がどうして核をそこまで避けるのか、核とはなんなのか、それもまた言わずと知れたものであり。
 小難しい言い訳を自分自身に必死に練り上げて固めて誤魔化そうとして、全く儚くも呆れるばかりの葛藤であった。彼はそんな自分にすら気付いているのかいないのか、必死にペンを走らせる。表情はあくまで淡々と、ただの流れ作業のように。
 そうして最後の一行が書き終わった頃に丁度インクがそこで尽き、区切りとばかりにアナトは羽をふわりと紙の上に放った。こなした仕事はいつのまにか大量で。いや、それをはるかに凌ぐ量でまだまだ沢山残ってもいたのだが。
 よどみなく動かし続けた利き手はやや強張っているが、しかし疲労感はなかった。ついでに何故か、達成感もない。はぁ、と小さくため息をつき、煩わしそうに目を細める。やや一時してからがたりと立ち上がり、ふらりと白い部屋を後にした。
 何を思ってからの行動ではなく、鬱陶しい思考とそれに対する言い訳を考えるのに疲れた為、である。





「あ、アナト様。イル様が探しておいでですよ」

「………そうか」

 引き止めるように告げた下官に対して、アナトはそっけなくすれ違い様に返事をして通り過ぎる。不思議そうにその後姿を見つめる下官に配慮する余裕など、今の彼の中には存在していなかった。
 赤樫色の絨毯の敷き詰められた廊下を突き進み、アナトは険しい表情で出口に向っていた。何故だろうか、解せないばかりだ。先ほどからあのような呼びかけが下官に合う度にかけられ、それが頻度を増していくのだ。
どうにも対処しがたい事柄なので、アナトは外に出ることにした。ほとぼりが冷めれば、かの少女の呼びかけも途絶えるだろうと。会いたくないわけでも反発からでもなくただ、そう、そうし難かったから。何故し難いのかなど問えばまた自問自答に言い訳の嵐で、考える事すらも放棄したが。
 そうした葛藤の放棄を超えて彼はものすごい速度で出口まで突き進むのだが、これまた妙だった。館内は3階まであり、アナトに用意された部屋も3階にあったのだが、下に降りるごとに、下官との遭遇率が上がっている。3階はまず部屋を出たところから下官に言われ、二つ返事をして廊下を歩けば一人二人と出現して同じことを言う。また階段を降りていけば待ち構えたように下官が同じ事を告げて、また進めば進むほどひょっこりひょっこりと下官が現れる。
 少々薄気味悪くなって合わないように迂回して通ろうともするのだがやはりまた先回りをしているかのごとく下官が声をかけてきて。さすがにおかしいだろうと一階への階段を降り途中でアナトはぴたりと立ち止まり、思案に眉をひそめる。
 なんだろうか、この示し合わせたような伝達網は。いかに探しているといえどもここまでいけばやりすぎだ。
 そうしてそこに何か企み的なものを感じ取ってアナトが警戒し始めたとき、たんたんたんとゆっくり下官が降りてきて、追いかけるように叫んだ。

「アナト様ーイル様がお探しですー」

「…………」

 とうとう追ってきた。しかもなにやら耳を澄ますと上からたんたんと複数に重なり合う音がしてくるようだ。
 意味のわからない状況に困惑したアナトはさっさとこの館を出てしまおうと下の階に降りきったが、またまるで待ち構えていたように下官が三人にこにことアナトの目前に立っていた。

「「「アナト様、イル様が」」」

「急用だと伝えておけッ! 」

 だっと、その横をすり抜けアナトは走り出す。このまま悠長にしていたら何かが危険だと、勘が働いて追われるように進んでゆく。
 階段を降りてから廊下を真っ直ぐ突き進めばホールとなり、外への出口だ。その間の廊下の合間合間にある扉が開きかけておそらく下官であろう者が出てきそうになるのだが、これまたアナトも先手を打つべく出る杭を打つようにすばやくそれを閉め阻止して通り過ぎる。
 あともう少し、あともう少しと足早に突き進み、ついにホールの天井にぶら下がる大仰な飾りが視界に飛び込む。ちらりと後を見てみれば恐ろしい速さと動作であの3人の下官がこちらへ走ってきていて、その向こうにも数多の下官がわらわらと向かってくるのが視認できた。
 冗談ではないとばかりにホールにふみ込んだ途端、見計らったように左右から兵士がつかみ掛かって来る。見ればアナトをつかまえる気満々の決死に挑んだ表情だったが、しかし哀れかな、悲願叶わず。
 犠牲になったのはちょうど利き手側にいた一人の兵士。後ろからも終われ半ば袋小路となった彼にまさに飛び掛からんとばかりに勢い付いたところへ、アナトの方から手を伸ばし襟首を掴む。思いも寄らぬ事態に驚くまもなく、流れるように素早くアナトの手が引いた。
 その手技たるや華麗と見惚れんばかりの鮮やかさで掴んだ襟首を引き上げ、大の大人が赤子のように空に舞い弧を描く。そうして兵士が互いに互いを捕獲しあいどちゃりと倒れるのと、アナトが自ら作った退路に滑り込み難を逃れるのは本当に、本当に刹那のことだった。
 突如の兵の奇行に一体何なのだと振り返ろうと身をよじった瞬間。どっと腰に振動が伝わり、居を突かれて見下ろしてしてみればそこにはなんとまぁ、してやったりとばかりに見上げる天使が抱き付いていた。

「つーかまーえたっ!」

 にんまりと微笑む彼女は天真爛漫。核爆弾が落ちてきたような衝撃を、見事鉄面皮に与えた。

  

http://mywealthy.web.fc2.com/



inserted by FC2 system