極彩色伝

35.残酷に染められて

「おととっ!うぅう…揺れは嫌いなんだぁ…」

 顔を土気色にさせてよろよろと、色は壁にもたれかかった。部屋を出てからずっと揺れる船内をぐるぐる歩き回っている。出口が一向に現れないのと揺れが激しくなるのとで、色の胸焼けはずんずんと重みを増していた。それでも口を押さえて壁伝いにふらふらと進んでゆく。
 中からでも十分鮮明に聞こえてくる、喧騒の音の数々。どたどたと足音が至る所で飛び交い、時に大きな爆発音で船体が揺れ、人の声が絡み合って色の耳に遠慮無しに届いてくる。
 不安を煽られ、寄せては返す漣のように色の心に押し寄せてくる。それは激しさを増していって、急に上から聞こえてくる音が格段に増したのを耳にしてはじけた。迷いも無く出てはいけないと言われた部屋を飛び出し、ラミスト達はどこにいるのかと出口を探し始めた。

 かれこれ何分経ったろうか、もはや色は己の胸やけに苦しんで一刻も早く上に出たいという一心で彷徨っていた。自分は船酔いする性質なのだということをこのとき初めて自覚して、もう二度と船には乗らないと色は心に決めた。
 仕方が無いので自分の方向感覚は無視して、音が近付くほうへと足を進める。ただ無事な姿が見れればいい。少しだけ覗いて、それでちゃんと誰も傷ついてなければそれでいい。こんな事を考えてはラミストやアナトに怒られるかも知れないが、それはどうしても願ってしまう切望だった。何よりも怖いものは彼らが居なくなってしまう事だったからだ。今だってほんの少し離れているだけでも心配でたまらない。怖くてたまらない。
 そして作戦変更が功を奏したのか前方には上へと通じる階段が見え、更にその頂上にはかすかに光の洩れる扉が閉まっていた。色はそれを見上げると酔いも忘れて駆け上り、ドアノブへと手をかけた。内側からかかっている鍵をはずし、ゆっくりとそれを回しながら手前に引く。吸い込まれるように外気がそこから勢いよく洩れてきて、それに乗って入ってきたのはむっと生臭い血と硝煙の香り。

 覗いた先に見えたのは戦場でも一際美しく映えるラミストの銀髪と、まるでスローモーションがかかっているように目の前をゆっくりと倒れる血まみれの兵の姿だった。





 イルは破天荒な事ばかりしでかすが、自分の事だけを考えて行動しているわけではない。皆それを理解していて、それをまた可愛らしいものと捉えて見つめる。危なっかしいけれど、見てると楽しくなる。落ち着きが無いけれど、賑やかだ。その上驚くほどに素直で…心根が純粋すぎる。

 天使だから?子供だから?
 どちらも違う。イルだから。それがイルの本性であり、イルの存在を占めているとも言えるものだった。それが人の心を惹きつけ、穏やかにさせ、和ませる。
 だけれど今回ばかりはラミストはイルのその優しさを、純粋さを呪った。恨めしく思った。なぜならば今それが彼女自身を最も傷つける役割を、負っていたからだった。

「イル!?」

 扉の奥に見えたのは色だった。出てはいけないと言った部屋を出たのか、船内は入り組んでいるのによくここまでたどり着けただの、一瞬自分でも不思議なほどにのんきな事を思ったがそれはまたその刹那に消え去った。
 扉の奥から覗いていた色は途端に飛び出してその傍にあるものに駆け寄った。見ると血まみれの兵士が横たわっていて、色は膝をついてそれに触れながら何かを叫んでいる。
 その光景を見てぞっとした。きっとあの兵士はもう長くないか…恐らく息絶えているのかもしれない。色はそれに気付かず揺さぶって、未だ流れ出る鮮血に惜しげもなく手を染めている。
 早くこここからイルを連れ出さなくてはならない。そこら中にある残酷な光景にイルが気付いたら間違いなく心が壊れてしまう。あの天使は間違いなく、絶望に染められてしまう。
 それを想像して全身に一気に寒気が走り、刺激されたようにラミストは走り出した。

「殿下っ!?」

 傍で応戦していたアナトが呼んでも、ラミストは振り返らずいるのもとへ駆け寄った。何よりも早く、最優先に、イルをここから連れ出さなくてはならないと頭の中で警報が鳴っていた。

「イルッ!見るな!!」

 まだ胸から迸る兵士の血を色は両手で押さえ、必死に止めようとしていた。瞳孔は開いて何を見ているか自分でもわからないのだろう、ただ一心にそこに手をあてがい、その指の間からはとめどなく鮮血が沸きあがっていた。目の前の死に掛ける命だけに捉われてラミストの声も届いていない。
 ラミストは色の体をそこから引き剥がしてそれから背を向けるようにして色の視界から遮った。色の顔は蒼白としていたが、引き剥がされた瞬間また抗うようにラミストの胸を押しのけようとする。

