41.暗転
ラミストは終始険しい表情のまま黙して歩き続けていた。ほの暗い廊下を一歩一歩踏み締めて、行きとは違って一直線に目的地へ向かう。そのうちにだんだんと歩くスピードは緩やかになり、わずかな光の零れる扉の前で止まった。
「アナト」
聞こえるか聞こえないかのとても小さな呟きだったが、アナトにはそれを紛うことなく聞き取ることができた。この男は主のことならば何一つ見落とすことはないからだ。だから何を感じているかも、何を考えているかも、なんとなくだが理解していた。表情の見えない背中をじっとみすえて厳かに、返す。
「殿下…イルは」
「あの子はやはり、違う世界の人間なのだろうか」
抑揚のない声で遮るラミストの言葉に、しかしアナトは答えることができず、口を濁らせる。是とも否とも言い切れなかった。彼女は確かに自分達と時を同じくしてこの国に存在し、生きている。
しかし彼女の心はというと向いているのは祖国で、それならば生きる世界が違うとも言い得るのだ。どうとも言い難く、答えようのない問題だった。
それを見越してかラミストは虚しく一笑し、ドアノブに手を掛ける。かちゃりとまわして少し押し開くと、そこから降りしきる雨の音と湿った匂いが流れ込んできた。
外は、まだ雨なのだろう。僅かな隙間を見つめながら、ラミストは口を開いた。
「それがどちらであっても、悦ばしいことだ。…帰る帰らずに関わらず、この国での拠り所が出来たのだから。それはあの子がこの国に住まう上でとても大切な事だ」
「殿下………ラウロランナをどうなされるおつもりで」
アナトのそれは質問というより、無言の忠告のようだった。ラミストよりも厳格で、低く鎮圧的に囁く。
例えば主君が何かの判断を煽られたとき、忠臣はホイホイ言う事を聞くだけでは務まらない。時には主よりも厳格に、残酷に、それらの重さを一緒に背負っていかなければならない。それを促す事もまた、これに然り。
しかしラミストはため息を洩らして、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子はまた、泣いていた。俺が泣かせた」
それはアナトに対する答えではないが、ラミストの示す真実だった。降りしきる雨の音が妙に耳を刺激して、陰鬱とした気持ちを煽る。
彼女は、自分達とは違う世界を見て、生きているからこそ、泣いたのだろうか。考えても虚しくなるだけだとアナトが顔を上げると、ラミストは自嘲的な笑みを薄っすらと浮かべ、アナトを見ていた。
「アナト…。俺は、許さないといわれたとき…なんだかな、少しだけ、それを寂しく感じる自分がいた気がした」
物悲しい表情でぽそりと呟くとラミストは雨の中へと足を踏み入れ、また共に濡れる為アナトも後に続いていった。
降りしきる雨が戦場の血を流し、彼らを清める。しかし、やはりその身を打つ雫は冷たく、凍るようだった。
色の大泣きがようやく沈静化してきた頃、ラウロランナは眼下に見える色の痛々しい傷に目を向けて、鎮痛の面持ちで顔を歪めた。そこまで深くはなかったにも関らず、先程巻いたばかりのラミストの布はぐっしょりと血に濡れて、殆どその用をきたしてはいなかった。
それは…きっと時間の経過のせいだけでなく、暴れすぎたからだ。こんなになるまで痛みにもかまわずラウロランナを殺させまいと、色は必死の思いで抵抗していたのだ。
どうして、自分が、この少女にここまで思われる価値があろうか。こんな風に泣いてもらう、権利があろうか。ラウロランナは、深い罪悪感でえぐられるような胸の痛みを感じる。
しかしまた、このように少女に罪悪感を感じるほどに想っていたならば何故傷つける前に気付く事ができなかったのかと、激しく後悔する。自分は、少女を嫌ってはいなかった。あんな風に攻撃的な言葉を投げつけたのも半ば自棄になって、自らを煽ったからだ。
もしも戒めがなかったら、色を抱きしめて何度も何度も謝っただろう。出来る事ならばつけた傷を自分が負いたいと、思ったことだろう。しかし…自分には謝る権利すらない。許しを請うことすら、できない。
それでも身を案じるくらいは許してもらおうと、ラウロランナはしがみついて来る色の耳元に静かに囁いた。
「イル。傷の手当を、しなければ」
しかし色は顔を上げずに首を横に振り、ラウロランナの言葉を固辞した。恐らく色は、不安なのだろうと、ラウロランナは察していた。もしも色がラウロランナから離れている間に殺されていないか、消えてしまっていないか…あるいは、自決してしまうのではないか、と。
ラウロランナはそれを考えてはいたが、しかし他の誰かに決されるまでは偲ぼうと、決めていた。彼女を傷つけるようなことはもう二度としないと、誓ったからだ。
それを死という形で破る事は、あまりに酷だ。それだけはしまいと、心に決めた。
「お願い、です。出血が多すぎる。…私は、イルが治るまで待っていますから」
「…でも………あ。…うん、わかった。行く」
しぶしぶといった表情で色は立ち上がり、おぼつかない足取りで扉のほうへよろよろと歩いていった。やはり血が抜けたのが祟ったのだろう、顔が蒼白としている。
心配げなラウロランナをよそに色はよたよたと歩き扉にもたれかかると、ラウロランナに振り返りひっそりと微笑んだ。
「ラウ。また、美味しいものつくってね」
「……はい」
色はぎいいと軋む扉を身体で押し開くと、ラウロランナを後にして部屋から、去っていった。その後姿を見つめて、ラウロランナは悲哀を込めた微笑を薄っすらと浮かべる。
もしも、奇跡が起きて、自分が生きることが出来たならば、沢山作ってあげよう。沢山作って、色に食べてもらい、また嬉しそうなあの笑顔を見よう。そう、思っていた。
色の笑顔でラウロランナの未来は明るく照らされ、待ち遠しいものとなった。しかし思った未来は訪れず、ラウロランナは半時もせずにその奇跡を、呪う事となる。
打ち付ける雨に誰もが濡れそぼり、静かな心底でそれを受け止めていた。
戦いが、終わる。
かくも大量に流された双方の血は同じくして雨に打ち消され、赤黒い水溜りだけが絶え間ない波紋を広げる。本船が海賊船と接触した時点で勝負は決しており、それを長引かせたのは海賊達の無闇な抵抗だった。結果海賊達は半数以下に減り、殆どが打撃を受けて悲惨なものだったが。
指揮に追われていたダルガは部下の報告を耳にしてある男の前まで足を進め、止まった。ぼろぼろに弱って縛られ小さくまとまる大柄な体躯のを前にして、ただ無心にそれを見下ろし、口を開いた。
「……バンシャー・ドウファだな」
男は目を瞑り、答えない。しかし身体的特徴からいって、それはもう確認済みだった。
『バンシャー・ドウファ』
隣国で名をはせた豪雄の海賊だ。なかなか頭も切れるらしく隣国で一騒動起こした後、国政の安定していないこのパラディス国に身を潜め、巧みな話術と権力の誘惑であの町と締結を結んだのだ。
しかし海賊は海賊、国を揺るがす大事など、やはり荷がかちすぎたのだ。
雨に濡れそぼる惨敗し惨めな様をさらす海賊をいささか皮肉交じりに眺めていると、横に誰かが肩を並べてきた。
「ひとまず終戦ですね」
銀糸の髪から雨露を滴らせ、ラミストは低く呟いた。無表情なのにもかかわらず妙に悲哀を滲ませるラミストの様子にダルガは眉根を寄せてちらりと、目をくれる。
「イルはどうした」
「…怪我を負いました。刺客に、肩を刺され…重症ではありませんが、軽傷でも、ありません」
淡々と答えるラミストの言葉にダルガは目を見開いて、反射的にその肩をがっと掴んだ。ラミストはそれを払いもせずに、ただ無表情のまま、その紺の瞳は虚空しか見つめていない。落ち着きすぎているその様にダルガは困惑して、掴んでいる手に力を込める。
「何を言っている!?おい、命は!イルは生きているのか!?」
「…生きています。ただ……………っ!?」
突然、ラミストはダルガを押しのけて一歩前に踏み出した。虚空しか映していなかったその瞳が再び色を持ち始め、また軽やかな映像をその目に、捉えたのだ。
煌く雨粒の合間に見えた幻のような光景。そして一瞬後には、暗転する。
壁伝いに歩きながら、色は看板を目指して一歩また一歩と足を進めていた。肩はずっきんずっきんとひどく痛むし手のひらもじんじん痛みを訴える。それを耐えて思い浮かべるは、ラミストの顔だった。
痛みで混乱していたのかもしれない。あまりに必死すぎて他が見えていなかったからかもしれない。そんな言い訳を並べ立てても、自分は酷いことを言ったに変わりはないのだと、色は顔をしかめる。
一人じゃないとか、拠り所だとか、奪わないで…それどころか、許さない?よくもそんな事を平気な顔して言えたものだと、今の自分で思って悔しくなる。
色がこの国で無事でいられ、笑う事ができて安心できて眠ることが出来たのは、全てラミストたちがいてくれたからだ。どれだけ自分を思って心配して、守るため励んでくれたのか。目先の思いに囚われて結局もう一つの大切なものを無碍にしてしまった。嫌われても仕方がない。
ラウのことばかりで頭がいっぱいになり、ラミストの顔さえ見ようとしなかった。酷い事を言った。だから色は謝りたくて、歩いていた。謝って、仲直りして、感謝の気持ちを伝えたいと、思っていた。
そうして無心になって上を目指していたらいつの間にかすぐ扉の前までたどり着いていて、扉を押し開いてラミストの姿を探す。ふらふらと歩く血だらけの少女だ、奇異な光景に当然誰もが振り向く。しかし色は辺りを見回してラミストだけを探した。そして降りしきる雨の中に霞んだ、ラミストの銀髪が目に映る。色は傷ついていないほうの手を上げてラミストに気付いてもらおうと手を振る。
「ラミストさ…っむぐ!?」
しかしラミストがそれに気付く前にいきなり後ろから手が伸びてきて、色の口を覆った。くぐもった声で唸る色の耳元に、低い男の声が響いてくる。
「ラウロランナ…しくじったんだね。…大口叩いといて使えねー女」
皮肉気に言うその声はどこかで聞いた事がある気がした。が、それを思い出す前に色の思考回路はストップされてしまう。
ふわりと湧き上がる感覚。とん、と軽く押されて倒れこむ自分の身体。しかし受け止める床はなく手すりの上を滑るように、色の身体は反転して、実に軽やかに船の外に、放り出された。
最後に見たものは冷酷に見下ろしてくる茶色の瞳と、のしかかるような曇天だけだった。