「あ…や、ダメっ。死んじゃうっ…ダメ、ダメ!離してっ!!その人死んじゃうよッ!離してよッ助けなきゃ!!」

 色の目はラミストの背後から見える兵士の体だけを映していて、必死に抵抗する。ラミストに両手をつかまれてもなお首を横に振り、拒絶の姿勢を見せる。ラミストは色の頬を両手で挟んで言い聞かせるように叫んだ。

「あれはもうダメだ!」

「何言ってんのあんなに血がっ!ダメッ!止めなきゃっ!」

「イル!!落ち着けッ!!!」

 目を真っ直ぐに合わせて、ラミストは叫んだ。紺の瞳に見据えられた瞬間、色の体は力抜けたように抵抗を止めると、しばらく呆然としてそのうちに体を小刻みに震わせ涙をその目からつ、と静かに涙が一筋頬を伝った。

「ら、ラミストさ、ま…」

「ああ、イル。大丈夫か?怪我はないか?」

 ようやく色が落ち着いたようなのでラミストが安心したようにかすかに微笑むと、色はラミストの服を握り締めて嗚咽を洩らしながら声を絞り出す。

「らっ、ラミストさ、まっ!どうしよう、どうしよう…っ!し、死んじゃうよっ!その人、あたし、の前で倒れてっ死んじゃうっ死んじゃう、死んじゃうっ!たすけてっ!」

「イル、イル。大丈夫、いいから見るな」

 混乱する色を抱きとめてラミストは言い聞かせるように目を合わせようとする。それでも色の目はラミストの背後に釘付けになっていて、頬にまで飛び散った血を洗い流すかのように涙を滲ませた。

「ど、してっ?や、やだよぅ。やだ、だめ…死んじゃだめだよ…死なないで、死なないでぇっ。いやだああ!!!」

 悲痛な叫びを上げて色は泣き叫び、その目はすでに行き絶えた兵士の姿を映していた。ラミストは色を胸に抱えて顔を覆い隠すが、色の手は兵士の命を掴もうと宙をもがく。
 人の死を初めて目にした色にとって、それは受け容れざるものだった。目の前の兵士は生き延びていなければならない。死んではいけない。落ちた命など、あってはならない。全てを元に戻して、呼吸をして笑って歩き出して。
 それでも願いは届かない。周りにあるのは殺し合いと、落ちてゆく命の儚い残り火だけ。
 ふと色は、鼻を突くつんとした匂いに気がついた。顔を少し離してみるとラミストの胸には自分のつけた血がべっとりとついていて、また自身の手も鮮血に染められ、ぬるりとした感触を生々しく色に与えた。
 何もかもが残酷で、何もかもが絶望的に見えた。それは周りだけではなく自分までももうそれに染められているのだと思い、目の前が真っ暗になった。がたがたと震えながら必死にラミストに掴まる。

「ら、ラミストさ…」

「…イル、もう中へ入ろう。大丈夫、大丈夫だから」

 あまりに弱弱しく、脆く崩れ落ちていきそうなほどに力の抜け切った色。
その純白だった服は真っ赤に染まり、その折れそうに細く白い腕だけでなく頬にも、黒く艶やかな髪にも、血が付着していた。虚空を見つめ呆然と泣き続ける色の目をラミストはその場しのぎに拭い、痛々しいその様に心痛を覚える。
 こんな事になるならば部屋に鍵をかけていればよかった。どうせなら縛り付けていればよかった。外に出れないように、何も見ないようにあらゆる手を尽くしておくべきだった。
 ラミストはどうしようもない後悔と自分の不甲斐無さに歯を食いしばり、腕の中で震える色をそのまま抱きとめながら立ち上がる。
 しかし運命の呪いか、戦場の切望か。
 天使を逃すまいとするかのように立ち上がったラミストに横からいきなり鋭い刃が降りかかってきた。ラミストは色を片手で抱えたままもう片方の剣を握る方でそれを受け止め、火花を散らせてそれをいなす。
見るとそこには見上げるほどに巨漢の髭を生やした大男が、その体躯に見合った大振りな刀を掲げてラミストと色を見下ろしていた。深い嫌悪感を誘う笑みをにやりと浮かべて、野太い声で男は口を開く。

「それが天使か…。ふん、血まみれに穢れているではないか。堕ちた天使なぞいらんだろう。…よこせ」

「…堕ちてはいない。穢れてもいない。これは俺の天使だ、気安く近付くなっ!下種が!!」

 嘲るように見下す男の視線に色が晒されることが許せなかった。今までになく自分の中の怒りが猛り狂うのが解り、ラミストはその激情に任せて射殺すように男をにらみ上げて男に一閃を放つ。
 男はそれを余裕の表情でよけたが、また眉をひそめ、頬に手をやった。見るとわずかに切れ込みが入っていたのか、血が滲んでいる。ますます男の笑みは深くなり、ラミストの怒りを膨張させてゆく。
 対峙するそれぞれの将の狭間で、傷ついた天使はただただ呆然と、横たわる兵士の姿だけを見つめていた。

  

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